第61話 神の力

 時間にすれば、ほんの一瞬だった。


 世界は完全に元通りになっていた。

 獣人の城にある屋上庭園。シルファもアージュも、戦闘の痕跡もなにも変化はない。

 だが明確に違うものが、たったひとつ。


 フェイの姿が、大きく変容していた。


 手足は炭のように黒く染まっている。

 背中からは、まるで海の軟体生物のような太い触手が何本も生え、足の代わりに小柄なフェイの自重を支えていた。


 だがなによりも目を引くものがある。


 フェイの武闘着の胸元が大きく裂け、そこになにかの結晶体が埋め込まれている。

 光を吸い込むような黒い輝き。


 それは、俺の魔王の心臓とよく似ていた。


「さあ、これでようやく対等ですよ。神官さん♪」


 フェイは、正確にはフェイだったものが、俺に微笑みかける。


「対等……だと?」


 俺はフェイが宿した力の正体を知っていた。

 あの血塗られた鏡の世界で開いた門――そこに捧げたスレイヤたち獣人族の血と肉を代償にして得た、この世ならざるものの力だ。


「それが、お前のいう神か?」

「ええ、そうです」


 フェイが背中から生える触手を巧みに操り、一歩踏み出す。


 すると、踏みしめた石畳の隙間から若々しい草が溢れた。

 急激に成長した雑草は、やがて幹と枝を生やし、さらには色彩豊かな花を咲かせる。


「わわっ、見てください。ボクが歩くだけで、新たな生命が生まれていますよ。これが、神と言わずして、なんと言うんですか?」


「おこがましいな。お前が崇めているのは、神ではない。それは、邪神だ」


「あははっ! さすが神官さんですね! そう、邪神なんですよ……!!」


 神官が学ぶ教典のなかには、いわゆる邪法や妖術と呼ばれる儀式にまつわる記述も多く存在する。


 そこに書かれているのは、魔族の蘇生と同様、禁忌とされる類のものだ。


 決して再現してはならない掟。古の儀式。

 無論、過去数百年の間に、それを実行に移した者はいない。


 なぜならその生贄とは、ひとつの種族が滅ぶほどの数を示している。どれほど力を持った王族や独裁者であっても、容易にできることではない。


 だがそれを、現実に行おうとしている者たちがいる。


 ディーン・ストライアを筆頭する、《七人の勇者》だ。


「役立たずの神なんかじゃない……。ボクたちが選んだのは、世界を変えうる力を持った、偉大なる邪神の力なんですから!」


 人間の姿を捨て、フェイはその邪神と一体化した。


「ここからが、本当の勝負ですよ。神官さん」


 風が唸る。


 その異形からは考えられない速度で触手が跳ね上がり、一帯を薙ぎ払った。


 たった一撃で美しい庭園の木々がすべて吹き飛び、屋上の半分が吹き飛ぶ。

 さらにその衝撃だけで、城の一角が完全に崩壊した。


 巻き起こった暴風により、大量の葉は木々の破片が舞い上がり、獣人の兵士たちの死体を跡形もなく押し潰した。


 後に残ったのは、災害にも等しい滅びの景色。


 俺はうずくまって身を寄せるシルファとアージュの盾になっていた。

 右手を掲げ、【オルタ・フォース】を発動する。


「残った敷設術式をすべて起動しろ」


「承知しました、主様」


 俺は隣に立つイオナに命じた。


 直後、フェイを取り囲むようにすべての術式が炸裂。

 邪神化したフェイの攻撃に負けずとも劣らないほどの大破壊が巻き起こる。


 もうもうと土煙た立ち込める。

 だが、手応えはなかった。


「言ったじゃないですか。ボクは、イオナとはちがうって」


 五体満足、それどころか傷ひとつ負っていないフェイが姿を現す。

 何本もの触手に支えられ自立するその姿は、人間よりも魔物に近い。


 だがあれは、そのいずれも超越した存在だ。


「さあ、さっきのはほんの挨拶です。まだまだ、これからですよ」


 邪神化したフェイが、遠距離で拳を突き出した。


 当然、届きようもない距離。

 だがその動きを、背中から伸びる触手が追跡し、まったく同じ動作を再現した。


 矢のごとく伸びた触手が俺の頬をかすめる。

 回避できないほどの攻撃ではない。


 だが奇妙だったのは、その触手が貫いた軌跡。

 そこが漆黒に塗り潰されていた。

 まるで空に黒い絵具で線を引いたように。


「あ、迂闊に触らないほうがいいですよ。そこはもう、なにも存在しない空間ですから」


 ひらりと舞い落ちる枯れ葉が、その黒い空間に触れた。


 途端、枯れ葉は溶けるようにして消滅する。

 跡形もなく。

 砕け散ったのとも、燃え尽きたのともちがう。


「ボクは、そこを世界から消したんです」


 存在の消失。

 まるで、世界を切り取るような力だ。


「この邪神化の素敵なところは、ボクの力をより引き出してくれることです。つまり、ボクの【絶対会心】による致命の拳は強化され、死を与える力から、死を与え続ける力に昇華しているんです」


