手を伸ばせば

「見たくない情報はみんな見ないってことですか?」

 俺は必死に頭を回転させて言った。

「そういうことだね」

「じゃあつまり、みんな、見たいことだけ見て、言いたいことだけ言って、同じ情報ばかりに反応するんですか?」

「そうとも考えられる。勿論精度は100%ではない。腸内細菌叢が違う何らの疾患の人間には聞かないことも考えられる。母体は少ないが、私の論文に興味を持ってくれる人間だって、少なからずいるだろう」

「すいません、俺はなんだか、すごい怖いです」

「それは……人々が『これは飛行機だ』と言えば、」と彼は机の上の電話を指さした。

「飛行機だ、と言ってしまいそうだ、ということか?」

「そうです」俺は本当に怖くなってきていた。なんだか気味の悪い映画でも見せられているような気分だった。

「その場合、人々ははぜ、『飛行機だ』と言い張るんだろうね」

「本当に飛行機だと思っているから。あるいは、そう言わないと何かしらの不都合が本人にあるから……」

「ということは、中にはこれは飛行機ではない、電話である、と心の中では思っている人もいる、ということだね?」

「そうだと思います。いえ、断言はできません。人の心までは立証できません……」なんだか怖くなってきたうえに、ついでに海藤教授の生徒にまでなった気分だった。

「君は、本当に怖いのかね。顔が青い」彼はゆっくり、俺の頬に手を触れた。不思議なにおいがした。懐かしいような、とにかく落ち着くにおいだ。

「……先生」と俺はゆっくりと口を開いた。だんだん、いろんなことが面倒になってきた。考えることが面倒なのだ。先生は俺を落ち着かせる。段々冷静になってきた。

「どうした?」

「先生は娘さんがいるから、結婚なさっているんですよね?」

「ああ。でも、もう先に死なれたんだ」先生はゆっくりと俺の頬を撫でた。なんだか難しいことを考えられなくなってきていた。

「君は?」と先生が聞いた。

「君は若いから、彼女がいるんだろう?」俺はどうしようもなくほっとしていた。どうしてだろう。さっきまで先生の娘と話していたはずなのに、もうすでに、俺は先生に女がいないと知って、少しほっとしている。

「今は……いません……」

「そう? すごくいろんな人から好かれていそうだよね、今野君は」

今野君、と先生が俺を呼ぶ。思わずどきりとする。なんだか本当に先生の生徒になったみたいでちょっと嬉しい。もう一度、果たせなかった大学時代を取り戻してみようか。

「そんなこと……ないっすよ……」

「何か……怖い……ことは……あるかい……?」ゆっくりと先生が俺に聞く。先生の息が俺の顔に少しかかる。甘い。それすらも、甘い。

「怖い……すべてが……」

「どうして?」

「俺は……石になる…………」

「ならないよ?ほら、手はこんなに温かいし」先生は俺の手を握った。

「心臓だって動いている」

 そうだ。俺の心臓はどきどきしていた。いつもよりもずっとずっと大きく。先生が動いて、何かするたびに、俺の頭の中は俺の意志とは関係なくスパークする。ねえ、おれはほんとのこと言うと、先生に食べられちゃいたくて仕方ないよ。でも、そうじゃないんだ。

「俺は、ただ単に、ただ単純に、もう一度、自分の頭で、考えたいんだ……」


 だるい体を瞬時に起こす。俺は細菌が入った恒温器の電源を切った。

「何をする?!」先生が叫ぶのを無視し、そのまま俺はコンセント部分を持ち去り走った。

「先生、俺と新しい実験をしないかい?」

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