第3話 出立

 扉をくぐると、そこは見慣れたアイラの家の脱衣室だった。ぐるりと見回してもおかしなところは何もなく、突風が吹き荒れたとは到底思えない。台所から居間を通って寝室へと向かいながらアイラはぎゅっと唇を噛み締めた。

 (夢ならいいのに。ここを開けたら母さんがいて、変な夢だね、なんて笑って……。そうならいいのに)

 扉にかけた手が震える。心臓が痛いほど高鳴り、自然と呼吸が浅くなる。ザイロが心配そうに見上げてくるのがわかった。アイラは強張った頬を無理矢理動かして口角を上げ、ザイロとトロンに微笑みかけてから勢いよく扉を開ける。バン、と大きな音が虚ろに響いて消えた。

 部屋の中には、浄化前と同じ二つのベッド。同じ箪笥に同じドレッサー、同じ帽子掛け。悲しいほど変わらない部屋のなかでベッドのふくらみだけが消えている。

 ――母さん、

 呟きそうになって、アイラは慌てて口元を手で押さえた。声に出したらつらくなるだけだ。二度と呼べないその言葉をぐっと飲み込み、鞄を引っ張り出して手早く荷物を詰める。

「着替えに非常食に救急セット……あとお金」

 口に出して確認しながら準備を進めていると、トロンがどこからか地図を持ってきた。手書きの古いその地図は、世界樹の場所こそ載っていないもののたくさんの集落の場所を示している。アイラが属するマナの集落ヴァイは東端、つまり向かうは西だ。アイラはじっくり地図を眺め、進む道を決める。

「一度港に出て、川に沿って……。……うん、そうしよう」

 決まってしまえば行動あるのみだ。アイラは鞄を背負い、ザイロとトロンに声をかけて家を出る。無人の家はがらんと冷たく、知らない場所のようによそよそしい。最後にちらりと室内を一瞥すると、アイラはくるりと踵を返して断ち切るように歩き出した。

 夜明け前の空は薄縹に白んで、地平線からぼんやりと光を投げかける。モノクロの世界はほんのり色彩を帯び、訪れる朝への期待を秘めて静かに息づく。人目に触れずひそやかに目を覚ました世界に、アイラの小さな足音が響く。ザリザリと砂が擦れるたび、家が遠くなっていく。住宅街を抜け、学校の前を行き、公園を通りすぎてその先へ。歩くうちに空はみるみる橙に染まり、やがて大きな太陽が顔を出した。ザイロが感嘆したように息を飲む。

『……綺麗、だね』

「……うん」

 ヴァイの朝は遅い。他の地域と違って潮風のために農業が出来ず、明け方から作業をする必要がないのだ。未だ静まり返った町のはずれで、アイラは初めて見る朝焼けを目に焼き付ける。

「知らなかった。オレンジの空って夕焼けだけじゃないんだね」

 かつて、旅のクラクフィア《クラクフの女》が空が朱色に塗られていく様を詩に描いて吟っていた。光の絵具、希望の贈り物。彼女の詩は夕焼けしか知らないアイラたちヴィヨン《ヴァイの民》には理解できなかったけれど、今ならわかる。薄闇の空を鮮やかに塗り替えていく朝の光は、息を飲むほど美しい。涙がぽろりとこぼれるのを感じてアイラは慌てて頬をぬぐった。

「……きっと、世界には綺麗なものも優しいものもたくさんあるんだよね」

 自分が壊そうとしているのは、そういう世界だ。心が洗われる朝焼けに試されているかのようで、アイラは拳を握るとぐっと胸を張った。目の奥に力をこめてまっすぐ前を見据え、ゆっくり声に出して呟く。

「それでも、私は壊すよ」

『うん。最後までそばにいるから』

 ザイロが穏やかな声で答えた。トロンがこくりと頷き、いびつに歪んだメビウスの輪を念送してくる。静かに寄り添ってくれる二人の「友達」に微笑みかけ、アイラはもう一度足を踏み出す。


 日が沈む頃、草原の端に荷物を下ろしたアイラにザイロがぴったり寄り添った。仔狼にすぎないザイロの体はアイラを包めるほど大きくはないけれど、ふわふわの毛がとても温かい。二人が眠っている間、睡眠を必要としないトロンが見張りに立った。

「……ふふ。野宿なんて初めてだけど、二人がいてくれるなら安心だね」

 アイラが夢うつつで呟くと、すぐにトロンがシャボン玉を念送してくる。「邪神の配下」のイメージと違って、トロンは嬉しい時美しいものを念送するのだ。瞼の裏にくるくる踊るシャボン玉を浮かべて、アイラは静かに眠りに落ちる。

 ちら、と光が弾ける。ゆっくり目を開けるとアイラは体を起こして大きく伸びをした。ザイロが勢いよく転がり落ち、驚いたように飛び起きる。アイラは慌てて手を伸ばし、ぶわっと広がったザイロの毛を優しく撫でた。

「ごめん……!うっかりしてた!」

 謝るアイラにザイロはなつっこい目で頷き、頭をこすり付ける。ふわふわと頬をくすぐる毛がこそばゆくて、アイラは思わず声をあげて笑った。

(あったかい……。なんか、すごく安心する)

 たっぷりもふもふを堪能してから、見張りを続けるトロンにお礼を言って立ち上がる。鞄に詰め込んできた焼き菓子を食べ、草の実の果汁で喉を潤したら出発だ。

 しばらく歩いていくと、どこからかさらさらと水の音が聞こえ始めた。アイラは地図を覗き込み、川を表しているのだろう枝分かれした線を指で辿る。線は水の大地ユールに始まり、ミョーを通って二本に分かれてから海に注ぎ込んでいるようだ。そのうちの一本、ヴァイを通る側にザイロの前足が添えられる。

『あの川がこれ?』

「うん、そうみたい。これを辿ればとりあえずミョーとユールに行ける」

 詳しくは知らないがどちらも光神の部族の村に違いはない。きっと世界樹の手がかりが見つかるはずだ。アイラは期待を胸に川に近づき、果汁でべたつく手を丹念に洗って水を飲んだ。隣でザイロも流れに顔をつっこみ、冷たい水で喉を潤す。普段は生物らしい営みをしないトロンもこの時は楽しげに水浴びを始めた。存分に水と触れ合い、いざ再び歩き出そうとしたその時。

――カサ、ドサッ。

 乾いた音が聞こえ、ザイロが対岸を見据えて体を弓なりに反らせた。青い瞳を爛々と輝かせ、何かに警戒している。

「ザイロ、どうしたの?」

 アイラが尋ねたその時、ほぼ同時にトロンが警戒音を発した。波紋がざわざわと土手の草花を揺らし、駆け抜けていく。ザイロが固い声で答える。

『近くに何かいる。相当強い神と結んでるはずだよ』

「!」

 ――敵、なの?

 アイラが声に出さずに問いかけると、二人は揃って首をかしげた。羽音が響き、空の彼方から鳥の群れが現れる。それを見てアイラは心を決め、ポケットから取り出した口紅で手の甲に印を描いた。

「《連れてきて》」

 描き終えた印を高々と掲げて命じれば、鳥の群れは一斉に土手に舞い降りる。ほどなくしてよたよたと舞い上がった鳥。その足にしっかりと掴まれたものを見て、アイラは思わず驚きの声をあげた。

「まさか……!」

 アイラの目の前にそっと降ろされたもの。それは。

 十歳を少し過ぎたばかりの、人間の少年だった。

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