第23話 聖女の涙

 隠れ家にあるそれぞれの部屋で、俺たちは夜を迎えていた。


 俺の脳裏には、昼間の出来事が鮮明に蘇っていた。

 特にひとつ、どうしても気になっていることがあった。


 だから俺は部屋を出て、彼女の部屋の扉を叩いた。


「――アージュ、まだ起きているか?」


 すぐに慌てたような足音がして、扉が開かれた。


「れ、レイズ様。私になにか……」


 生地の薄いワンピースという無防備な姿で現れたアージュに、俺は言った。


「君の身体のことで、伝えたいことがある」


 その言葉になにかを察したのか、彼女は強張った面持ちで、俺を部屋に招き入れた。

 アージュはベッドに腰掛け、落ち着かなそうにしている。


「あの、お話というのは……」

「アージュの身体には、術式魔法が埋め込まれている」


 単刀直入に言った。


「術式魔法……? それはたしか、他者の肉体や物体に仕掛けとして施した《魔法》の一種……でしたよね」

「そうだ。それがアージュの体内に隠され、駆動している。昼間、アージュが聖教騎士に命令を下そうとしたとき、一時的に声を出せなくなっていただろう」

「あっ……」


 あのとき彼女は、自分の意思とは異なる力で、声と言葉を奪われた。

 あれは術式魔法の典型的な反応だ。


「で、ですが、いったい誰がそんな……」

「おそらくはゼオラルの仕業だ。なにか心当たりは?」


「そういえば……たしか以前に彼の前で眠りにつき、洗礼の儀式を受けたことがありましたが……」

「では、そのときだ。あの男は、君を都合よく操るために、行動に制約をかける術式魔法をかけたんだ。今から俺がそれを解く」


「で、ですが、司教様の術式魔法を解除することなど……」

「一介の神官ならば無理だ。だが――」


 今の俺なら、この魔王の力があれば不可能などない。


「ただし、慎重な処置が必要になる。それに、おそらくはひどい苦痛も生じる。それを覚悟してくれるのなら、だ」

「もちろんです。レイズ様のご好意を、無駄にはしません」


 アージュの気丈な表情に、俺も覚悟を決めた。


「術式魔法は、身体のどこかに埋め込まれている。まずはそれを特定する」

「わかりました」


 俺はアージュの隣に腰掛け、彼女の額に手をかざした。

 意識を集中し、ゆっくりと手の位置を下げていく。


 それが腹の下まで来たとき、反応があった。


 彼女の下腹部――その薄い生地越しに、ぼんやりと赤く発光する、禍々しい紋様が浮かび上がった。


「こ、これは……?」

「読みは正解だったな。これが術式魔法だ」


「れ、レイズ様。私はどうすれば……」

「術式魔法を、俺が【トリト】で浄化する。それで解除ができるはずだ。ただ……」


「ただ……?」

「本来なら、直接を触れたほうが効果は確実だが……」


 聖女である彼女に直に触れることは、さすがに気が咎めた。

 しかし、代わりの方法もすぐには思いつかない。


 だが俺の内心の迷いを断ち切るように、アージュが俺の手を握った。


「アージュ……?」

「構いません。レイズ様にお手を煩わせているこの状況で、ご迷惑はかけられません」


「……本当に、いいのか」

「はい。私の身体を、レイズ様に委ねます」


 アージュは立ち上がると、ワンピースの肩ひもに手をかけた。

 わずかなためらいの後、アージュは意を決したように結び目をほどいた。


 しゅるり、と絹の寝間着がはだけ、床に落ちる。


 ランタンひとつだけの薄暗い部屋に、聖女のほっそりとした裸身があらわになった。

 まるで光り輝いているように錯覚する白くなめらかな肌。

 華奢でありながら、ふくよかな立体感に富んだ肢体。柔和な丸みをおび、女性としての美を強く主張する身体の線は、まさに神が作ったと言うほかない完璧な造形。


 俺はこの状況を失念するほどに見入ってしまった。


「ど、どうかされましたか……?」

「いや……なんでもない」


 軽く深呼吸し、気を取り直して彼女に近づいた。

 彼女の白磁のような肌が、桜色に火照っているように見えた。


 俺は彼女の臍の下に手を伸ばし、その柔肌に指を触れた。

 浄化魔法である【トリト】を発動。


 途端、紋様が強く発光。


 術式魔法が、解除に抵抗しているのだ。


「んっ……ああっ……!」


 アージュが苦悶に呻き、痛みと羞恥で頬が紅潮する。


「いっ……やあっ……! やっ……んぅ……! あぁ……んあああんんっっ……!」

「もうすこしだ」


 俺は慎重に、少しずつ【トリト】の力を強めた。

 下手に効果を強めすぎれば、術式魔法が暴発し、彼女の肉体の器官を体内から傷つけかねない。


「……はぁっ! んっ、はぁ……! れ、レイズ様、もう立っていられません……」


 膝を折り、アージュが倒れこむ。

 俺はとっさにその身体を抱きしめた。


 アージュは俺にしがみつきながら、必死に施術の痛みに耐える。

 彼女の体温と汗を手のひらに感じながら、俺は【トリト】を発動し続けた。


 きらめく雫が彼女の玉の肌を伝い、床へと落ちた。


「レイズ様……ごめん、なさい……」


 唐突に、彼女が謝罪を口にした。


「なにを謝っている?」

「私は……レイズ様のお役に……なにも立てませんでした……。レイズ様が一番苦しいとき、その傷を癒すことも、お傍にいることさえも……」


 大粒の雫が俺の腕に落ちた。

 アージュは涙で頬を濡らしている。


 心から彼女は己を悔いている。恥じている。それがわかった。


 彼女が聖女だからだ。

 決して称号や資格ではなく、生来のものとして。アージュという少女の本質として。

 だから彼女は俺に起きた悲劇に、誰よりも、俺自身よりも心を痛めているのだ。


「君が悔やむことは、なにもない」

「そ……それでもっ、私は……んんっあ!」 


 どれくらい、彼女に触れたまま【トリト】を発動していただろうか。


 術式魔法の紋様が徐々に暗くなっていく。

 禍々しい発光が力尽きるように弱まり、やがて完全にアージュの下腹部から消失した。


 汗だくになりながら、アージュが荒い息を整える。


 これまで経験したことない苦痛だったのだろう。意識がもうろうとしている。


「よくがんばったな。もう大丈夫だ」

「レイズ、さま……。あ、ありがとう、ございま……」


 ついに限界を迎え、くずおれたアージュを俺は抱きとめた。

 気絶している。これまで経験したことない苦痛だったのだろう。


 だがこれで、彼女がゼオラルの魔法術式で縛られることはない。

 聖教騎士も、彼女の正しき統制下に戻るはずだ。


 俺はぐったりとしたアージュをベッドに寝かせ、そっとシーツをかけた。


 健やかな吐息を耳にし、俺はリザやシルファと同じ愛おしさをアージュに感じた。


 共に行くことはできない。

 けれど、どうか心穏やかにいてほしい。


「アージュ、俺がすべてに片をつける」


 ひとり誓うと、俺は聖女の寝室を後にした。

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