第3話 男の標本


 戦争が起きた。彼には特に家族も、恋人も、そして友人すらもいなかったので、大急ぎで彼の家の隣にたつ物置小屋みたいな自作の小さな博物館に駆け込み、飾ってある宝石を抱え込めるだけ抱えて自宅の地下シェルターに逃げ込んだ。


 シェルターは最新式ではないが頑丈で静かで、近場での爆発音がほんのたまに聞こえる程度だった。彼は完璧に守られていた。しかし間抜けなことに彼は宝石以外を持ち込むことをしなかったので、もともと備蓄していた缶詰めや乾燥食、水とサプリメントくらいしか食べられるものがなかった。


 幸い多少の電気や火を使う設備は整えてあったので、しばらくの間は食糧を節約しつつも満足のいく食事がとれた。問題は退屈で、本やノートすらなかったため、彼は彼の宝物を何時間も眺め続けるか、一人でひたすら頭の中にこもって過ごすこととなった。


 物語やここでの生活の記録を作ろうとしても、浮かんだ言葉は端から流れて消え去り残すことができなかった。はじめのうち、紙切れの一枚、鉛筆の一本さえ持ち込まなかったことを彼は烈しく後悔した。しかし、しばらくすると実際それについては今までの生活と大した違いはないのだと気が付き、紙や鉛筆、ひいては文字の類を求めることはなくなった。


 時計などもあるにはあるが、一度止まっているのに気が付いて乾電池を入れ替えて以来時間の感覚もなくなってしまい、だんだんと頓着しなくなっていった。同じようにほとんどのことが気にならなくなり、はじめのうちはほんの気持ち程度とは言え清潔に整えていた髪や髭も伸びるに任せた。


 彼の唯一の気がかりはシェルターの外の博物館に残してきてしまった夕焼け色をした大きなパパラチア・サファイアの標本のことだけだった。他の脆い性質の宝石たちについてはもうとっくに諦めていた。


 外の音はいつのまにか全く聞こえなくなっているように思われたが、臆病な彼はシェルターの外に出て現状を確かめる勇気がなかったので、誰かが戦争が終わったのを知らせに来るのをただただ待ち続けた。


 数年の後、シェルター内の備蓄はとっくに尽きていて、戦争も終わって戦後処理が進められる頃、敗戦国と戦勝国の代表がそれぞれ数人派遣されて作られた調査団の、そのうちの一人の青年が地下へと続く扉に手をかけていた。


 中には一体のミイラが身体を丸めて座っていた。彼の腹には赤ずきんに登場する狼の末路のように大量の宝石が詰めこまれ、劣化して裂けたその一部からは薄暗闇の中に輝く数十センチメートルほどの天の川が溢れ出ていた。



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