第2話 因果

 真っ白な空間に、少女が小さくしゃくりあげる声がさざ波のように響く。しばらくそうして呼吸を整えると、少女――アイラは顔を上げて恥ずかしそうに涙をぬぐった。腕の中でザイロが見上げ、もういいの?と首を傾げる。

「うん、大丈夫。……ありがとう」

 アイラは少し濡れた声で、それでもきっぱりそう答えるとザイロを解放した。悲しみは癒えないが、消えてしまったものは戻らない。この先もきっと家族を想って泣くけれど、それは今ではない。

 なんとか気持ちを切り替えると、止まっていた頭がゆっくり動き出す。家族も系図も失った今、アイラが頼れるのはオルフェとその配下ぐらいだ。この空間を出る前にできるだけ状況を整理し、身の振り方を決めなければならない。

 が。

「オルフェ様、大丈夫ですか……?」

『……ああ』

 頼るべき庇護者は世界樹の光の侵蝕を受け、ぐったりしている。大いなる邪神ですらこうなのだ、オルフェに守られなければアイラの小さな体は跡形もなく消えていただろう。今更のように襲ってきた恐怖に身を震わせ、アイラはそろりとオルフェに寄り添う。

(離れたくない……けど、今のままじゃ十年後にまた浄化されるだけ)

 傷ついたオルフェがいつまでアイラを匿えるかは未知数だ。光神の力で隠すならばともかく、邪神と結んでいる限り世界樹は必ず浄化の手を緩めない。そこまで考えた時、ふと疑問が頭をよぎった。

「あれ?私の血はマナ様が隠してるはずじゃ……?」

 光神の一柱、海の神マナ。彼女が傍系たる一族に目をかけているからこそアイラたちは今まで消えることなく存在していたのだ。温厚かつ平等なマナが今になってアイラたちを見限るとは思えない。小首を傾げるアイラに、オルフェは沈んだ声で告げた。

『此度気付かれたのはナイラの血脈ではない……私の寵児だ』

「……!」 

 ――気付かれたのは、寵児。なら……全部、私のせいだ。

 その言葉が耳の奥でぐるぐる回り、アイラはたまらずオルフェにすがり付いた。オルフェは翼を広げてそっとアイラを抱き込む。

『すまない』

 呟いた声に、アイラは大きく首を振った。銀色の髪がさらりと揺れる。オルフェの胸元に顔をうずめ、アイラは叫ぶように答える。

「オルフェ様は悪くないです!部下想いのいい神様なんです……!」

『っ、』

 アイラの訴えに、オルフェは動揺したように言葉を詰まらせた。それに気付く余裕もないままアイラは尚も言いつのる。

「私、ザイロが初めての友達でした。家族以外で初めて優しくしてくれたのはオルフェ様でした。オルフェ様が名前を呼んでくれて、寵児と言ってくれて本当に嬉しかった」

 ――だから、謝らないで。

 最後はもう言葉にならなかったけれど、オルフェはしっかりと頷いた。優しい風が吹き、アイラの髪をそっとなびかせる。ふわふわと頬を撫でる風にアイラは目を細め、よし、と小さく呟いて体を起こす。

 できることならこのままここに留まっていたい。けれど、それではオルフェに負担をかけ続けることになる。かといって外に出れば系図のないアイラに生きる術はない。……ただし、それは「普通の」人生に限った話。

「オルフェ様。世界樹、壊していいですか」

 アイラが訊くと、オルフェは大きく目を見開いた。ザイロが慌てたようにアイラの肩に飛びつき、ぐりぐりと頭を押し付けながら叫ぶ。

『アイラ、それどういうことかわかってる!?世界中が敵になるんだよ?』

 アイラは黙ってひとつ頷き、右手でそっとザイロの毛並みを撫でた。左手はオルフェに触れ、侵蝕を気遣うようにひたりと添えている。金と茄子紺の瞳はぴくりとも揺らがず真っ直ぐオルフェを見つめ、澄んだ光を宿している。自分に向けられるふたつの視線を痛いほど感じながら、アイラはゆっくり口を開いた。

「私は、オルフェ様をこんな風にした世界樹を恨みます。私を理由に家族を消した世界樹を許せません。それに……もう普通に生きられないなら、悪夢に怯えながら眠るより目を覚ましていたい」

 世界中に悪だと罵られても、誰を敵に回しても。アイラにとっては家族を奪った世界樹こそが悪だ。日常を、愛する庇護者を、大切なものを根こそぎ奪っていく諸悪の根源だ。壊さなければ未来がないなら壊すことにためらいはない。

 見つめ合うこと数十秒。折れたのはオルフェだった。

『……構わない。が、無理はするな』

 オルフェはそう言うと翼を広げ、どこへともなく高らかに咆哮した。すぐさま音のない音が返り、一点に凝縮し、うずを巻いた金色のなにかが現れる。「それ」は蛇のような緑色の目でアイラを見上げ、口にくわえていたクリスタルを手に握らせるとゆっくり頭を下げた。アイラは恐る恐るクリスタルを持ち上げ、目の前にかざしてしげしげと見つめる。緑の光を閉じ込めた茄子紺のクリスタルはふわりふわりとかすかに風を放っている。頬を撫でたものと同じやわらかな風に、アイラは安心してクリスタルを抱き締めた。そんなアイラを優しく見下ろしてオルフェは静かに口を開く。

『我が寵児アイラを"代行者"と認める』

 その瞬間、緑色の光を孕んだ風が勢いよくアイラを包み込んだ。風はアイラの小さな体をを守るように取り巻き、どこへともなく吹き去っていく。風の行方をぼんやりと目で追っていると、緑の瞳と目が合った。次の瞬間脳裏に波紋が広がる。驚きに目を見開くアイラにザイロが楽しそうに笑って言った。

『トロンもアイラが気に入ったって!』

 トロンと呼ばれた金色は、ガラス玉のような瞳でじっとアイラを見つめている。目が合うと今度は色とりどりの音符が浮かんできた。

「……そっか。あなたはこうやって話すんだね」

 アイラが話しかけるとトロンはこっくり頷いた。言葉こそ使わないものの、トロンが頭に送ってくるイメージは感情と容易く結び付く。アイラは楽しげに弾ける音符の様子をじっくり噛み締め、トロンと向き合った。見つめ合う二人に温かい眼差しを注ぎながらオルフェが静かに促す。

『トロンとザイロは補佐につける。……今ならまだ夜明け前だ。行け』

「! はい」

 系図のない今、あまり人と会って探られたくはない。夜のうちに荷物を整えて家を出なければ。アイラは慌ててクリスタルをポケットにしまうと扉に向かった。トロンとザイロが忠臣のごとく両脇に控え、半歩後ろに続く。扉の前までたどり着くとアイラはくるりと振り向いてオルフェに頭を下げた。

「オルフェ様、ありがとうございました。……行ってきます」

 オルフェは黙って頷き、目を閉じる。それを見届けると、アイラは扉を開けてゆっくり足を踏み入れた。

 静かになった空間に、ふわりと花の香りがした。


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