第2話 黒髪の少女
―――――この世に生きるどれだけの人が、絶望という言葉の意味を正確に理解しているだろう。
いや、勿論ただ単にその言葉の意味ということでなら、義務教育を終えるよりも前にほとんどの人が知ることになるのだろうが、その言葉に内包された苦悩、葛藤、悲哀、諦念、そして今私の心の大部分を占める空虚感を一体どれだけの人が生きているうちに実感と共に理解するというのか。
数多くのフィクション作品の中ではこの絶望と呼ばれるものの描写は光のとどかない暗闇の中、と表現されてきたものだが、私が思うに本物のそれは明かりの明暗すら脳が判別することを拒否してしまう。
何故ならほんの少しでも今自分の中にあるそれを認識しようものなら、自分自身を構成するすべてが砕け散ってしまうから。そしてバラバラになったが最後、その余波だけで肉体を同じように傷つけて生命を維持することも難しくなるだろう。
しかし生物の根源として当然備わっているヒトの本能は自らを脅かすそれらを容認しない。結果としてそれらを厳重に封をして意識の深い深い底に眠らせ、傷ついて満足に作動しなくなったそれも現実の意識から一時的に切り離され、残ったのは機械のようにインプットされた行動パターンを繰り返すだけのガラクタだけだった。
「会長。ここにあった書類は整理してそこの棚に分けて入れておいた。特に不備は見当たらなかったが、気になるなら後で確認しておいてくれ」
そう言いながらやや癖のある黒髪の眼鏡の少年は、今まで自分が使っていた筆記用具を鞄に仕舞い顔を執務机の方へ向けた。そこでは同じように仕事をしていた少女、如月弥行がこれまた同じく帰り支度をしている。
「お疲れさまでした。書類の方は優秀な副会長である綾野沢君を信頼していますから、必要ないでしょう」
そう言って弥行は微笑みをつくる。
その控えめだが柔らかな笑みに少年、
「ならいい。僕はこれから職員室に寄って下校するが、君はバスの時間が近いのだろう?何か用事があるならついでに請け負うが?」
「いえ。今日は特にありませんよ。お気遣いありがとうございます。指摘通りそろそろ行かないと間に合わなくなるので、私はまっすぐ帰らせてもらいますね」
「…そうか。―――あ、それから…」
「…?どうかしましたか」
弥行は若干困惑した表情を浮かべながら、少年を振りかえる。
少年はそれを見て無意識に顔を緩ませながら、彼女の手を取った。
「もうすぐ君の会長としての役目は終わる。また改めてちゃんとした場を設けて話をするとは思うが、次の会長選挙が明日に迫った今だからこそ言わせてほしい。
僕は君の背を支える副会長として二年間過ごせた日々が幸せだったと思っている。本当にありがとう」
「……いえ。むしろその科白は私の方が言うべきです。ただの一般市民にすぎない私が、形だけでもこの学園の生徒会長としての責務を果たすことが出来たのならば、それは周りにいた貴方やその他みんなの力添えあってこそでしょう」
弥行は軽く掴まれていた右手をそっと離す。
少年は彼女の言葉にまたわずかに自分の鼓動が高鳴るのを感じたが、それと同時に言葉に言い表せない謎の焦燥感が高まっていくのを止められない。
それは目の前にいる少女と親しく付き合い始めてから今日までずっとひっそりと自分の中で燻ぶり続けてきたものであったが、今になって何故かそれがはっきりとした形になっていくのがわかる。
そのことに内心動揺しながら、具体的な理由を付けられないために彼はそれを気のせいとして見過ごした。
そして急き立てられるように今迄心に封じてきた思いまで口にしてしまう。
「確かに君の功績の中に僕たちの協力によって成し得た部分は決して少なくはないだろうが、それも君が僕たちのリーダーであってこそだ。君がトップとしての立場を常に自覚し僕たちの力を十全に生かせるよう心配ってくれたことを忘れるわけはないし、何より君だったからこそ僕は付き従う判断をしたのだしそしてそれは実際正しかった。
生徒会長、いや如月弥行さん。学園を卒業しても出来れば君との関係は今まで以上に親密なものとして続けていきたいと僕は思う。
そして願わくば、いずれ公私ともにお互い支え合えるような間柄になれたらと思っている」
(公私ともに……お互い支え合えるような関係に……、ですか)
弥行は綾野沢と別れた後、校舎を出て周囲の名も知らない生徒からの別れの挨拶に律儀に逐一返しながら、先ほどの副会長との会話を思い返していた。
(彼の気持ちには随分と前から気が付いてはいました。というか最初に私に生徒会長になるよう言って来た時から、そこに下心が見え隠れしていましたしね。とはいえ……)
弥行は外見をいつも通り万人が魅了される鉄壁の微笑に保ちながら、内心頭を抱えて座り込みたくなる衝動を抑えていた。
(こんなに裏表があって流行りものに疎くて、友人たちとの会話に適当な相槌しか打てないようないわゆるボッチ属性のつまらない女に、よりによってどうしてあの超優秀な副会長が……?)
