第94話「寝屋」
ネリス───……。
「…………クラム?」
鈴を転がすような音。
それは、かつて俺のものだった声───。
彼女はネリス。
美しく可愛らしい少女のような外観で、
俺の幼馴染で……───嫁、だった。
「…………」
言葉を発することもできずに……。
──クラムは、ただネリスを見つめる。
薄着を
しっとりと汗をかいており、行為のそれを終えた後のような甘い……酸えた匂いを立てていた。
そこに混じる鉄錆のような匂いは、部屋の隅でゴミのように無造作に転がされている死体から漏れているもの。
異様な空間。
死体と……ネリス。
あぁ……まさしく『勇者』の寝所だ。クラムにとっての──地獄……。
その住人たるネリス。
彼女をジッと見つめるしかできずに、クラムはただただ……その場に立ち尽くす。
ネリスも───どこか焦点の合わない瞳でクラムを見つめ返している。
えっと、
なにか……。
何か……。
ナニ、カ……。
ナニカ、イオウトシテイタノニ───。
「…………」
ネリスはまるで夢でも見ているかのように、
ノロリと起き上がると、白い肌を曝しつつクラムへと……ヨロヨロと向かう。
だらしなく涎の垂れた口を、
「……く、ラム?」
あ……。
「…………」ネリ───……。
…………。
……。
ネ、
「……………………ルゥナは、どこだ」
……。
絞り出した言葉。それは最愛の娘の
ビクリと震えるネリス。
ルゥナというの単語に、焦点の合わなかった目がゆっくりと光を取り戻していく。
かつてみた、あの幸せだった家にいたネリス。
懐かしい、あの日々のネリス。
こみ上げる懐かは感じたものの、
それだけだ………それだけだった。
クラムも予想だにしない情動。
驚くほど、冷めていた。
そう、
ネリスを見ても───感情は動かない。
なんというか、
なんと言えばいいのか、
何か───。
そう、何か……。
もっと何かを答えようと考えていた、はず───。
──
──もしかすると、出会った瞬間に全てを許してしまってただ抱締めるとか……。
──事務的に「迎えに来たよ……帰ろう」とか……さ。
色々考えていたし、シュミュレートしていた。
───いたんだ。
だけど、
一目会って……全てそれらが吹き飛んでしまった。
言葉も発することができず、
拒絶もできず、
抱擁もできなかった───。
なぜなら、
見て分かった……わかってしまった。───わかっていた。
これは、
俺の知っているネリスではない、と───。
ここにいる女は、
エンバニア家の美しい嫁ではなく……肉欲に溺れた『勇者』の女だ。
…………。
……。
一度、瞑目するクラム。ネリスから視線を外し、間合いを切ると、
再び見る。
その目にはもう
「……ルゥナに会わせろ───ネリス」
スッと、銃を降ろすと……ネリスに無造作に近寄る。
「クラム……」
ク───………………。
ネリスは熱に浮かされた様に呟くと───。
突如、何かに思い至ったように、カッと目を見開いて──……て、て、て、て───。
「ひ!」
一歩後ずさると、
「く、く? く、ク、クラムぅぅぅっぅぅぅう!!??」
まるで……。
今初めて気付いたとでも言うように、
「……ネリス」
あぁ、そうだ。
もう……あの頃のネリスはいない。
もう、取り戻せない。
もう、取り戻さない。
もう、
いらない。
「何度も言わせるな」
もう、お前は要らない。───だけど、
だけどな、ネリス。
……。
「ルゥナは、どこだ?」
───ルゥナは返してもらう。
俺の
「ひぃぃぃぃ!!! 嘘! 嘘嘘うそぉぉ! テンガ……テンガぁぁ!」
──テンガァァァッァァァ!!!
そう叫ぶネリスを見ても、少しも動揺しない自分がいた。
分かっていたさ……。
あの日……野営地でネリスと
だから、俺の心の整理以上の何物でもない。
取り戻すべきはルゥナ───。
語るべきは、シャ──『叔父さん! 後ろぉォぉ!!』
キィン! パキッ…………。
乾いた金属音はエプソの装甲を軽く削るのみ。クルクルと宙を舞っているのは小さな刃物の欠片。
刺された?
