梅干しが怖い研究者

 「働き方改革って知っていますかあ?」

 俺は行きつけの酒場で一人、飲んでいた。そこは俺の高校時代の友人が経営する居酒屋で、おいしいつまみとビールがあれば延々と一人そこで夜を明かすことが多かった。

「今野、また荒れているな、ってかまた23時退勤?」

「まあうちは朝が遅いからまだいいけどさ」俺は半分眠くなりながら友人の日野に声をかける。

「やっぱりライターって夜型なんだね」

「いや、全日型?」

「おいそれただの徹夜だろ」日野が突っ込みを入れる。

「ライターの方も忙しいんですね」

 聞き慣れない、低い、大人の、それでいて落ち着くような、声が、した。

「ふえ?」

 俺は既に2杯で酔っていた。振り返ると、薄青いシャツとベージュのスラックスを穿いた、細身の男性が焼酎を一人で飲んでいた。少し頭は白く、年は40か50くらいだろう。

「いそがしんですよお、おにいさん」俺は完全に酔っぱらっていた。

「そうですね、どんな人にも事情はあります」その日、彼は村上春樹の『TVピープル』を読んでいた。すかした奴だと思った。

「お兄さんは何をしているんです?」完全に絡み酒だった。

「研究をしています」

「研究者? もしかして、大学の、せんせい?」

「ええ、そうですね」

「すごいなあ。頭がいいんだなあ」

「まさか。人より少しねじが外れているだけですよ」

「いやいや、謙遜するなよお兄さん。お兄さんは顔だってイケてるしさ、最近流行の職場BLドラマに出てきそうじゃないですかあ」

「はあ。世間の事には疎いんです」

「またまた」

「いや、本当なんです。私は研究ばっかりで、まだまだ世間のことを知らないと思います」

「ふうん?世間のこと、全然知らないんだ?じゃあお兄さん、タピオカも飲んだことないんだろ?」

「タピオカはありません。粒粒が嫌いなんです。特にあの、梅干しの実が苦手で」

「ふうん。でも食べたことないんだったらさ、一度試してみたらどうかな?」

「気が向いたら考えてみますよ……それより今日は、おでんでも食べたらどうです?良ければおごりますけど」

「え?お兄さんと俺、初対面じゃん」

「いいんですよ。世間のことを教えてくれる人がいてくれるのはとても助かりますし……。何より、貴方は疲れている」彼はそういい、俺の目をじっとのぞき込んだ。思わず俺はどきりとする。なんだ、この感情は。

「え、いやいいよいいよ。俺そんな初対面の人に奢られるほど、疲れて見えるかなあ?」

「疲れて、ますよ」そう言いながら、彼は俺の顔をじっとのぞき込んで、優しく頬に触れた。じんわりと彼の指の温かさが伝わる。大きな、手。

「日々、いろんなことを考えているんでしょう?」

 俺は思わず赤面する。

「まあ仕事が二年目に入ったばかりで忙しいさ……あはは……」

 俺は今までにない感情を抱えていたが、無理やりそれをかき消した。


 男に惚れるなんて、まさか、な。

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