 フェイは己の意のまま動き、永遠の死を与える触手群をうっとりと見つめた。


「ボクが拳を振るうごとに、この世界はボクの望むままに変わっていく……ボクにとってふさわしい環境に」


 フェイの言葉は、決して妄言とも思えなかった。


「神さまなんですから、世界を作り変えるくらいできて当然だと思いませんか?」


 世界の改変。

 それはまさに、あのときイオナが口にした誇大妄想的な言葉と合致する。


 己の望むままに世界そのものを書き換えるほどの力。


「でもまだ、これからです」


 フェイの背中の触手が伸び、翼のように大きく広がった。



「神官さんも、ボクの世界には不要ですからね」



 今度は五本同時に来た。 


 上下左右正面から伸びる触手を、すべて紙一重でかわす。

 回避と同時に、一本の触手を掴み取る。


「死ね――【オルタ・レイザー】」


 【オルタ・レイザー】:全防御魔法貫通。目標に命中。対象即死


 効果発動。

 だが力を失い地面に落ちたのは、その触手一本だけだった。

 それと繋がっているはずのフェイは平然としている。


「ああ、それが噂の即死の力ですかぁ? やだなぁもう、笑わせないでください」


「なにがおかしい?」


「おかしいに決まってます。だって、たかが命を奪える程度の力で、ボクに逆らえるわけないじゃないですかぁ」


 フェイは死に絶えた触手の一本をみずから切除した。

 すると、それとまったく同じ触手がすぐさま生え変わる。


 その姿は、もはや人間とはほど遠い。


「命ぐらい、ボクには掃いて捨てるほどあるんですから」


 フェイの触手から、無数の顔が浮き出た。


 それを目撃したシルファたちが息を飲む。


 触手の表面に浮き出たのは、すべてが獣人の顔。

 おぞましさに吐き気がするほどだ。


「ボクの中には、無数の命があります。これまで殺してきた分だけの命が」


「それも邪神の恩恵か?」


「ええ、そうです。でも、合理的だと思いませんか? 下位の生命が、上位の生命の一部となって生き続ける。きっと、これまでボクが殺した魔族や獣人たちも、喜んでいるにちがいないです♪」


 フェイにとって、獣人たちを愚弄しているつもりはないのだろう。

 一片の疑いもなく、その考えを信じている。


 自分が、自分こそが、この世界で最上位の生命体であると。

 まさしく、邪神の具現化。


 だが、それでこそ《七人の勇者》のひとり。


 俺が神の代理として復讐を果たすべき仇敵にふさわしい。


「それじゃあ、そろそろ終わりにしましょうか。神官さん」


 フェイが拳を引いた。

 同時に無数の触手たちが広がり、俺の視界を覆った。


 今度はどれほどの数で来るのか。

 そのすべてを回避するのは到底不可能だろう。


 だが俺は悠然とそれを見上げ、フェイに向かって不敵な笑みを浮かべた。


「……よほど神に、すがりたいらしいな」


「はい?」


「己が無力だからこそ、神の力を誇示したがる。己の内面の醜さを知っているからこそ、外見だけの美にこだわるのと同じようにな」


「ッ……!」


 フェイが目元をひくつかせる。

 触手が猛烈な怒気と殺意を帯びて、全方位に伸びる。


「レイズ、逃げてっ……!」


「レイズ様……!!」


 悲鳴に近いシルファたちの叫び声。

 だが俺は絶対なる死をもたらす光景を前にしながら、ひどく落ち着いていた。


 ふいに懐に手を触れる。


 そこにはあのときシルファに手渡された、魔王の角の断片が仕舞われていた。

 角がわずかな熱を帯びたように感じた。


「とっとと死んでください、レイズさま」


 無数の触手が【ゼロ・アクセル】を発動。時間を消費せずに宙を走る。


 防ぐことができたのは、ほんのわずかだった。


 死を与え続ける触手が俺の太腿と肺、肩、そして右目を貫いていた。


 フェイがスレイヤを殺したときと同じ、会心の笑みを浮かべる。



「ボクの、勝ちです」



 次の瞬間。


 あのときの虚無が、俺を覆い尽くした。

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