答え合わせ

〈いまどこにいる?〉

 突然そんなLINEが来たのは学校が終わって夜の六時を回った頃だった。差出人は遠藤歩実。一個前のメッセージは去年の夏で、それ以来途切れていた。

 油断していた


 遠藤とは一年生の時に同じクラスで、それ以降は別のクラスだった。

 臆病な子だった。高校の環境に適応できていなかった。

 その姿がかつての自分と重なった

 手を差し伸べたらすぐにつかまってきた。それに優越感を覚えていたのかもしれない。僕は彼女と親しくした。なるべく快感を長く味わおうと、気を持たせるようなことも言った。

 僕は僕で飢えていたのだ

 その優越感の対価を払う覚悟もないままにいびつな関係を続けた

 気付けば僕は彼女のために多くの時間を割いていた。彼女の僕を見る目が変わったのはいつからだろう。「帰る方向が一緒だから」「偶然同じ委員会に入ったから」「文化祭の係の相談のために」――僕が彼女の好意に気付くまでに時間はかからなかった。

 彼女はたぶん、僕が彼女に告白するのを待っていた。

 僕はそんな彼女の態度が好きになれなかった

「上野くんはどこかの騎士がお姫様を連れ去るような話好き?」

 ある時彼女はこう言った。僕は彼女の意図を遠ざけるように切り捨てた。

「そういう話はうさん臭くて嫌い」

 彼女は残念そうに肩を落とした。そういう芝居じみた行動が癪にさわった。

 僕はいつしか彼女の束縛を解く方法ばかり考えるようになっていた。しかし彼女を傷つけないような遠回りな方法ではますます彼女の想いが募るばかりだった。僕はずるずると彼女に引き込まれていった。そこには僕自身の意志の弱さもあった。人の温度に飢えた僕の心を、ちょうど彼女に対する優越感が埋めていたのだ。

 それは薄めたカルピスのようだった。いくら飲んでも満足することはない

 二年生になって状況が変わった。佐藤さんのことを好きになったのだ。

 遠藤を容赦なく振り切るだけの理由ができた。それで夏に書く小説をとんでもなくロマンチックなものにしようと決めた。彼女に対する不誠実、それが僕の答えだった。

 小説には佐藤さんに対する恋心を詰め込んだ。僕はもともとロマンチストだった。僕はあっという間にそれを書き上げた。部誌にそれが載ってしばらく経つと、遠藤からのコンタクトはパタリと止んだ。


〈塾で自習してる〉

 僕は遠藤に返信をした。

〈そうなんだ……いつ終わる?〉

〈十時ぐらいかな〉

〈その後会える……?〉

 僕は迷った。断るだけの理由が僕にはない。

〈うん、どこで会えばいい?〉

 僕は観念してそう返した。


 遠藤は明らかに挙動不審だった。いったん家に帰っていたのか私服だったが、それも色合いがちぐはぐだった。その姿を見て、遠藤がパニック障害を発症しているらしいという噂を思い出した。

 その言葉の意味するところを、遠藤と相対してはじめて理解した気がした

「あの……えっと……」

 彼女は言葉を発するのがやっとという様子だった。

「あっ……今日は……来てもらってごめん。その……小説……読んだんだけど……」

 そこで彼女の呼吸が早くなった。

「う……あ……上野くんが自殺しちゃうんじゃないかって心配で」

 遠藤はそれを詰め込むように言ってうずくまった。涙がボロボロこぼれてアスファルトに染みを作った。彼女は苦しそうに息をヒュルヒュルと言わせた。僕はどうすることもできなかった。

 僕のせいだ

 年貢の納め時とはこのことを言うんだとぼんやり思った。きっとパニック障害も二年生の夏に僕がしたことに原因があるのだろう。

 僕は申し訳程度に彼女の背中をさすった。通りかかった女性が「大丈夫ですか」と声をかけ、僕はそれに「たぶん……過呼吸になっているだけなんで」と返した。って何だ

 しばらくしてそれが落ち着くと、遠藤は僕をさらに人通りの少ないところに連れていった。

「ごめん……会っていきなりこんなことになって……びっくりしたよね……あと上野くん周りから変な目で見られちゃう」

「いやそんなこと気にしてないし」

「ごめん……」

 ひたすらに謝る彼女を見て、まだ僕は彼女に好かれているのだとなぜだか確信がついた。

「でも上野くんみたいなネガティヴな人も絶対必要とされてるし、この前ツイッターで見たけどネガティヴな人がいたから生き残れた種族があるって言うし……だから自殺する必要はないって言うか……うん」

