第39話 生殺与奪

「ボクの幸運を……弱体した?」


 フェイは膝をつき、呆然と凍りついていた。

 それからようやく気づいたように、慌てて自身の鼻血を拭う。


「は、はは……なにを言ってるんです? い、意味がわかりません!」


「筋力や体力と同様に、幸運もまた、人間の能力値を形成している。存在している力であれば、【オルタ・フォース】によって弱体化できる」


「そんな……」


「そして最低以下の極限まで悪化したお前の幸運値は、お前にとってあらゆる災厄をもたらす。例えばそう――ことごとく攻撃が命中しない、という不運も」


「う、嘘だっ! そんなこと……あるはずないです!」


「なら、存分に試してみるといい」


 俺はフェイに手の甲を向けたまま、奴を手招きした。

 ありふれた挑発。


 だがフェイは屈辱の憤怒を全身にみなぎらせ、武闘家の構えをとる。


「そんなこと……あるはずが……。ボクの攻撃が当たらないなんて……。ボクは世界一可愛くて賢くて……強いんですから……!!」


 瞬きをした瞬間、フェイが残像と化す。


 だがもはや、なんの脅威にもならない。


 俺は徒手空拳のまま迎撃。

 至近距離で拳をみずから空振りしたフェイの顎を、掌底で打ち抜いた。


「がっ……!?」


 続いて首筋に右腕で手刀を叩き込み、さらに畳んだ左肘でフェイのこめかみを強打。


 がくん、とフェイの膝が落ちる。


 それでもまだフェイの眼光は力を失わない。


 繰り出されるのは、神速の蹴り上げ。


 しかし俺は回避行動すら取らなかった。

 なぜなら、当たらないと最初からわかっているからだ。


 空を切った足首を掴み取る。


「なっ……!?」 


 フェイの瞳に、今度こそ底知れぬ絶望が満ちる。


「腹に風穴を開けられたくなければ、力を込めろ」


「……!!」


 問答無用に宣告し、俺はフェイの腹部を拳で突き上げた。


「ぐへぁっ……!?」


 フェイが胃液を吐き出し、盛大に吹き飛ぶ。

 固い路面に何度も叩きつけられ、ぼろきれのような姿に成り果てた挙句に、ようやく停止した。


 確かに近接格闘において、神官と武闘家では雲泥の差があるだろう。

 だが武術的な技量など関係ない。存在しないに等しい。


 この身に継承した、魔王の力の前では。


「いたっ……痛いよ……」


「一方的に殴られるというのは、どんな気分だ?」


 俺はうずくまったままのフェイに、ゆっくりと歩み寄った。


 無造作にその前髪を掴み、頭を持ち上げる。


「ひっ……いや……」

「いや……傷つけられる者の痛みなど、お前たちに答えられるはずもないか。ならば、お前たちは、それを知らなくてはならない」


 俺の言葉の意味を理解したフェイの瞳に、恐怖が映る。

 無論、これは脅しではない。


 フェイの手足がかたかたと震え出す。


「……しっ、します……」


「なに?」


 怯えすくんだフェイが、なにかを呟く。


「こ……降参……します。ボクの……負け、です……」


 フェイの目には、涙が溢れていた。

 それは経験したことない痛みによるものか、あるいは屈辱によるものか。


 いずれにせよ、なんの価値もない。


「やはり、お前たちは同じだな。そこの伝説の魔法使いも、人形になる直前、お前と同じ言葉を口走っていた。そう言って命乞いして来た魔族や亜人たちを、お前たちはいったいどれほど殺してきた?」


「ち、ちがうっ、ちがうの……!」


「なにがちがう?」


「だから……ぜんぶ、全部ディーンに命令されてやったことなんです……」


 フェイは腫れ上がっていないほうの瞼を開き、弁解を口にした。

「命じられていただけ、か。ならそれを素直に聞き入れ、罪のない魔族たちを虐殺していた自分たちにはなんの責任もないと言うつもりか」


「そ、それは……」


 愚の骨頂だ。

 俺は完膚なきまでに怯えすくんだフェイの顔を、右手で鷲掴みにした。


「がっ……!」


「貴様を地獄に送る。永遠の、終わりなき煉獄に」


「っ……!?」


【オルタ・レクイエム】――イオナに施した最終の反転魔法。


 ただ殺すなど、ありえない。

 リザを殺したこいつらに、ただの死などという赦しを与えるはずがない。

 理解させる必要がある。


 これから長い長い、悠久の時を使って。己の犯した罪の大きさを。

 赦されざるお前たちに、ふさわしき罰を与える。


 神がやらぬ報いを、この俺が。


「……ひぐっ……」


 ふいに、右手の先から情けない嗚咽が聞こえた。

 俺に顔面を掴まれたままのフェイが泣いていた。


「ご……ごめん、なさい……。ボクが……まちがって、ました……。お願いです……ゆ、許して……ください……」


 そこにいたのは、もはや伝説の武闘家などではない。

 脆弱で無様なだけの、か弱い小娘だった。


 だが俺の心にはさざ波ひとつ立たない。


「永遠の牢獄のなかで、自らの愚かさを悔いるがいい」


「いやぁ!」


 俺は右手に力を込めた。



「レイズ様っ、お待ちください!!」



 悲痛な叫び声が、俺の腕を止めた。


 俺はフェイの顔を掴んだまま、声のほうを振り返る。

 泣き出しそうな顔をしたアージュが、祈りを捧げるように手を組み、俺を見つめていた。


「なんだ?」


「この方は……罪を悔いています」


「それがどうした」


「どうか一度だけ……罪を償う機会を、お与えいただくことはできませんか?」


 信じられない言葉だった。


 だがアージュは眼差しは真剣そのものだった。


「なぜ俺が、こいつのためにそんな慈悲を持つ必要がある?」


「この方のためだけでは、ありません。なにより……レイズ様のために」


「俺のため……?」


「レイズ様の手を、これ以上、無用な血で穢さないためにも」


 あまりにも、それは奇妙な言葉だった。


「俺の手は、とうに穢れている」


「それでもです……!」


 アージュは毅然としてフェイの返り血に汚れた俺に近寄り、手を伸ばした。

 俺の頬に、そのやわらかな指先が触れる。


 飛び散った血を優しくぬぐった。


「レイズ様の穢れを……どうか私たちにも背負わせてください」


 それはいったい、どういう意味なのか。

 いや――その行為に、いったいどんな価値があるのか。


 俺は答えを求め、シルファを見た。


 シルファはアージュの涙交じりの言葉を肯定も否定せず、ただ見つめている。

 わかっていた。


 シルファは俺と共にある。

 たとえ、俺がこれからさらに多くの血にまみれようとも、その先にどんな怪物に成り果てようとも、俺の傍にいる。


 それがあのとき魔族の地で俺とシルファが交わした、約束だ。


 だからこそ、俺に選べということなのだろうか。


 リザを殺したこいつらの、生殺与奪を。


「ごめんなさい……ごめんなさい……。もう二度と……許して、ください……」


 恐怖に打ち震えるフェイが、必死にかすれた声を絞り出す。


 俺はフェイの顔を押さえていた右手から、ゆっくりと力を抜いた。


「え……?」


 フェイが呆然と俺を見上げる。


「アージュに、感謝するんだな」


 状況を理解するまで、フェイはしばらくの間を俺を見上げていた。


 だがやがて、堰を切ったように嗚咽を上げて泣きじゃくった。


 人形であるイオナが、そんなかつての仲間を無感情な瞳で見下ろしていた。

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