ツンドラの匣
「そ、そうなんですか……あの先輩が……」
昼休み。いつもの定位置、裏庭のベンチにて。
琴音ちゃんに槍田先輩のその後の顛末を伝えた。
案の定、琴音ちゃんはどう反応していいのかわからないようで、何やら考えるように黙ってしまい。
俺はこめかみに手を当てる。
まあ、槍田先輩のことはわりとどうでもいいんだけどね。
今回の問題は、落ちこんでいるナポリたんをどうやって励まそうか、ってことだから。
「あのさ、琴音ちゃん。槍田先輩は……」
「……幸せ、ですよね」
「へっ?」
俺が『先輩はどうでもいい』と続けようとしたところに琴音ちゃんが割り込んできて、よくわからない結論が導き出されたため、俺はマヌケ声で応えてしまったが。
「経緯はどうであれ、彼氏さんが一生そばにいるようになったんですから」
「……」
「寄り道はしたけど、最後は二人、固いキズナで結ばれたんです。幸せな結末だと思います」
「あ、ああ……」
琴音ちゃんは、結局そう自己完結したようだ。
でも槍田先輩は、寄り道どころか崖っぷちだった気もするなあ。まだ人生二十年も生きてないってのに。浮気の第六天魔王レベルでしょ。固いキズナというか、硬いアレで結ばれてたし。
うーん、そう考えると。
槍田先輩のことだから、結局またそのうちに誰かに股を開くような未来が想像できるんだけど。
いやでも、さすがに今回は強烈な因果応報食らったし、懲りて反省して、もう二度と浮気しないと決意できただろうか。
もしそうならば、果たしてその決意は、恒久的に継続するものなのか。
結局、浮気をしたパートナーを許せるかどうかは、された側がその反省と決意を信じられるかどうか、なんだろうな。
俺はもう佳世のことを信用などできはしないから、自分に置き換えて考えても仕方ないけど。
「あ、あのさ、琴音ちゃん」
「……? なんでしょうか?」
「もう、槍田先輩は……浮気をしないと思う?」
「……えっ?」
「たとえ彼氏さんが一緒にいると宣言しても、槍田先輩のほうが同じ轍を踏まないとは限らないし」
「……」
そこでおたがいに少し黙り込んでしまうが。
「……わかりません」
「うん……」
「でも、すべてを失ったと思っても、実は大事なものが残っていると気づいたら……自分の愚かさを心から悔やみ、改心できるのかもしれませんね」
そんなふうに返してきたので、今度は俺が考えこむ羽目になる。
パンドラの匣、みたいなものだろうか。すべての絶望の中に残った、希望という宝物。
「あ」
そこで頭に浮かんだのは、初音さんのことだ。
この街にたどり着いたばかりの初音さんは、この世の終わりみたいな絶望に包まれ、自暴自棄になっていたはず。それでも、琴音ちゃんという唯一の希望がそばにいることに気づき、生まれ変わった。
──そして琴音ちゃんは、それを信じているんだろう。
人は、これ以上ない絶望の中でこそ見える一筋の光を見つけられたら、悔い改められるのかもしれない。オトコ食い改めよ。このネタ二度目だが、性書にも書いてあるのでへーきへーき。
「……そっか、うん。そうだね、きっと槍田先輩も……大丈夫だよね」
「はい、そう信じたいです……」
「槍田先輩は、浮気という『パンドラの
「ずいぶん詩的な言い回しですね」
「ごめん中二病気取ってみた」
冷静に考えれば、『箱』じゃなくて『匣』っていう時点で中二くさいよな。作者、いい年なんだから中二病はいい加減卒業しろよ。
──と、メタるのはそのくらいにしておいて。
うん。
今のことをナポリたんに伝えてあげれば、それで解決しそう。
気が晴れた。
俺は満面の笑みで、琴音ちゃんに向かい合う。
「……今日さ、これからナポリたん家にいって、ご飯食べない? おごるから」
「え? い、いいですけど……おごりというのは気が引け……」
「モーマンタイだって。琴音ちゃんのおかげで、悩みが解決したお礼だよ。ナポリたんが帰ってくるまで、一緒に」
「は、はい」
俺が差し出した手を恐る恐る握ってきた琴音ちゃん。そこで笑顔が咲いた。
そのままゆっくりと二人で歩き出すと、なんとなくいい気分になったせいか、お得意の軽口が、つい俺から漏れ出してしまう。
「俺も、パンドラの箱をムリヤリ開けさせられたけどさ──」
──琴音ちゃんが、希望として残ったね。
だが。
最後まで言い切る前に、つないだ手を思い切り引っ張られた。
「……んあ?」
思わず琴音ちゃんのほうを見ると、頬を膨らませながら、俺をにらんでいる。
「……祐介くんは、浮気するつもりなんですか?」
あれ? パンドラの匣じゃなくて、ツンドラの匣を開けちゃったの、俺?
「い、いや、そうじゃなくてね」
「許しません!」
ふくれっ面のまま、琴音ちゃんがつないだ手に力を込めてきて。
「あいたっ」
「……わ、わたしで我慢してください!」
「はへ?」
「もっともっと祐介くん好みのわたしになりますから、それで我慢してください!」
「……」
そんなことを言われた。
怒りながら、真っ赤になりながら。手のぬくもりを感じながら。
それでも目だけがおびえている、今の琴音ちゃん。
あのさ。
俺は琴音ちゃんを裏切って浮気なんかするつもり、これっぽっちもないんだけど。
我慢どころじゃねえよ、違うほうの我慢が大変だっつの。これ以上虜にしないでくれよん。
「今よりも好みになられたら俺が病んじゃうからやめてくださいお願いします」
「だ、大丈夫です! 病めるときも健やかなるときも、貞操を誓いますから!」
多分この時の俺は、ハトマメ顔をしていたと思う。
「……なんかさ、それって……いや」
結婚式の誓いの言葉みたい、なんて思ったけど。
これ以上琴音ちゃんを真っ赤にしたくないから、黙っておくことにしようか。
代わりに手を優しく引き寄せてあげよう。
俺にとっての唯一無二の希望は、つないだ手の先に──
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