 彼女の言動は彼女の文脈に依存していて、断片的な理解と推測でしかその意図を汲めなかった。――「でも」は何を受けているんだろう。いつから僕は自殺することになったのだろう。僕は彼女の言うツイートを知らない。「だから」の接続の根拠は闇の中だ。――僕はそういう彼女の独善的なところが好きになれない

 しかし今は目をつぶった。このままでは彼女は

「ありがとう。でも僕は自殺しないよ。小説はフィクションだ。たとえそれが体験に基づいたものだとしても、必ず一度は作者の中で消化されている。そうでないと、まともな物語は成立しない」

 僕は彼女を安心させることに注力した。不安の入る余地を与えないように慎重な論立てをした。

「そっか……私が勘違いしていただけなんだね……ごめん……。……でもやっぱり不安だなあ……私」

 そう言って彼女は媚びた目を向けた。彼女は彼女の論理を曲げない。それは彼女が彼女自身の小さな世界を必死に守ろうとしている産物なのだと、天啓のように悟った

 僕が彼女を嫌悪する理由の根幹がそれだということも

 そして同時に、「自分の世界を守る」という行動は、僕自身のメンタリティと相似形を成しているということも

 つまり僕が嫌悪された理由はそこにあるのだと

 僕に向けられる媚びた目に、嫌悪の正体が分かった今、愛おしさにも似た不思議な感情を抱いた。それは憐みにも近しかった。僕はかすかな興奮と奇妙な万能感の中で自分すら予想だにしなかったことを口走っていた。

「遠藤さ……僕と付き合う?」

 彼女はその言葉に目を見開いた。

「……いいの?」

 そう疑問を口にしつつも彼女は目に見えて上機嫌になっていた。そのあくまで彼女が彼女自身に思い描く彼女のキャラクターを守らんとし、しかし客観視すれば明らかに破綻をきたしている様子に、僕は不快感と慈愛の情を同時に抱いた。高次で統合された矛盾した感情のその刺激の強さに頭が狂いそうだった。

「もちろん」「ハグがしたいな」

 僕は言った。彼女は恥ずかしがって背を向けた。

 いいからとっととしろよ

 どうせ本心では嬉しいんだろ

 僕が三、二、一と脳内でカウントすると彼女はこちらの方を向いて覚悟を決めたように目をつむった。僕は神にでもなった気分で彼女を抱きしめた。それで彼女の心拍が急激に上昇するのが分かった。

 一方、僕はハイになった気持ちが徐々に落ち着いていくのを感じた。彼女の体温が僕の身体に沁み渡って心地良かった。それではじめて僕は僕の心が凍えていたのだと気付いた。

 人って温かいんだな

 バカみたいなことを真面目に思った。


 家に帰ると僕は佐藤さんにLINEをした。

〈今日彼女ができました。だからなんというか、もう大丈夫です〉

 既読と返信はすぐだった。

〈え〉〈とりあえず、おめでとう〉

 返す言葉を考えていると、少し遅れてメッセージが加えられた。

〈その人のこと好きなんだよね?〉

 面白いことを言う


「でもまさか上野くんが私のことを好きなんて。だって私、人から好きって思われるようなタイプの人間じゃないし」

 遠藤は、告白した日の様子など嘘のように自信満々だった。

「あ、でもいつかフラれちゃうんだって思うと、うわあああってなる。あああ、そう思うとなんか不安になってきた……」

 そう言って彼女は僕の方を見た。僕は本当に、彼女を今ここでフってやろうかと思った。それをぐっとこらえて彼女の文脈に僕の言葉を乗せた。

「大丈夫。僕は遠藤のことが好きだからフったりしないよ」

「ほんと……⁉ やったあー」

 そう言って無邪気に喜ぶポーズが鼻につく


 僕が求めているのは体温だった。それさえあれば好きとか嫌いとかどうでもよかった。単純な快感が欲しかった。何も考えたくなかった。

「僕さ……父親が単身赴任で、母親も働いているから、なんというかいつも一人で寂しかったんだよね……」

 事実ではあったが僕自身はそのことについて何も思っていなかった。

 ただの言い訳だ

「だからたぶん異常なほど遠藤を求めてしまうけど、許してね」

「いいよ……そう言ってくれて嬉しい」

 健気な彼女の態度に僕の肉食獣が舌なめずりをする

「じゃあわがままを言ってもいいかな」「キスがしたい」

「え」「うん……」

 キスは空っぽな味がした。僕は彼女の首筋に指を這わせた。中途半端に長いものぐさなショートヘアが手をカササと撫でた。彼女は突然僕から離れた。

「……ごめん……なんか……怖い……」

 その言葉で一気に気持ちが醒めた。

 乙女ごっこかよ


 汚れてしまった、という言葉をたまに聞くが、その意味が分かった気がする。

 好きでもない人と付き合うのは、自分自身に泥を塗りたくっているような気持ちになる。快楽と引き換えに僕は厚い土壁の中に埋もれていく。その感触が心地良くもある。嘘の交わりを重ねれば重ねるだけ、僕は生臭い人間の世界から遠ざかる。引き換えに虚しさが横たわる

