時の鏡通過検出機

木船田ヒロマル

時の鏡通過検出機

 この話は、こんな機会でもなければ、一生秘密にするはずだった。


 僕には今家族もあるし、何かの繋がりであらぬ疑いを掛けられて、仕事を失ったりするわけには行かないからだ。


 中学二年生の時、僕は友人と秘密を共有していた。


 今から二十年ほど前。

 僕の地元はY県T市という地方の港町で、僕は船舶関係の仕事をしていた父と母と二人の弟とマンションに住む中流家庭の子供だった。


 Mとは二年生で同じクラスになったのだが、特段仲が良かったわけではない。お互い同じクラスで、近くを通れば挨拶したり、プリントを回したり、まあクラスメイト以上でもそれ以下でもなかった。


 風の強い夏だった。

 うちのマンションは山を切り開いてその中腹に建っていて、上の弟を連れてプールに行った帰り道、僕はMがうちのマンションの前の坂を自転車を押しながら上がって行くのを見かけた。

 その時は大して気にも止めなかった。


 次の日の、多分夜七時ごろだと思う。

 お風呂上がりにどうしても炭酸が飲みたくなって、僕は首にタオルを掛け、Tシャツにジャージという格好で、マンションの一階の道路側に設置された自販機にコーラを買いに降りた。


 シャーッと自転車が坂を下りてくる音がした。


 僕は虫を嫌って、自販機の灯りから少しずれた所で冷たいコーラを飲んでいて、なんとなくその坂を下りてくる自転車を眺めていた。


 自転車に乗っていたのはMだった。


 僕はMが、うちのマンションのある山で何をしているのか気になり出した。



 しばらく気にして外を見ていると、どうやらMは毎日昼過ぎに山の上の方に行き、七時ごろに山を降りて行くようだった。

 いつからそうしているのかは分からない。まあ、普通に考えたら夏休みに入ってからなんだろうけど。


 一度、Mが来る前に山の上まで上がってみた。

 小五の時に引っ越してから三年住んでいたが、思えばマンションのある山のてっぺんまでは上がったことはなかった。

 鬱蒼とした樹々。うるさいほどに鳴く蝉の声。僕は自分の自転車を押して、荒れたアスファルトの路面の一車線の道を上がっていった。

 途中に一軒、蔦の絡まった朽ちた廃屋と、トタン屋根と支柱だけの資材置き場のような場所があった以外は民家もなく、錆だらけの街路灯が定距離で配されただけの道を、僕は一人で黙々と上がっていった。

 アスファルトの道は少し広くなって途切れ、その終端には黒ずんだ荒いコンクリートの階段が更に上に登っていた。

 樹々から漏れるギラギラした日差し。輪唱と呼ぶには無遠慮な蝉たちの叫び。森をざわつかせる強い風。

 僕は少しだけ逡巡したが、ここまで来てただ引き返すのも癪だと思い、自転車をその落ち葉だらけの広場に停めて、階段を登った。


 階段の途中の両側の双子のような木に、縄が掛かってお祓いの紙の飾りが下がっていた。それを見て怖じ気づかないではなかったが、真昼間だし家の裏だしと自分を励まして登り続けた。


