第32話「クラムの日常」

 そうして、冒頭へ─────シャラと別れたあの日の夜にクラムの思考は戻ってきた。


(ちくしょう……)


 呻くクラムの顔に冷たい水滴が降り注ぐ。


 ポツリ、

 ポツリポツリ……。


 

 と───、


 また、あの冷たい雨が降り始めたのだ。



(どうして……────)



 ザァァァァァァァァ……。

 ザァァァァァァァァ……。


 そんな中でも、クラムはいつの間に寝入ってしまっていたらしい。

 怒りに震え叩き続けた拳はけ、血だらけになっていた。


 だが、

「あれ? こ、これは──……」


 ドロドロに汚れていると思った手はいつの間に包帯が巻かれており、血だらけに見えたのは、雨に濡れてそれがあふれ出しただけのようだった。


「?」


 ───いったい、誰が?


 自分で手当てをした覚えもないし、囚人兵である自分には、包帯なんてものは支給されない。


 雨が降りしきる中、疑問に首をかしげるクラムのかたわらに人の気配があった。


(う……マズい!)


 気づかないうちに誰かがいる。

 近衛兵か?

 もしや、眠ていたことをとがめられるのかとビクリとする。 



「彼………眠ったわ」


 

 そう言葉が降ってくるが……。

 こんな言葉───。


 今の彼女が………?






「義母さん……?」





 雨に濡れることもいとわず───シャラがほんのすぐそばにたたずんでいた。


 見上げると、上気していたであろう頬は冷め、やや青くなっていた。


 ぐっしょりと濡れた髪と服。


 それは、今さっきここにいたというものではないようだ。


「手……───大事になさい」

 フと──シャラの……義母さんの懐かしい声を久しぶりに聞いた気がして、気がほぐれてしまった。


 思わず、不意にジワリと涙が溢れた。

 だが、幸い雨だ。よほど近くでもない限り気づかれることもないだろう。


「じゃ……。行くわね───。彼、しばらくは起きないから、今日は帰りなさい」


 それだけ言うと、きびすを返し、「ハレム」へと帰っていく。


 その背がひどく小さくなり、また震えているように見えた。


「───待って! 待ってくれ義母さんッ」

 思わず呼び止めるクラム───。


 でも……。

 特に何かを言いたいわけでも、何かをしたいわけでもなかった。


 ただ、

「……何?」


 振り向いた彼女の顔は雨に濡れ、まるで泣いているようにも見えた。

 彼女に限って、それはあり得ないだろうが……。


「あ……。その───や、あ、そ、ありがとう!……義母さん」


 手を示して、手当を感謝すると伝えた。


「ん……」

 コクリと頷き今度こそ帰ろうとするシャラ。


 しかし、クラムは声だけでは……満足できなかった。

 どうしようと思ったわけではないが──。


 シャリンと鎖を鳴らして一歩たたらを踏み、思わずシャラの手を掴んでしまった。


「ま、待ってくれ……義母さん!」


 そのまま、強く引き寄せ、思いっきり抱きとめてしまう。

 彼女は……華奢きゃしゃで、驚くほど軽い。


 そして、鼻腔いっぱいに広がる匂いは、情事のそれではなく、シャラの───彼女だけの香りだった。


 雨が、テンガとのそれを洗い流してくれていたようだ。


「きゃ……!」

 小さく悲鳴を上げるシャラを腕に抱き、間近で見ると雨に濡れた衣服は透けており、もともと薄い夜着のせいでほぼ全裸に近くも見えた。


 あまりにも煽情的に過ぎるそれに、思わず唾を飲み込むクラム。


 背徳的なまでに……。

 そう、───恐怖すら感じる美貌だった。


「は、離しなさい!」

 

 小さく抵抗するシャラを見て───なんと言えば……?


 いま、何て言えばいいんだよ──?


「あ、ぅ……。あ、か、風邪……ひく、よ。義母さん」


「離して!」


 それでも、離さずギュウゥゥと思いっきり抱きしめ……彼女の肌に顔を埋める。


 毎日毎日、情事を見せつけられ……甘い声を聞かされて、家族が「女」になるその様をまざまざと見せつけられて──クラムとて劣情を催さないわけではない。


 そんな感情を持ち得てはいけないと知りつつも───……どうしようもなく、日々の精神的な負荷は、クラムの中におりとして溜まっていく。



 しかし───シャラは、だめだ!


 こんななり・・で……『勇者』の「女」でも───家族だった・・・人。


 愛おしい、在りし日の幸せの残滓ざんしであっても、───たしかに家族だった。


 家族。


 家族……。


 かぞく──。



 カゾクダッタヒト───。



 シャラ……。

「ごめん。ただ、お礼が言いたくて───」

「ッ……───」


 バっと身をひるがえすと、もう振り返りもしないでシャラは去っていった。


 ただ、離れた「ハレム」に入る瞬間、一度だけクラムを見る。


 その目が……。

 口が──────。


 声が─────────!


 あぁ、なんだクソ!

 ……雨でけぶりよく見えない───。



「──────……」



 口が動いて何かを言った気がするが……聞こえない。


 聞きたくない。







 もう何も───…………。

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