そして割とどうでもいいことを考えていた。
(施設の子やクラスの友人が貸してくれた恋愛小説や少女漫画では、あの手の王子様キャラは笑顔に裏表がなくて,自分の思っていることを素直に言葉に出来て、他人の好意に鈍感なタイプに魅かれると統計学的にも立証されているというのに、なぜどうして私なんかに?他にももっと可愛い子いたじゃないですか。
ほら、最近転校してきた書記の双子とか。顔は同じなのに性格が対照的で姉が犬っぽくて妹が猫っぽくて、モフモフ大好きでしょっちゅう近所の人懐こい野良猫を膝にのせて撫で回してしまう私の右手が、つい彼女らの頭の上に吸い寄せられそうになるくらいには可愛らしくて庇護欲を誘われそうなものですし。
あと親が日本で有名な高級ホテル会社社長の会計も。スタイルが抜群でとくにあの大きなお胸は男女問わず人類の夢が詰まっていて、そしてその包容力溢れる人柄は健全な男子なら魅力を感じずにはいられないと思うのですが。親が世界規模の財閥の会長である彼ともきっと釣り合いが取れるでしょうに。
それに比べて私は……)
そこまで考えて弥行は人知れず溜め息を吐く。
如月弥行にとってこの学園に入学したのは、ただ単にバス通学のしやすさと、成績上位者が入学時から卒業までにかかる諸々の費用の少なさからだった。
お金に余裕のない施設に厄介になっている身としては中学を卒業した時点で働いても良かったが、今の時代中卒でしかも女で正規雇用してくれるところは多くなかったし、そもそも人のいい施設長から高校までは学業に専念してほしいと言われたため、弥行は学費や入学金は勿論教材や指定の制服にかかる費用なども含めて高校三年間最も安くで済む学校を必死で調べ上げ、通学費も含めてより良い高校を選んだ結果がこの学園だった。
条件として三年間成績を一度も落とさず学年一位を取り続けるのはなかなかにリスクが大きかったが、高校卒業まで半年を切った今現在までに学園にアルミ1グラム分も支払ってはいないこの状況を思えば、弥行は中三時の自分の見通しの確かさを称賛したくなるほどだった。
ただしそんな彼女にも誤算としか言えない事態というのがあり。
(世界の政財界の重要人物たちの卵が揃うといわれるこの学園なら、いくら優等生でいようとも一般庶民の中でも貧しい部類に入る生活をしている私など路傍の小石にすらなれないと踏んでいましたのに、何を間違ったら生徒会長になれるというのでしょう。幼稚園小学校時代はボッチを極め、中学後半からなんとか人並み程度に人と接することを覚えた程度のポンコツでしかないというのに……)
弥行は周りから”女神の微笑”と呼ばれた自分の頬を右手で触る。それは彼女がまだ『あの日』に負った傷跡を抱えている証左だった。
(『あの日』の出来事があってまともな人間と言い難い生き物になった私も、同じ境遇の仲間たちと共に生活する中でどうにか自分の感情というものを思い出して、その中でせめて周囲の人々に不快感を与えないよう感情を表現する術を身に付けようとした結果がこれではあるのですが、外身を幾ら取り繕ったとしても中身は『あの日』から何一つ成長していないのだと知ったら彼はどう思うのでしょう。
今だってそう。私は私に期待し信じてついて来てくれた皆の為に“生徒会長”を演じてきたわけですが、もしここに心の中を映し出す鏡があったなら、その中の私は一体どんな
弥行は頬にあてていた右手を強く握りしめ、ズキズキと芯に響く胸の痛みをやり過ごす。
(この痛みとも付き合い始めてから大分長くなりますね。健康診断ではいつも問題なしなのに、これだけは一向に直らないどころか年々強くなっているように思えます。特に生徒会長になってからは余計にひどくなってきて、こればかりは原因もわかりませんし本当世の中ままならない―――――っつ!!!)
