海藤の研究

 「私は学生の頃、分子生物学の研究をしていた。具体的には体内の酵素である……いや、この話はやめておこう。とにかく、今とは少し違う研究をしていた。大学院に進み、製薬会社の開発に携わった。そこでも研究の毎日だった。しかしやがて、本格的に研究がしたいと、アメリカに進んだ、その頃、新しいテーマだったファージを始めとするウイルスの研究をすることとなった。その頃くらいから私の微生物学研究は始まった。私は帰国してから、ある薬剤耐性菌に効くウイルスの研究をするようになった。そこで腸内細菌叢を調べる必要が出てきた。ご想像の通り、腸内細菌叢を調べるには途方もない時間が必要で、無謀とも思われた。細菌叢の中で比較的多く、かつ目的の薬剤耐性菌に絞って我々は種類を同定した。

 しかし私は驚くべきことを発見した。

 幸いなことに、私の研究室では本当に幸運なことだが、動物の生体外、つまり試験管とかシャーレの中とかでということだが、の研究のほかに、生体内での、のつまり実際の動物の中での腸管活動や病態をモニタリングすることができていた。また、一時的に麻酔状態にするために完璧な生体内とは言えないにせよ、実際に生きている動物の腸管の神経活動をも同時にモニタリングできる施設と技術員がたまたまいた。これは非常に幸運なことだと言ってよいだろう。この世とは不思議なもので、そんな偶然の奇跡を私にもたらしてくれた。私の生徒の一人が神経活動などをモニタリングした時に、とある刺激が与えられた場合のみに活動する神経が存在した。ここまでは想定内だったが、調べると、刺激を加えた動物と加えていない動物では、明らかに腸内細菌叢が違ったのだ。これはすごく不思議なことだった。

 とある刺激が腸内細菌叢を変えるということは、確かにあり得た。よくよく調べると、ある一定の細菌が腸内にいるとき、とある刺激に対して、細菌がいない時よりも高い反応行動を示すこともわかった。腸内細菌層が動物の心をも変えてしまうと言える、決定的な証拠だった。今でこそ「腸内細菌叢で性格が変わる」だの、「幸せホルモン」だのが有名になっているが、当時はあまりまだよくわかっていなかった。私は当然のことながら、この研究にのめりこんだ。

 ここから私の興味対象は自然とヒトへと移った。いくらなんでもいつまでもマウスを使っていては、それはマウスの世界の証明にしかならない、と言った限界は常にあるのだ。私は再びアメリカに行き、とある病院の患者などの腸内細菌叢を調べた。驚くことに、マウスとほぼ同様の結果が得られた。もちろん細菌叢の成分割合などは異なるが、ある刺激がある場合に多くなる細菌は確かに存在した。

腸内細菌叢を変えれば、ある刺激に対する反応は変わってしまうのだろうか?

少し鬼畜な実験だったが仕方なかった。別の論文ではマウスに自身の糞を食べさせたものや、他のマウスの便を移植させたものもあった。前者はさすがに人で行う場合、倫理上の問題がありできないと判断したが、後者の実験は行った。腸内に何らかの病気を持つ人たちの腸内細菌叢を、健常者のものと変えたりしたのだ。するとやはり、刺激に対する反応は変わった。少し驚かせただけで人一倍びっくりして腰を抜かしていた者が、今や物怖じしない人間になっているのを、私はこの目で確かに見た。

 ここからはもう想像がつくだろう。私は、ありとあらゆる刺激と行動反応実験を繰り返した。何パターンも、何百人と言った人に対してだ。そのうち、とある細菌叢の環境を安定に保つと、90%以上の人々がある刺激に対して同じ行動をすることがわかった。つまり、細菌叢の整っている多くの人間は、ある情報や刺激に対して同じ行動をする……。それが私の実験の始まりだった。

 そこからさらに、私はマスのデータが欲しいと考えた。計算上、便宜的に90%以上のマスターゲットの腸内細菌叢は正常だと仮定して、調査を進めた。もちろんあとで裏取りもしたんだがね。私は娘の研究室の人たちと協力してAIを開発し、より多くの人間が興味のある情報を私の娘が調べ、私はその情報にさらされた人たちが同じような行動をとることを立証した。多くの人が予想通り、彼女の集めたデータから解析して予測したバズるであろう呟きに対して、何らかのアクション、この場合はコメントや引用、「いいね」ボタンの既読など、を起こした。あとはもう、知っての通りだ」

「つまり、ある腸内細菌叢が一定の人間は、同じ感情を持って、同じ行動をする……?」

「そういうことだ」

「その細菌の構成比はわかっているのですか?」

「勿論私たちにはそのデータがある。論文だってもうパブリッシュドだ。それは見ようと思えば誰だって観ることができるんだちょっと調べて手を伸ばそうとしさえすれば、ね。でもきっと誰の目にも届かないだろう。それは私が一番よくわかっている」

「なぜそんな風に言い切れるんですか?」

「この情報は、皆あまり見たがらないからさ」

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