(四)霧③

 帝国軍の動向は情報伝達による時間的差異はあるものの、帝国国内の貴族達に少なくない衝撃をもたらした。

 ルクスフォール伯爵領にその情報が届けられたのは、ヴァストール王国に帝国軍の侵攻情報がもたらされたのと時をほぼ同じくしていた。

「……あぁっ、くそっ!」

 封書の中身に目を通した直後、アシェルタートはそう叫んで拳を机に叩きつけた。

 想定していたよりも遥かに早く帝国軍は動き始めた。何とか侵攻を止められないかと模索していたアシェルタートにとって、皇帝からの早すぎる回答だった。

 誰が冬の寒さの中、無理をしてまで軍を動かす必要があると考えるだろうか。皇帝の果てなき欲望は、季節さえも足止めする枷にならないというのか。

 怒りと無力感とそして焦燥が入り混じり、心と体が引き千切られるかのような錯覚に襲われ意識が遠のきかける。

 その時だった。

「大きな音が聞こえましたが、どうかしましたか?」

 母の声が部屋の外から聞こえてきた。

「すみません、大丈夫です……」

 我に返ったものの手の震は止まらず、激しく脈打つ音が耳にうるさいと感じるほど。アシェルタートは冷静になり切れない自身を自覚しつつ、握っていた拳をゆっくりと開いた。

「先程届いたドグランジェ侯爵からの書面に、何か良くないことでも書いてありましたか?」

 室内に入ってきた母、オースティアは心配したような表情で尋ねた。


 封書の送り主であるドグランジェ侯爵自身、まだ謹慎処分中であるにも関わらずこのように急ぎ情報を寄越したのは、新年の折の会話が気掛かりだったからだろうか。

 母に心配させまいと強がりながら、アシェルタートはまだ動揺に震える手で母に手紙を差し出した。

「西軍が南方の国を侵攻するため、帝都を発ったとの連絡がきております。名目上はルニエラ王国周辺の安定化との事だそうですが、その後も隣国への侵攻を継続することが考えられるとの事でした」

「まあ……。陛下御自ら宣言されたとはいえ、こんなに早く……」

 それ以上をあえて口にしなかったのは、流石に名門伯爵家の夫人といったところだろうか。


「ともかく……この情報が広まれば南方の国の多くは、帝国との国交について考え直すことになるでしょう。昨年までの水面下の交渉において、帝国への追従を否とした国々との国交は絶望的だろうと」

 ドグランジェ侯爵の記した内容は、アシェルタートの予想と軌を一にする。

「そうですか……。最近、馴染みの商人たちがシルネラやセルドニア聖国あたりとの荷の往来が、非常に難しくなってきていると愚痴を漏らしていましたね……」

 そう、現状でさえ絞られていた国交、交易が今回の侵攻で断絶する。

 南方の国との交易が有ることで物資の流通が成り立っていた領は苦しくなる。依存する交易量の違いはあるだろうが、幾人もの領主がこの難題に直面することになるだろう。交易量こそ多くは無いがルクスフォール家も例外ではない。

「ここで隣国との交流が断絶すると、彼女達が来ることはもう無いでしょうね……」

「それは……」

 憂うようにつぶやく母の横顔に、アシェルタートは言葉を詰まらせた。

「こんな時に言うのもなんですが……。貴方がルシェさんを娶りたいと思う気持ちが有るのも分かっていますし、彼女自身も素敵なお嬢さんだとは思っています。が、今後どうなるか分からない状況で、爵位を継いだ貴方がいつまでも独身という訳にもいきません。……この際ですから、以前からあったカスペリオン伯爵からのお話を受けるべきと思います。そして貴方がどうしてもルシェさんをを待ちたいというなら、側室という形でも……」

「母上……」

 カスペリオン伯爵の話、とは伯爵の娘ミゼレーア嬢との婚約のこと。

 貴族の正妻に他国の平民というのは対外的に良くないというのも理解している。その点カスペリオン伯爵令嬢であるミゼレーアを正妻に迎えれば、そうした面も解消できるだろう。

 加えてこの先、シルネラと国交が回復するまで待つとしても、何時になるのかも分からず、他国を経由のやりとりも今の状況では難しくなった。侵攻が進めばシルネラ自体が帝国領となる可能性もあるが、それは彼女たちも戦禍に巻き込まれる事を意味する。どのみち先の明るい話ではない。

 母の言葉は正論だというのは分かっている。

「……その話はもう少し待ってください。この状況でというのは、あまりにもミゼレーア嬢にも失礼だし、気持ちの整理も……」

「ええ、分かりました。ただ、今すぐにとは言わないけれど早めに決断なさい。ミゼレーアさんだって引く手数多でしょうし、カスペリオン伯爵のお気持ちが変わらないとは限りませんからね」

「はい……」

 言い訳がましく逃げたものの、いつまでもそれで押し通せる訳ではないだろう。

「まずは、これからの変化を貴方の手腕で乗り切らなければなりません。領地も領民も貴方が守らなければいけない。いつまでも私事で悩んではいられないのです。それにしても……せっかく西方戦線に駆り出されていた人たちが戻ってこられたのに、近々また同じような状況になるのかしらね……」

 夫人が最後に漏らした領と息子の未来を憂うため息は、暖炉の薪が弾ける音にかき消された。


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