弥行は突然首の後ろに走った強烈な痛みに体を屈めて、首元を確かめる。しかしどこにも異常はなく、であるのに胸の痛みはさらに強まりその中で誰かが「今がその時なのだ」と心に訴えかけるのを感じた。
(今がその時……?一体何のこと……?)
そして衝動的に後ろを振り返るとそこは校門の前で、何台ものリムジンの中に見知った顔とそうではない顔を見止めて、それを脳が理解するより前に自分自身訳も分からず全速力で駆けだした。
弥行の常にはない行動に周囲にいた者達から困惑した声があがる中、彼女は聞こえないとばかりにその間を駆け抜けて目標まであと少しとなったところで違和感の正体を突き止める。
「全員その場に伏せなさい!!!」
直後に響き渡る銃声。間を置いてあがる悲鳴。
気が付くと弥行は男二人と突き飛ばした綾野沢の前に立ちはだかっていて、衝動的に拳銃を撃ってパニックに陥っている隙をついて一人を押し倒し拳銃を奪う。そして振り返ると元々拳銃は一丁しかなかったのか、ナイフを振り回す男を綾野沢が軽々と取り押さえていた。
そのことに安心してふうと息を吐き出すと、何故か全身から力が抜けて仰向けに倒れ伏す。
倒れる直前に見た先の地面は真っ赤に染まっていた。
「……みゆきっ!!?しっかりしろっ!!誰でもいい速く救急車を呼べ!!お前は直接保健室に連絡を入れて保険医を呼び出すんだ!!」
「わ、わかりました!」
「副会長様っ!!私はどうすればっ」
「お前は止血できそうな清潔な布と鋏を持って来てくれ!!他の奴らはそこで伸びてる男どもを取り押さえてろ。他に何か隠し持って無いか確認してからなっ!」
「はいっ!」
綾野沢はその場にいた全員に的確な指示を出しながら弥行の状態を確認し、その出血量の多さに顔を青ざめながら応急処置をする。弥行はその間刻一刻と自分の命が体から抜け出ていくのを感じながら、自分の名を何度も呼びながら懸命に手当てする少年を見上げた。
(……これでいい。あまり長くない人生でしたが、少なくともこんな私でも人一人の命を救えたのですから)
「みゆきっ!みゆきっ!お願いだ、頼む、もう少し頑張ってくれっ!!!」
(綾野沢繁人君。こんなガラクタな私を傍で支えてくれてありがとう。それと結局言う機会がありませんでしたが、貴方と最初に会って話をした図書館ですが、実は何日も前から貴方が偶然を装って私との接触を図ろうと後を付けたり待ち伏せたりしてるの気付いていたのですよね)
「………っおいみゆき!!目を明けてくれ!!!頼むから……」
沢山の怒号と悲鳴と懇願からの叫びが交じり合う喧騒の中で、如月弥行の意識はブラックアウトした。
カチリ。
世界の運命が書き換えられた。
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