 黒い木の、瓦葺きの山門。

 こじんまりとした神社。

 これは神社なんだろうか。

 屋根や柱は神社だし、くすんだ木目の賽銭箱もある。

 だが、御堂に壁はなかった。

 四つの柱の間は空間で、板張りの床が見えていて、舞台のようになっている。いや、実際舞台なのかも知れない。


 こんな所があったのか……。


 社務所のような場所もなければ、縁起を解説した看板のようなものもなく、辺りには僕以外人っ子一人いない。


 一応、その奉納の舞の舞台のような建物をぐるっと回ってみたが、縁の下の砂地にアリジゴクの巣を幾つか見つけただけで、特に何か変わった点はなかった。


 Mはここで何をするのだろう。

 ざっくり六時間も。

 舞台で一人踊るのだろうか。

 アリジゴクを観察するのだろうか。

 このままここで、隠れて待っていたとしたら僕はどんな光景を見ることになるのだろうか。


 そう考えた時、それまで蓋をしてきた怖さが一気に吹き出して我慢できなくなって、僕は急いで神社を去り、階段を降り、下り坂を猛スピードで駆け下って家へと帰った。

 万が一にもMと鉢合わせしたりするのは御免だった。

 家に帰り、扉に鍵まで掛けて、汗だくでその場に座り込んだ。

 浴室に行き、汗でどろどろの服を脱ぎ捨て、冷水のシャワーを浴びながら、この事は忘れようと心に決めた。


***


 翌日。

 僕は眠い目を擦りながら家の下の自販機の影にいた。


 忘れられるわけがなかった。

 ぐっすり眠れるわけがなかった。


 昼過ぎ。やはりMは赤いマウンテンバイクを押しながら、僕が隠れる自販機の前を通過した。

 僕は、人生で初めての尾行を開始した。


 Mは僕の想定とは違う動きをした。


 自転車を押しながら坂を登って行くMを、少し距離を置きながら僕は徒歩で追跡していたが、Mは道の頂上までは行かず、途中の廃屋の隣のトタン屋根の資材置き場に自転車を停めて、その裏手に入って行った。


 近づいて改めて見ると廃屋だけあって汚いし、そこかしこに蜘蛛の巣が張っていたり、小さな蛾が止まったりしていて正直近寄りたい場所ではなかったが、このまま帰ればまた眠れない夜が来ると思い、僕は沸き立つ嫌悪を敢えて無視して、Mの後について行った。


 トタン屋根のすぐ下の、何に使うのか長さがバラバラの竹竿の沢山のストックの下をくぐり、何が包まれてるのか麻紐で括られた煤だらけのビニールシートで覆われた塊の脇を通り抜けて、僕は廃屋の裏に出た。


 そこには廃屋の勝手口と繋がる細い裏道があり、割れたゴミバケツとサビの浮いたホイールの積みタイヤを避けて、僕は先に進んだ。Mの姿は見えなかったが廃屋の勝手口には外から3ケタナンバーの番号鍵が掛かっていて、廃屋に入ったのではないことは分かった。裏道は家の裏から、林の奥へと更に続いていた。僕は深呼吸をして、汗を手で拭うと、その道へ踏み出して歩き出した。


 道は一本道で、迷うようなことはなかった。足元は荒れていて歩きにくく、一度などは大き目の石を半端に踏んで転びそうになった。蝉の声。汗で張り付くシャツ。すぐ耳元で羽虫の羽音がして、手でそれを払う。


 後述するがこの道はこの後何度か通ることになるのだが、思い出そうとしてもどうも距離が今一はっきりしない。五十メートルくらいだったようにも一キロくらいあったようにも思えて、距離感覚と時間感覚がはっきりしないのだ。とにかくその不愉快な獣道は山腹にそって緩く右にカーブしながらその場所まで続いていた。山腹にぽっかりと開いた四角いコンクリのトンネルに。


 道は一本道だったから、Mがその中に入っていったのだろうことはまず間違いなかった。

 入り口まで近づくと、コンクリの壁伝いに染み出したらしい水が浅い泥溜まりを作っていて、そこに新しい運動靴の足跡があったから、僕はMがそのトンネルの中に進んだのだという確信を持った。トンネルの手前両側にはまた双子のような木が生えていて、縄が掛かり、お祓いの段々の紙が下がっていた。


 トンネルの口は四角く、大人一人が丁度立って歩けるくらいの大きさで、中からはひんやりと湿った外とは全く違う空気が漂っていた。


 その先は覚悟が必要だったが、この機を逃せばことの真相を突き止めるに当たりまた同じような手続きをもう一度踏まねばならないと思うとそれも忌避したい事態で、僕は意を決してそのトンネルの中に踏み込んだ。


 それもまた、長いトンネルだった。

 いや、実際はそうでも無かったのかも知れない。


 中は真っ暗で、奥の方からコンッ、コンッ、と微かに一定のリズムで硬いもの同士が当たるような音が聞こえる。

 入って数メートルも進むと、もう手探り足探りでしか進むことができない程の暗闇で、今にして思えばそんな状況なら引き返すべきだったのだが、その時の僕は何かに突き動かされるように、冷たく濡れた壁を伝い、べちゃべちゃとずっと水気のある足音を出す地面に靴底を擦り付けながら奥へ奥へと進んだ。


 どれくらいそうして進んだか、とにかくトンネルは一定の四角い空間のまま真っ直ぐに闇に向かって伸びているようで、壁は冷たく濡れていて、足元はべちゃべちゃ鳴っていたが、奥に行くに従って僅かに変化が起きた。

 まず、コンッ、コンッ、と鳴っている硬いもの同士が当たる音が次第に大きくなっていた。また、その打撃音? に混じって、何かの機械の唸りのような音が聞こえるようになっていた。

 景色にも変化があった。

 真っ暗な視界の先に、弱い光が見えてちらついた。

 それは炎のようなものでなく電気が生み出す無機質な灯りで、その近くで動くものがあってそれが光を遮るのでちらついて見えるようだった。

 更に近づけばそのちらつきは、はっきりと人影の形を取った。モーターの唸り。機械が生み出す規則的なコンッ、コンッ、という音の無限の繰り返し。

 なんだ? Mは何をやってるんだ? ここはなんなんだ? あれは、なんの音だ?