あぁ、
……刺されたのだ。
もちろん、エプソを貫けるはずもなし───。
下手人は小柄な人物で、少女と見まごうばかり。一瞬、リズと姿が交差するが、
「───ミナ……か」「っっ! にぃ、さん!!」
ネリスとは違い、最初から明確な意識があり、目には敵意と驚愕が張り付いている。
クラムがクラムだと気付いていないわけではなかったのだろう。
顔を正面から見て確信しつつも、
それ以前にすでにクラムだと看破していた。
そりゃ、玄関先で怒鳴れば誰だって気付くさ。
ミナは───…………その上で、
必殺の距離と、
必殺の力と、
必殺の覚悟で、
……狙ったのが腕や足なら、
だが、ミナは───初めから殺すつもりで腹を狙い。かつナイフが折れるほどの力で、無言で襲い掛かってきた。
バイザーを脱いだクラムが、生体センサーなどの走査能力を一時的に凍結していたが故でもあるが……それ以上にこの場所で明確な殺意を向けてくるものがいるはずがないという油断が生み出した一瞬の隙だった。
もっとも……エプソを着こんだクラムに、ナイフ一本の小柄な女性で勝ち目などあろうはずもない。
「随分な挨拶だな。ミナ……」
「き、気安く呼ばないで───」
折れたナイフを手にそれでも気丈に睨み返すミナ。
ひぃぃぃ、と叫び続けるネリスとは違い、意思の疎通は可能に見えるが……。
「は! 知るか。──
ドンとミナを払いのけると、ネリスの手を掴み引き摺る。
「いやぁぁぁっぁ! いや、いや、いやぁぁぁ! テンガ、テンガぁぁぁ!」
もはや壊れたラジオでしかない。
この状態で話ができるのか、
『……』
ミナの処遇を決めるのはクラムではない……それはリズが決める事。
そう、リズの心次第。
それさえあれば……。
もう、
リズが殺せと言えば殺そう。
リズが救えと言えば救おう。
リズが話せと言えば話そう
クラムにとってミナの扱いは───一目会って、そこまで落ちた。
……もう戻らない。戻す気もない。戻らなくていい。
『…………ぉ、……ぁ』
簡易バイザーではリズの表情までは分からない。
だが、見える。聞こえる。匂いがする。
きっと、
涙を
ここでクラムが、「リズ、俺に任せろ」とそう言うのは簡単だ。いっそ言ってしまいたい気持ちもある。
だが───……できない。してはいけないと思った。
これは……母と子の問題だ。
もはや、
血の繋がり、思い出───それらこそ共有できても。
もはや別の集団で……違う家族。ミナはもう、兄弟という絆があるだけの他人……。
「に、い、っさん!」
見たこともない複雑な厳しい表情をしたミナは、ギリギリと歯ぎしりしつつもナイフを握っていない手を伸ばし、握ったり閉じたりする。
あたかも、失われた家族の絆を掬い取ろうとしているかのように。
だが、そんな仕草がなんだ?
今、スピーカーを通して聞こえる、俺の最後の家族に通じるとでも?
なぁ、リズ───。
う、
ううぅぅ──。
『…………ぅぅぅぅぅううあ』
リズの
まだ……。
結論は出ない。
それでも、
いい───。
考えろ。
考えろ……リズ。
俺の全てはお前のもの───……。
お前が殺せと言うなら、俺の手はお前の手だ。ミナをくびり殺そう。
お前がミナと会いたいと欲するなら、俺の体はお前の体だ。ミナを抱きしめ連れ帰ろう。
お前が話せと言うなら───俺の声はお前の声だ。お前の気持ちを代弁してやる。
だから、
考えろ。リズ───。
俺は、俺の欲するものを求める。
悩め、
悩め、
それでいい。
お前が望めばいつでも、ミナのもとへ引き返してやる。
それまでは、
「テンガ、テンガァァッァァァ!!」
叫ぶネリスを引き摺り、抱き上げる。そこに優しさは───ない。
「ああああああ! 離して! 離してぇぇ! テンガぁぁぁ!」
これほど呼んでも現れぬテンガ。
ここにはいないのだろうか?
寝所を去るクラムの背中をミナが睨み付けている。
そして、簡易バイザーからはリズの慟哭が響き続けている。
ここは……煉獄。
あの日と地続きの───俺とリズの煉獄だ。
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