第9話 シルファ

 

 長い、とても長い夢を見ていたような気がする。



 重い汚泥のようなまどろみから、俺はゆっくりと浮き上がっていく。

 意識を取り戻した途端、雷に打たれたような鋭い痛みが全身を駆け巡った。


「ぁあっ……がっ……!」


 自分の身体を見下ろす。目を背けたくなる腫瘍のような火傷痕。

 イオナの魔法で受けた傷だ。

 ただ、出血は止まっていた。

 

 不思議だった。

 どう見ても命にかかわる状態だったのに、なぜ、俺は生きているのだろう。


 それに……ここはどこだ?


 周囲に見えるのは険しい灰色の岩肌ばかり。どこかの谷底だろうか。

 わずかに光が差し込む空が、はるか頭上に覗いていた。

 どこかで見たような景色だと感じた。


 これはあのとき共有したイオナの記憶。

 魔王との最終決戦の場所に似ていた。


「気づいた?」


 幼い女の子の声がした。


「リザ!?」


 俺は反射的に叫び、声のほうに振り返った。

 だがそこにいたのはリザでなく、全身をすっぽりとローブで覆った少女だった。


「きみは……?」


「…………シルファ」


 その子がぽつりと呟く。

 あまりに端的で、それが彼女の名前を示していると、すぐにはわからなかった。


「わたしは……シルファ。あなたが、わたしを助けてくれた。あなたの名前は?」

「俺は……レイズ・アデッド……」

「そう。じゃあ、レイズって呼ぶ」


 その子が全身を覆っていたフードを、はらりと脱ぎ去った。

 俺は思わず息を飲み、目を奪われた。


 肩口ほどまで伸びた白い髪に、澄み切った赤い瞳。スカートに大胆なスリットが入った黒衣のドレスに身を包んだその佇まいは、神々しいほどに幻想的だった。透徹とした視線や引き締まった口元からは、感情というものが読み取れない。だがそれが彼女の超然とした存在感を強調していた。


 さらに俺が驚いたことが、もうひとつ。

 黒のリボンで飾った少女の頭――こめかみの両脇から、ねじくれた角が生えていたことだ。


「ま、魔族……?」

「うん」


 その少女――シルファはこともなげに肯定した。

 俺はようやく、さきほどの彼女の言葉を繰り返す。


 助けた……? 俺がこの子を……?


 断片的な記憶が、ゆっくりと形を取り戻していく。

 途端、俺は強烈な吐き気に襲われ、その場に四肢をついた。心拍数が跳ね上がり、呼吸が乱れる。

 驚いたシルファが駆け寄ってくる。


 俺は……人を殺したのか……。


 俺の両手は、石を振り下ろしたときの肉を潰す感覚を、浴びる血の生暖かさを、鮮明に覚えていた。

 決して衝動的なものではなく、明確な意思のもとにやった行為。

 神官である俺が……。


「――シルファさまー!」


 突然、のんきな声が聞こえた。

 

 まだ五、六歳くらいの小さな女の子が、シルファのもとに駆け寄ってくる。シルファと同じく、その子のこめみからもコブのような角が生えていた。

 さらに、続々と子供たちがシルファのもとに集まってくる。


「あのねあのね! あっちで男の子たちがケンカしてるの!」

「喧嘩したらゴハン抜きと伝えて」


「シルファさま、ぼく、おなかすいた」

「おやつの時間まで待って」


「そのひとだぁれ~? ツノ、折れちゃったの?」

「人間には角はない。この前教えたはず」


「…………シルファさま、おしっこ」

「あっちの岩陰でして」


 俺は唖然とした。


 だがシルファは慣れているのか、まったく動じることなく魔族の子供たちを捌いている。まるで、若すぎるお母さんのようだった。

 

 ふいに既視感を覚えた。

 それは俺が育った村の教会の景色に似ていた。孤児院の役割を兼ねていたので、よく親元のない子供たちの世話をしていたからだ。


「元気になった?」

「え?」

「すこし、笑顔になった」


 そのシルファの言葉に、俺はいったい、どれほど救われたのだろうか。


「……ありがとう」

 だがお礼を述べたのは、なぜか彼女のほうだった。


「なにが……」

「レイズが、わたしを助けてくれた。人間に見つからないように、群れからはぐれた子供を探していたの。まだ帰り道もわからないような小さい子」

「それって、まさか……」

「知ってるの?」

「ああ、でも……」


 俺はシルファに、リザと一緒に匿ったあの魔族の子のことを話した。

 そして、おそらくはイオナに殺されたということも。


 シルファはショックを受けたようだったが、取り乱すことはなく、静かにその事実を受け入れていた。


「そう……。わたしは、その子を探していた。でも途中で人間に見つかって……。あの子のことが知りたくて、話をしようとしたけど……襲われた」


 シルファは表情こそ変化に乏しかったが、声の震えから感情は読み取れた。


「とても……怖かった」


 うつむき、肩を震わせるシルファを、子供たちが不思議そうに覗き込む。


 俺は強烈な不条理に苛まれた。

 シルファはただ、はぐれたあの子供を捜しに来ただけだ。

 あの男たちは、そんなシルファを襲った。

 ただ己の欲望を果たすためだけに。


 平和を乱す害悪は、いったいどちらなのだろうか。


「あ……じゃあもしかして、君が俺の手当てをしてくれたのか?」

「人間を治したのは、初めて。魔族は人間ほど、癒しの術が得意じゃないから、ちゃんとできたかわからないけど……」

「いや、十分だよ。ありがとう」


 彼女を助けたことで、結果的に俺も命拾いしたらしい。

 人間に殺されかけた俺が、魔族の少女を助け、そして助けられたのは皮肉、いや、奇跡だろうか。


 だけど、俺はもう……。


 リザ。

 俺のまぶたの裏に、リザの最期が焼きついている。そのあまりに悲痛な叫び声も。

 痛かったろう。熱かったろう。どれほど苦しかっただろう……。


 ぽつりと、水滴が足元に落ちた。

 それは俺の両目から溢れていた。


「……ごめん……」

「レイズ?」


 助けてあげられなかった……。俺が無力だったせいで……。

 ごめん……ごめんよ、リザ……。


 俺はその場に崩れ落ち、はいつくばって嗚咽を上げた。

 それから俺は、身体中の水分がなくなってしまうのではないかというくらい、泣き続けた。そして涙もいつか枯れ果てるのだということを、初めて知った。


 そんな俺のそばに、シルファはずっと寄り添ってくれていた。

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