 Mとの距離が短くなって、次第に人影がMと認識できるようになり、僕は立って歩くのをやめて、屈み込んで姿勢を低くした。


 目を凝らして光の周囲を見ると、トンネルの穴の突き当たりは少しだけ広くなっていて、簡単な机のような台にキャンプで使うようなランタンが一つ置かれている。突き当たりの壁の真ん中には何か家具のようなものがあって、その下部に機械らしきものが据え付けてあり、それがコンッ、コンッ、と音を立てている。モーターの音もその機械からだ。

 

 あの機械はなんだ? モーターで動く家具を叩く機械……?


 僕はもう少しその機械の様子を見ようと、少しだけ足の位置を動かした。すると動かした先は、泥水の水面で見えなかったが大きく凹んでいて、僕の軸足は思ったより深く沈み込み、バランスを崩した僕は転倒を避けようと体重を後ろに移したが、結果として泥水の浅い水溜りに尻餅を突いてしまった。


「誰だ!」


 懐中電灯の光が僕を照らした。僕は咄嗟に顔を手で隠す。

 選択肢は幾つか頭に浮かんだが、僕は正直に名前を名乗ることにした。


「木船田だ。同じクラスの。卓球部。出席番号十二番」

「木船田……?」

「Mだよな? 坂道の途中に茶色のレンガ風の壁のマンションがあるだろ。あれが僕の家だ。坂道を登る君を見て、気になってつけて来たんだ」

「……お前、あそこに住んでるのか」

「そうだ。僕も質問したい。ここはなんだ? 君はここで、何をしてるんだ?」


 暫くの沈黙があった。

 だがMは結局僕に秘密を打ち明けることに決めたようだった。


「来いよ。説明する。だけど秘密は守ってもらうぞ。そう約束できないなら、このまま帰ってくれ」

「秘密は守る。約束するよ」


 Mは深く溜息を吐いて、僕を手招きで呼び寄せた。


「これは……鏡?」


 そこにあったのは古い鏡台だった。でもそれは例えば古墳から出てくるような歴史上の遺物ではない。古く見積もってもせいぜい昭和初期くらいの、田舎の家なら今でも使っていそうな、二段の引き出しの付いた台から縦長の長方形の鏡とその合わせの二枚の開き鏡が突き出た三面鏡だ。


「時の鏡、と俺は呼んでる」

「時の鏡?」


 コンッ、コンッ、という音はその鏡の中央の一枚を棒でつつく機械が立てるものだった。機械には大きなモーターと、車のボンネットの中にあるような四角いバッテリーが繋がっていて、クランクが箒の柄のような木の棒を前後させ、鏡の表面をコンコンとノックし続けているのだった。


「なんだこれ……鏡の強度試験か?」

「違う。こっちに来いよ」


 Mはそう言うと、僕の腕を引っ張って、自分が立っている鏡の右側に引き込んだ。


「この角度だ」


 そして僕の頭を両手で挟んで鏡の方に向けさせた。


「あっ!!!」


 僕は大きな声を出して驚いていしまい、その声は何重にも反響してトンネルの中を響き渡った。


 鏡に映る像が変わった。

 景色だ。黄金色の草原が見えて、細い小道があり、その先に家が建っている。

 古い鏡台の鏡は窓のようにその景色を映していた。

 少し角度を変えると、映る像は暗いトンネルの壁に変わる。Mが僕を立たせた位置から、Mが僕の頭を向けた方向からだけ、その景色は見えるらしかった。

 僕は驚いて、何度も立つ位置を変えたり、頭の角度を変えたり、しゃがんだり立ったりして見たが、草原と小さな家が見えるのはごく狭い範囲の一箇所だけだった。


「なんだよこれ……! なんだよこれ……!」

「過去の世界に通じてるみたいなんだ」

「過去の世界?」

「丁度そろそろだ」

 Mが腕時計のバックライトを付けて時間を確認する。

 すると草原の小道に、人影が現れた。

 小柄な女だ。

 お下げの三つ編み。年の頃は僕らと同じくらい。可愛い娘だった。

 昔の女学生が着るような制服。

 すると今度は家の方から四、五歳くらいの男の子と、二、三歳くらいの女の子が現れ、小道を駆けて女学生を迎えに出る。子供たちは揃って着物にモンペで、足には草鞋を履いていた。昭和初期か、それくらいの田舎の一軒家の風景。そんな感じだった。

