その羽根は闇に堕つ

紫吹明

Chapter-1.ことの起こり

第1話 浄化

scene1.浄化


 かすかな唸りとともに、室内を冷たい風が駆け抜ける。アイラはくるまっていた毛布をぎゅっと抱き締めて目を開けた。隣のベッドには母が作る大きなふくらみがあり、寝息にあわせて規則正しく上下している。女性用のこの寝室からは見えないが、隣の部屋には父が同じように寝ているはずだ。いつもと変わらない家族の様子にアイラは安心し、けれど一抹の不安が胸に残るのを感じて首を傾げた。毛布にくるまったままの体をゆっくり起こし、ぐるりと部屋を見回す。

(何か変。私、どうして目が覚めたんだっけ?)

 体にきつく巻き付けた毛布を少し緩めると、答えはすぐ見つかった。同時に背筋がぞくりと寒くなる。

(風……!戸締まりしてある家の中でどうして風が吹くの?)

 もしかしたら、どこか窓が開いているのかもしれない。そう結論付けたアイラは母を起こさないようにそろそろと立ち上がった。そのまま足音を忍ばせて部屋を出ると手始めに隣の部屋のドアを両手でそっと開け、ベッドの方を見つめる。カーテンはそよとも動かない。父であろうふくらみがすやすやと動いているのを確認してアイラは黙ってドアを閉める。次に忍び足で居間に向かい、すべての窓に素早く触れる。窓はどこも閉まっており、きっちり鍵がかかっている。不安と恐怖が足元からぞわぞわと這い上がってきた。アイラはふるりと体を震わせ、怯えたように部屋を眺める。台所も覗いたが結果は同じ。確認していないのはあと一ヵ所、脱衣室だけだ。

「……ここだけ見たら寝よう」

 ぽつりと呟いた声はやけに大きく響いた。虚ろに反響する声を聞きながら、アイラは拳をぎゅっと握って決意を固める。一歩一歩、慎重に足を踏み出し窓に近づいていく。

 その時。

「――!」

 どこからともなく、金色の光を孕んだ風がアイラの体に吹き付けた。荒々しい唸りと身を切るような冷たさにアイラはとっさに身構える。風は次第に強さを増し、全方向から小さな体を押し潰すかのように迫ってくる。なんとか踏ん張るが風圧で目が開かず、次第に呼吸もままならなくなってくる。

「っ……!っ……!」

 心臓が痛いほど脈打ち、酸素を求めて暴れている。左手で胸元を握りしめ、アイラはゆっくり崩れ落ちていく。すーっと意識が遠のく。

「や、だ……」

 得体の知れない恐怖に思わず呟いたその時。

『――――、』

 耳鳴りがして、かすかな温もりがふわりとアイラを包み込んだ。限りなく黒に近い紫が視界を覆い、眩しいほどの金色は瞬く間に見えなくなる。あれほど強かった風はいまや唸りも聞こえず、訳のわからない圧迫感もない。代わりに耳許で深く優しい声が囁いた。

『アイラ、我が寵児。世界が悪夢であろうとも今だけは良い夢を……』

「!」

 名前を呼ばれると同時に急激な眠気が襲ってくる。あの風に感じたような意識を刈り取られる恐怖ではなく、揺り篭のような心地よさ。アイラは無意識に温かい闇にすり寄り、母の腕に抱かれる幼児のように体を丸めた。

(……なんだろう。この感覚、知ってる)

 初めてのはずなのに、優しい闇の温もりを知っている。それが竜の姿で、銀の瞳をもつことも知っている。ゆらゆらと揺れる思考がぼんやりとその姿を描き出し、アイラははっと息を飲んだ。

《……名は》

《アイラといいます》


「……オルフェ様?」


 半信半疑ながら名前を呼ぶと、きゅっと拘束が強まった。そのままどこかに運ばれ、真っ白な台座にそっと下ろされる。開けた視界に飛び込んできたのは、思い描いていた通りの――というにはあまりにも傷付き今にも消えそうな、闇色の竜。金色の光にじわじわと侵蝕されていくその身体に、アイラは慌てて手を伸ばした。

「オルフェ様……!どうして、何があったんですか?」

 アイラの声に、オルフェはゆっくり視線を上げた。鋭い銀色の目がアイラを捉えてやんわりと細められる。身体中に痛々しい傷があるというのに、その目は寵児への慈愛に満ちている。アイラはぐっと唇を噛み締めて涙をこらえると、ふわりとオルフェに触れた。オルフェは応えるように大きな翼でそっとアイラを包み、ゆっくりと言葉を返す。

『世界樹……。あれが系図の浄化を始めたのだ』

「! じゃあ、まさか……」

 ――父さんと母さんは。

 かすれたアイラの声に、オルフェは躊躇うように瞳を揺らした後きっぱりひとつ頷いた。目の前が真っ暗になり、アイラは崩れるようにオルフェにすがる。

 世界樹は、このパンデモン大陸のどこかにある聖なる存在だ。すべての人間の系図は世界樹によって管理され、十年に一度「浄化」という作業を通して邪神に連なった者が消されていく。その浄化の光がアイラを襲ったならば、それが意味するところはひとつ――アイラの家族は、もうこの世界のどこにもいないのだ。

 それだけではない。自らが光神に連なることを示す系図は、何よりも確実な身分証明だ。そこに名前が無いこと、それはそのままその人が社会に受け入れられないことを示す。

「……私は、もう、普通の子供じゃいられないんですね」

 呟いた声は、かすかに震えていた。どこからともなく翼のはえた仔狼が現れ、心配そうにアイラに寄り添う。アイラは手を伸ばして仔狼を引き寄せるとぎゅうっと抱き締めた。

「ザイロ、ごめんね。ちょっとだけ貸してね……」

『うん』

 ザイロと呼ばれた仔狼は黙ってアイラに体を預け、アイラはその背中にぽふりと顔をうずめる。ほどなくして、小さな嗚咽が漏れ始めた。


 どこかでひゅうっと風の音がした。

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