 少しだけ佐藤さんに近づけた気がした。清水から離れて別の人と付き合っていた頃、彼女もやはり同じ思いをしていたのだろうか。今なら彼女が僕に取ってきた行動の意味が分かる。僕が恋愛にうつつを抜かす姿は彼女にとってどれだけ空虚に思えただろう

 はじめて佐藤さんを見透かした気がした。その後で彼女の親切が身に染みる。

〈その人のこと好きなんだよね?〉

 掛け値なしで彼女が僕にかけた心配の言葉なのだと分かった。それだけで心が満たされる思いがした。

 今なら佐藤さんとちゃんとした恋愛が始められる気がする。そう思って打ち消した。僕がどうであれ、彼女にとってそれは知ったことではない。

 ――踵を浮かせて必死で清水にしがみつく彼女の潤んだ瞳


 しばらく遠藤とスキンシップを取ることを避けていると、彼女から声をかけてきた。

「前は……ごめん」「その……前は怖くなっちゃったんだけど、やっぱり寂しいっていうか……あ、でも、なんていうか、こう……体と体が触れ合うって……前は嫌だったけど、上野くんと付き合ってから、なんていうか……いいなって思えた」

 とぎれとぎれの言葉を汲んで彼女の頭を撫でた。その時はじめて、いつもと違って彼女が髪を後ろにまとめているということに気付いた。そのぴょこんとした形でいつかの佐藤さんを思い出してしまって、現実の、目の前にいる遠藤を見て気持ちが萎えた。それと同時に気付いたこともあった。頭を撫でるのをやめて彼女に言った。

「後ろで髪をまとめるのって意外と長さがいるんだな、当たり前だけど」

 彼女は不思議そうな顔をしてそれに答えた。

「うん、まとめる位置によるけど、基本それなりに長さはいると思う……長くなったら寝癖とか面倒だし、そろそろ切るか、伸ばそうか、……ってなるよね」

 寝癖

〈今日朝起きたらすごい寝癖でさ〉

〈男子ってさ、ショートとロングどっちが好きなの〉

 ――なんでそんなこと聞くの

 そういうことだったのか。僕は僕の自意識過剰っぷりに恥ずかしくなった。あれは僕に気を持たせるとかではなく、本当に純粋に意見を聞いていたのだ

「ねえねえ上野くん、何で今日私が後ろで髪をまとめてきたか分かる……?」

「わからない」

「上野くんが……その……いろいろする時に邪魔にならないように」

 正直なところ今日は適当に話をして切り上げようと思っていた。しかし彼女がもの欲しそうな顔をするので、僕は首筋に儀礼的なキスをした。

 サービスのS、満足のM

「上野くん、前に私が貸した本読んだ……?」

 彼女はよく僕に本を勧めた。彼女は少女漫画の延長のような内容の小説を好んだ。

 なんで彼女はナチュラルに時間を束縛するのだろう

「ごめん、まだ読んでない」

 そう言うと彼女は少し残念そうな顔をするのだった。

 罪悪感を押し付けるのも彼女の得意技だった

 彼女といると、僕が佐藤さんにしてきたことの答え合わせをさせられている気分になる。

 ――考え方とか、価値観とか、そういった自分の中の深いものが、佐藤さんと重なり合った気がして

 遠藤は僕によく似ていた。彼女は思想を共有したいがために僕に本を押し付けるのだ。

「じゃあさ、僕がプレゼントしてあげる」

 僕は値段のする手帳を買い与えることで佐藤さんに罪悪感を押し付けつつ、手帳の持つ意味合いによって観念的に佐藤さんの時間を束縛していた

 遠藤は僕の鏡だった。僕は彼女を通してはじめて僕自身の姿を客観的に認識する。解答用紙にペケが並んでいく。最初のマルは最後のマルで、答案を見たならば0点なのだ

「上野にはきっとわたしなんかより似合う人がいるよ」

 ねえ佐藤さん、僕と遠藤はお似合いだろ

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