 女学生は手を振って子供たちに答え、手を繋いで小さな家に入ってゆく。音は一切聞こえない。兄弟だろうか。


「時の……鏡」

「そう。どういう理屈か分からないが、この鏡は昭和のどこかか大正のどこかか、とにかく昔の時代に通じてる。俺は、行きたいんだ。

「向こう側へ? いや無理だろ。景色は見えるが音は聞こえないし、あれが過去の景色だとしたら、映像は見えても、とっくに過ぎ去った終わった後の出来事なんじゃ……」


 Mはランタンの置いてある机の上のノートを開けると何かを摘んで僕の目の前に見せた。


 真っ赤な紅葉の葉っぱだった。


「これは?」

「紅葉の葉だ。鏡台の台の上に落ちていた」

「どういうことだよ」

「この鏡はな、映像を映すだけじゃない。時々通路が開くんだよ」

「通路?」

「鏡の中の世界、地面を良く見て見ろよ」


 僕は言われるままに、また定められた場所から草原の見える角度を探り、その地面を注視した。

 そこには、何枚かの赤い紅葉が見えた。


「通路は開く。でもいつも開いてるわけじゃない。時々開いて、すぐ閉じるみたいなんだ」

「あっ、そうか。じゃあ、じゃあこの謎の機械は……!」

「そう。僕が作った。これは時の鏡通過検出機だ」


***


 Mの語る話は、もし話だけ聞いたならとても信じられないものだったが、鏡や紅葉を見た後では信じざるを得なかった。


 あの廃屋はMの祖父が生前に住んでいたもので、Mはこのトンネルがあるのを幼い時から知ってはいたが、絶対に入ってはならぬときつく言われていて、一時期は完全に忘れていたそうだ。去年の冬にその祖父が亡くなり、没後の家の片付けを手伝っていて、ふとトンネルのことを思い出した。懐中電灯を手に冒険気分でトンネルに入り、あの鏡台を見つけた。調べるうちにあり得ない景色を映す角度があることに気が付き、そこに映る人々の暮らしに興味を持ち、一人で繰り返しここに来ては時間の許す限り観察していたが、ある日紅葉の落ち葉を発見し、「通路」としての機能もあると知って、今は通路が開くタイミングの周期性を調べているところだそうだ。


「棒は正確に30秒に一回鏡を叩いている。棒はこのタイムカードの打刻機に繋がっていて、棒が向こう側に抜けた瞬間だけ、時間がタイムカードに打刻される。記録の為にタイムカードは二十四時間ごとに交換してる」


 僕はタイムカードをよく見ようとしたが、Mはその前に体ごと割り込んで機械自体を隠した。


「俺の研究成果は秘密だ。お前にもな」

「別に僕は向こう側に行きたいなんて思わないよ」

「どうだかな」

「……僕はバスケ部のAが好きなんだ。君の恋の邪魔をしようとは思わない」

「なっ、なんの話だ!」

「僕はこの事を誰にも言わない。だからM、君も僕がAを好きだってことは黙っといてくれ。釣り合わないのは自分でも分かってるんだから」

「…………」

「行けそうなのか。向こう側には」

「……あらかた見当は付いてる。けど正確に確かめたいんだ。飛び込んだ瞬間に通路が閉じたら、真っ二つになって死ぬかもしれないし」

「そんな死体が家の近くに落ちてたら、あの子もビビってトラウマになるな」


 僕は笑ったが、Mは複雑な表情を作った。


「誰にも言うなよ。絶対だぞ」

「言わないよ。僕も自分の秘密を預けてるんだし」

「……木船田。こうやってちゃんと話すのは思えば初めてみたいな気がするが、お前、いいやつだな」

「そうか? 普通だよ。まだここにいるのか?」

「ああ。七時前には出るよ。親が帰ってくるし」

「そうか。僕は帰るよ。あの子に会いに行けるといいな」

「ライトを貸そうか?」

「いいよ。行きも無しで来たし」

「気をつけてな」

「ん。成功を祈ってる」


 僕はどこか晴れ晴れとした気持ちでクラスメイトと別れ、また手探り足探りしながらトンネルの出口に向かった。


 トンネルを出ると、世界は明るく、蝉の歌声もどこかのどかだった。少し歩いて、振り返ってトンネルを見る。また前を向いて歩き出した僕は、あることに気がついてまた振り返り、トンネルと山のてっぺんがあるだろう辺りを繰り返し比べて見た。


 山のてっぺんの舞台だけの神社、位置的に、あの鏡台があった場所の、丁度真上なんじゃ……?


