第35話 異国の景色

 通りは異国の香りに満ちていた。


 大通りの両脇を、様々な露店が無秩序に埋め尽くしている。色とりどりの果実を売る女。無骨な刀剣や鎧を得意げに披露する男。怪しげな薬を調合している老人。


 初めて訪れるその国は、言語や民族こそ同じだが、好奇心を掻き立てる目新しさに満ちていた。


「あ、シルファさん。あちらの赤い果実はなんでしょうか?」

「あれはグレプの実。甘酸っぱくておいしい」


「わわっ、見てください! すごく立派な毛皮です……!」

「あれはブラックベアーの毛皮。生息数が少ないから希少品」


「くんくん……。なんだかあちらから、とても香ばしい匂いが……」

「あれはトゲガエルの串焼き。小さい頃、よく食べた」


 アージュの素朴な疑問に、シルファが遅滞なく答える。


 かつて世界を統べた魔王の娘であるシルファは、俺やアージュよりも博識だ。

 シルファもこの人間の小国を訪れたのは初めてのはずだが、見るもの触るものを片っ端から解説している。


「レイズ、あれ買ってもいい?」

「ああ」


「あの……でも、平気でしょうか? もしシルファさんの正体を知られたら……」

「その姿なら、問題はない」


 俺は淡々と答えた。

 いつもより活発なシルファがアージュの手を引き、砂糖菓子を売る露店に近づく。

 ふたりの足取りは軽やかだ。

 控えめに言っても器量抜群の美しい娘たちを前にして、菓子屋の中年男は息をのみ、年甲斐もなく顔を赤くしている。


 アージュはともかく、シルファが平然と人前に姿を見せられている理由。

 それはシルファの印象が普段とは大きくかけ離れているからだ。


 まず魔族の特徴たる、こめかみから生える角がない。

 黒い翼も、細い尾も、人外の異種族たらしめる身体的特徴は完全に消え、外見からはただの人間の少女にしか見えない。


 自動人形――イオナの変異魔法【トランス】の効果だ。


 人間の生活圏である都市部で、姿を隠したまま行動するのはリスクが高い。

 そのため、俺はさっそく人形を有効活用することにしたのだ。


 一方、アージュの身なりも見違えていた。

 ただしこちらはイオナの魔法ではなく、ただの衣装替えだ。

 かつての大仰で浮世離れした聖女の法衣ではなく、質素ながらも品のある町娘の恰好をしている。長い髪は、頭の後ろの高い位置でくくっていた。

 活動的に揺れる黄金の髪。以前よりも生き生きしているようにも見える。


 たしか聖女として大神殿に招かれる前までは、山で羊の世話をしていたと聞いている。

 もしかしたら、これがアージュの本来の姿なのかもしれない。


 とり立てて変装もせず黒の法衣をまとった俺は、ちらりと後方を振り返る。

 そこに、ひとつの透明な気配がある。


 紅蓮の髪と真紅のローブ、そして仮面。


 その目立ついで立ちが人目に付くことない。イオナ自身の幻影魔法【ミラージュ】で、目視できないよう迷彩させている。


 イオナは俺たちの後方でぴたりと一定の距離を維持していた。


「レイズ、食べる?」


 砂糖菓子を手にしたシルファが戻ってきた。

 俺は無言で首を横に振り、歩き出す。


 俺がここに来たのは、露店を物色して歩くためではない。

 この小国バルペインを訪れた理由はたったひとつ。


 まもなくここに、伝説の勇者ディーン・ストライアが姿を現すという情報を掴んだからだ。


      △▼


 宿の最上階の部屋から、俺はさきほどの市場を見下ろした。


 室内は広く、ひとりでは到底持て余すほどだ。

 絨毯も調度品も、一目で高級だとわかるものばかり。この小国の町ではおそらく最高級の宿と部屋だ。シルファは部屋の花瓶や絵画を興味深げに眺め、アージュは部屋の中央でくるりと身を躍らせた。


「すごく素敵なお部屋ですね。レイズ様、本当にここでよろしかったのですか?」

「問題はない。シルファと一緒に、好きに使ってくれ」


 無論、宿の主人たちを皆殺しにしたわけではなく、正当に代金を払っている。

 路銀はこれまで殺した冒険者の遺留品や、助けた異種族からの報酬で賄っている。だが金など使るだけあれば十分だ。


 ただ俺がここを選んだのは、贅沢が目的ではない。


 ちょうど町並みが一望できる位置にあったから、というだけの理由だった。

 バルペインの王城へと繋がる大橋も、ここからはよく見える。


 予定通りであれば、明日、遠征から帰還するディーン・ストライアが大軍を率いて、この国を通過する。

 そしてあの橋を通るはずだ。


 奇襲には絶好の機会となる。

 その瞬間を、俺は心待ちにしている。


「レイズ、発作は大丈夫?」


 シルファが心配そうな表情を浮かべていた。

 ここ数日、俺は一度もシルファからの血清を受けていない。


 だが体調にまったく問題はない。

 魔王の心臓による過負荷は、徐々に軽くなっていた。

 時間と共に、俺の身体が魔王の心臓に馴染んできた、ということかもしれない。


 あるいは――俺が人間から遠ざかっているのか。


「ああ。今は問題ない」

「よかった。でも、いつでも言って」


「あの……レイズ様……」


 なぜかアージュも不安そうに俺を見つめていた。

 その瞳には、深い憂いがある。


「もし明日、ディーン・ストライアが現れたのなら……そのときは……」


 どくん、と心臓が反応するように脈打つ。

 俺のなかにいる魔王もまた、恩讐の炎に昂っているのかもしれない。


「決まっている」


 俺は賑やかな街並みから視線を外し、アージュを見た。

 静かに口の端を釣り上げる。


「俺が奴を、この地上から抹殺する」

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