Chapter-2.邪神の寵児

第4話 少年

 柔らかな日差しが水面を照らす。ぐったりと目を閉じたままの少年を見守りながら、アイラは川にぽいっと石を投げた。石はぽしゃんと重い音をたてて着水し、水面に綺麗な王冠を描いて沈んでいく。波紋はまたたく間にちりめんのような揺れに崩され、押し流されて消えていく。さらさらと流れる川の音に、少年の穏やかな呼吸の音が重なった。

 少年は、見たところ十歳と少し。アイラよりはやや年下だろう。明るい茶色の髪が汗に濡れた額に張り付き、右手には不思議な十面体の紋様が描かれている。すやすやと寝息を立てる様子はあどけなく無害そうだが、こんなところに一人で倒れていたのには何か理由があるのだろう。そこまで観察すると、アイラは鞄を開けて救急セットの中から清潔な布を一枚取り出した。川の水に浸して絞り、少年の額の汗を拭いてやる。しばらくそうしていると、不意に少年の眉がぎゅっとしかめられた。

「うう……ん」

 顔に似合わない低く掠れたうめき声をあげ、少年はゆっくり目を開ける。焦げ茶色の瞳がアイラを映し、すぐに警戒の色を滲ませた。跳ね起きる少年に、驚いたアイラは慌てて一歩飛びすさる。少年は右手を隠すように握りしめ、アイラを鋭く睨み付けて叫んだ。

「あんた、誰?僕に何の用!?」

「……えっと、」

 つい先程まで寝ていたとは思えない少年の剣幕に、アイラは思わず言葉に詰まった。そんなアイラの様子に少年は警戒を強め、逃げ道を探すように目をきょろきょろと動かす。次の瞬間、ザイロとトロンが無駄のない動きで少年の進路になりうる場所をふさいだ。悔しそうに唇を噛みしめる少年に、アイラは穏やかな声を心がけて話しかける。

「おはよう。私はアイラ、元ヴィヨンの旅人」

「! ……ヴィヨン?元って……」

 アイラの言葉に、少年は警戒を解かないまま瞳に困惑の色を浮かべた。人差し指を唇に当て、何やらぶつぶつと呟き始める。しばらくして、指を下ろした少年は先程までとうって変わって穏やかな目でアイラを見上げた。

「僕はジェナ。元ユリーカ《ユールの民》」

 素っ気なくも名前と所属を告げた少年――ジェナは、透き通った瞳でただアイラを見つめている。だが、明るく澄んだその瞳に気づくより先にアイラはジェナが発した言葉に反応していた。

「! 君も"元"か。よろしくね、ジェナ」

 理由は聞かない。でも、幼い少年が部族を離れてたった一人でこんなところにいるのは明らかに異常事態だ。元、と言い切ったからには追放されてしまったか、アイラと同じように居られない事情ができたか。どちらにせよ誰かの助けが必要だろう。

 ただ。

(ユリーカ、か……。一緒に来てくれるかな?)

 詳しくは知らない、とは言ったもののユリーカは光の戦士として有名だ。自分たちの主神を心から愛し、それ故に邪神をひどく憎んで激しく戦うのだという。ジェナが何歳までユリーカとして育ったかはわからないが、アイラの目的を知れば快くは思わないだろう。考え込んでしまったアイラをジェナが探るような目で見上げてくる。

(……訊いてみるしかないか)

 このまま不信感を抱かれてはやりにくい。アイラは覚悟を決め、ジェナの目をまっすぐ見つめておもむろに口を開いた。

「私は浄化の生き残り。世界樹を倒すつもりでいるの」

「!?」

 それを聞いた瞬間、ジェナの体が強張る。素直なその反応を目の当たりにして、アイラの胸に諦めと落胆にも似た感情が広がっていく。

(やっぱり、だめ、だよね……)

 きっと一緒には行けない。別れを告げようとしたその時。

「それ、本気で言ってるの……?」

 ジェナが恐る恐るというように尋ねた。アイラを見つめる二つの目には畏れと興味が見え隠れしている。予想を大きく外れたその反応に、アイラは面食らいながらもきっぱりとひとつ頷いた。ジェナははくりと口を開け、それからやや食いぎみに尋ねる。

「じゃあさ、あんたとだったら僕、生きてていいの?」

「!」

 強い口調と裏腹に不安げに揺れる瞳。試されている、と本能的にわかった。ジェナは今、アイラが信頼に足る相手か確かめようとしている。

「おいで」

 大きくひとつ頷いてアイラは両手を広げ、にっこりと微笑んだ。ジェナが勢いよく飛び込んでくる。ぎゅっと抱き締めた小さな体は震えていた。アイラの腕の中で、ジェナは振り絞るように叫ぶ。

「怖かった!優しかったみんなが急に攻撃してきて、『邪神の子だ、消えろ』って……!」

「っ、」

 胸が突かれたように鋭く痛み、アイラはジェナを抱く腕にぎゅっと力をこめた。同じ神を主神と仰ぐ集落はそれ自体が家族のようなものだ。そんな集落が一斉に敵に回る――それはどれほどの恐怖だろう。「正義のひと」の群れにたった一人で放り込まれて、どんな思いでここまで逃げてきたのだろう。

「大丈夫だよ。もう一人にしないから」

「うん……!」

 ささやいたアイラに、ジェナはぎゅうっと抱きついた。涙に濡れた目元が肩に押し当てられる。そっと頭を撫でてやると恥ずかしそうな唸り声が聞こえてきた。こうしていると、ジェナはどう見ても普通の少年だ。けれど光神の部族が普通の少年を弾くとは思えない。

 それに。

(相当強い神と結んでる、ってザイロが言ってた。……この子も"私と同じ"なのかな……)

 寵児は神のふところに抱かれ慈しまれる存在だ。だからこそ、光神の寵児は人に愛され邪神の寵児は疎まれる。庇護者となった神からの強い愛は、良くも悪くも人生を変えてしまう。アイラにはオルフェと言葉を交わし、彼を愛する時間があった。だがジェナは……?

(大丈夫。私が守ってあげるからね)

 アイラは内心で胸に刻み付けるように呟き、ジェナの髪をくしゃりとかき混ぜた。

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