 トンネルは友人を飲み込んだまま黒々とした入り口をこちらに向けていて、蝉の鳴き声は風にざわめく森の音を搔き消すようにやかましかった。


***


「今日、決行する」


 登校日の終わりがけ、終礼後のガヤガヤに紛れて近づいて来たMが、僕にそう告げた。


「夕方、六時十一分から約一分、通路が開くはずだ。多分、もう会えなくなる」

「そうか……元気でな」

「お前もな、木船田。色々ありがとう。元気で」

「何もしてねーよ。本当にあの世界が過去なら、未来に向けて手紙を残してくれ」

「やってみるよ」


 Mはひらひらと手を振って、教室を出て行った。


***


 それ以来、僕はなにか落ち着かなくて、ちらちらと時計ばかりを見ていた。


 本当に上手く行くんだろうか。

 Mは多分一人きりで時間旅行を決行するだろう。何かの間違いで、上手く行かなかったら。例えば体の一部とかを切断されて、もがき苦しむような事態になったら。悪い想像は悪い方へ悪い方へと膨らんで、僕は居ても立ってもいられなくなった。部屋の壁掛け時計の針が六時を回ったのを見た僕は、ついに立ち上がり、玄関の非常用の懐中電灯を掴んで点灯を確認し、家を飛び出してあのトンネルへと向かった。


 廃屋。自転車はない。徒歩で来たのか。

 蝉の声が聞こえない。水を打ったように静かだった。昼間は、学校から帰った時は確かにうるさい程に鳴いていたのに。六時過ぎとはいえまだ明るくて、いつもならうるさい程に鳴いているはずなのに。

 胸騒ぎがした。

 僕は裏道を駆け抜け、トンネルに飛び込んだ。懐中電灯で足元を照らしながら奥へ進み、突き当たりの鏡台に辿り着いた。時の鏡通過検出機がない。用が済んだから片付けたのか。


「M! どこだ⁉︎」


 僕はMの名を呼んで叫んだが、返って来たのは僕自身のその叫びの反響だけだった。


 失敗して深刻な事態に陥ったのか、それとも今日は取りやめたのか。


 僕は鏡台に近寄ると、前にMが教えてくれた角度からそれが映す像を見た。


 Mがいた。


 黄金色に輝く草原の小道に、Mがいた。


 彼は辺りを見回し、道にしゃがんだかと思うと何かを拾って摘み上げた。紅葉の葉だ。


 道の先の家の前では、小さな男の子が鞠を突いていて、お下げ髪の女学生とその妹らしき女の子がその様子を見ている。


 Mが、ゆっくりと歩いてその家に近づいて行く。


「やりやがった! M! すげえ! やりやがった!」


 僕は一人で大声を出して喜んだ。

 だってMは奇跡のチャンスをその手で掴んで、不可能を可能にしたんだから。


 僕は感動しながら、Mが、彼が恋した過去の少女に挨拶したのを見ていた。

 少女がMを見て、弟たちと顔を見合わせる。


 弟たちがMの元に駆け出し、お下げの少女もそれを追ってMの元に向かう。


 二人の子供がMの両足にしがみつき、お下げ髪の女学生は大きな口を開けてMの無防備な首筋に思い切り噛み付いた。


 え……?


 ちょっと待っ……。


 えっ……?


 Mは悲鳴を上げているようだったが、向こうの音は何も聞こえない。血が迸って辺りに飛び散る。Mが身を捩ってこちらに向いて倒れ込む。その顔は恐怖と苦痛とに歪んでいる。


 えっ! なんで……?


 どういうことだよ……!


「M! 逃げろ! M!」


 僕は鏡をばんばん叩いてMに呼び掛けるが、聞こえないようだった。小さな子供たちは服の上からMの手や足を食い千切り始めていて、最早逃げることも出来なそうだった。


 お下げ髪の少女が一際深くMの喉笛を噛み切って噴水のように血が吹き出し、Mが白眼をむいた。

 女学生が顔を上げた。口の周りは、いや、顔全体がMの血で真っ赤で、口の端からはMの首の皮を長く垂らして。その顔が、こちらを向いた。


 僕は逃げ出した。

 あれは過去に通じる鏡なんかじゃない。

 何かの罠なのだ。だから、こんな場所に隠されていたし、ここは決して入ってはいけなかったのだ。


 どこをどう走ったものか無我夢中で家まで辿り着き、ベットに潜り込んで布団を被り、僕はがたがたと震えた。脳裏ではMが無残に食い殺される様子が勝手に何度も再生されたが、他にできることも無くて、僕は僕自身の体と心とが恐怖に疲れきって意識が途切れるまで、ただただ布団の中で震え続けていた。


***


 母に起こされて目を覚ますと翌日の夕方だった。

 僕は丸一日近くそうしていたのだ。

 母が僕を起こしたのは学級の連絡網が回って来たからだった。


「MさんところのS君、昨日からお家に帰ってないんですって。あんた、なんか知らない?」


 夢じゃなかったのか、と僕は息を飲んだが


「知らない」


 と反射的に短く答えた。


「そう……もしS君から連絡でもあったら、お母さんに言うのよ」


 分かった、と僕は答えたが、僕は知っていた。Mからは、もう二度と連絡なんてないことを。


***


 それから更に二日して、Mの親は捜索願いを出したようだった。

 何故それを僕が知っているかと言うと、Mの失踪はニュースで報道されたからだ。そのニュースで僕はMが家族には「海に行く」と告げて出掛けたことと、赤いマウンテンバイクを海沿いの岸壁近くに駐輪していたことを知った。


 更にそれから数日して夏休みが終わり学校が始まったが、勿論Mの行方は分からないままだった。クラスには色んな噂が飛び交ったが、纏めると両親の離婚騒動で傷心したMが海に飛び込んで自殺したのだろう、ということになっていた。僕はその噂でMの家が少し複雑な事情を抱えていたことを初めて知った。


 本人が家族に「海に行く」と告げていたことと、実際に彼のマウンテンバイクが岸壁近くで見つかったことから、警察も大人たちもMはなんらかの理由で海に落ちて流された、という見方を比較的早く固めたようで、捜索は一月ほどで打ち切られた。


 諦めがいいのか、早くけじめを付けたいからか、捜索が打ち切られてから一週間ほどして、Mの親はMの葬式を出した。


 僕はクラスメイトの一人として、Mの葬式に出席した。棺桶はあったが花だけで満たされていて、白黒写真のMはどこか緊張気味の真顔で出席者の僕たちを見据えていた。


 季節は秋で、もう蝉は鳴いていない。


 僕は、あのトンネルにもう一度行く決意をした。

 もしかしたら、Mがいるんじゃないか、という気持ちがあったのだ。あの場所には別の世界に通じる鏡なんてものがあったんだから、元気な姿のMが絶対にいないなんて言い切れたものじゃない。世界はなんだってありになってしまったんだから。


 日曜の朝、僕はまた懐中電灯を持ってトンネルに向かった。

 一月半前と何も変わっていない。

 木々の緑が少し彩りを大人しくして、蝉の声が聞こえなくなった以外は。いや、あの日も何故か蝉が全く鳴いていなかった。


 懐中電灯をつけ、僕は一人トンネルの奥へ進む。


 コンッ、コンッ、


 その音が聞こえた。


 コンッ、コンッ、


 やっぱりだ。あれは、Mが作った時の鏡通過検出機の音だ。

 Mはどうにかして生き延びてあの罠から脱出していたのだ。向こうとこっちでは時間の流れが違うのかも知れない。


 コンッ、コンッ、


 聞き間違いじゃない!


「M!!!」


 僕はMの名前を叫んで駆け出した。

 鏡台の前に辿り着いて、


「Mっ!!!」


 もう一度大きな声で彼の名前を呼んだ。

 返事はない。

 忙しく懐中電灯の光域を動かしてMの姿を探すが彼はどこにもいなかった。


 コンッ、コンッ、


 おかしい。じゃあ、誰が時の鏡通過検出機を……?


 コンッ、コンッ、


 その時、僕は気がついた。

 鏡台の周りには、あの機械はない。

 Mが失踪したあの日もそうだった。


 コンッ、コンッ、


 だが、確かにあの機械の音はする。


 コンッ、コンッ、


 そう。古びた鏡台の鏡の、その鏡面の内側から。


 コンッ、コンッ、コンッ、コンッ、コンッ、コンッ、コンッ、…………。





*** 了 ***

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時の鏡通過検出機 木船田ヒロマル @hiromaru712

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