ポリシー
「ふふ、ふふふ、はは」
佐藤さんは心底おかしそうにお腹を抱えて笑った。
「そっかー、そういうことだったのかー、ふはは」
戸惑う僕をよそにして佐藤さんは笑い続ける。僕はきまりが悪くなってプレゼントを差し出す手を下ろした。佐藤さんはやっとのことで息を整えて、再び僕に向き合う。
「ごめんね、わたし違う人と付き合い始めたの。だから無理」
世界から色が消えた
「……そうなんだ、それは残念。んーと。もったいないしプレゼントは受け取ってくれると嬉しいな、みたいな」
僕はそう言って、佐藤さんにプレゼントを半ば押し付けるようにして踵を返した。
「ちょっと待ってよ、出口まで一緒に歩いてこ」
振り切ることができないから僕は一生佐藤さんにかなわない
「そういえば上野は誰に、わたしが前の彼氏と別れたってこと聞いたの」
「それは……言わない」
「うはは、義理深いね上野は」
そもそも清水が僕に、佐藤さんが前の彼氏と別れたということを伝えていなければ、こんなことにはならなかったのか、と一瞬思って打ち消した。悪いのは僕だから
「でもびっくりしたよね上野も、わたしがすぐに別の男に切り替えるような軽い女だって」
卑下しないでよ自分を、僕がみじめじゃないか
「上野にはきっとわたしなんかより似合う人がいるよ」
なんだよそれ、僕は佐藤さんがいいのに
「ねえ上野」「こんなわたしだけど、嫌いにならないでね」
僕は僕を見上げる佐藤さんの顔を見た。
嫌いになれたならどんなにいいだろう
嫌いになれたならどんなに、嫌いになれたなら
佐藤さんと別れた後ドラッグストアに寄って眠気覚ましのカフェインと水を買った。喉に水を通してからはじめて喉が渇いていたのだということに気付いた。寝ぼけた自分の考えを醒ますためにカフェイン錠を多めに摂った。見ていた夢は佐藤さんと一緒になることだった
カフェインの興奮作用でハイになっていたが中身は空っぽだった。笑いが込みあげそうになるほど愉快な気分だったが大声で泣きわめきたいほど悲しくもあった。実際はそのどちらにもなれずに僕はただ顔をひきつらせていた。二つの相反する感情の波が渦を巻いて僕を呑んでいたが僕は普段と変わらない外面をしていた。
狂いたいのに
安くもないカフェイン錠をさらに口に含み水で流し込んだ。ほどなくしてガツンと倦怠感の波がきて思考を奪われた。ちょうどボディーブローを食らったような感覚だった。遠のく意識の中でカフェインの臭いが酷かった。感情はまるで街を襲う津波のように、激しさを消しつつ淡々と全てを壊していった。濁流の中で激しい腹の痛みと脱水症状を覚えてトイレに向かった。身体はどうにかして体内の異物を排除しようとしているようだった。つまり僕はまだ生きようとしている
トイレの個室の中に一人だった。チープなスライド式の鍵で記憶がよみがえる。ここが最小単位だ、僕の砦だ
幸せって何だっけ
僕がいちばん幸せだったのはいつだろう。高校、勉強に追われる日々、中学校、仲間外れと踏みにじられた自尊心、小学校、必要とされたのはgoody-goodyな僕だけ、幼稚園、前ならえも歩く時の手の出し方も不自然な僕はだめなの
違う、幸せは社会にはない
僕は目を閉じて瞼の裏に映るぼやけた光を見た。その奥で波打つ自分の心臓の音を聞いた。世界が僕の大きさまで小さくなったような錯覚に陥った。だから安心した
幸せは一人で作るものだった
遠い昔の記憶――休日の昼下がり、僕はコタツ布団に体を埋めて本を読んでいる。温かさにまどろんで好きな時に目をつむる。瞼の裏の不思議な模様。読み終えたところに挟んだ指から伝わるザラザラした紙の感触。幼い頭で話の内容は数%も分かってはいないのだ、されどここではないどこかに少年は落書きのような夢を見る。きっと外ではサッカーをして遊ぶ子供の声が上がっているのだろう、しかし僕には聞こえない。僕には僕自身の心臓の音やコタツが熱を発する音、紙が擦れる音しか聞こえない。
それが幸せだ
それが幸せなんだ、僕にとっての幸せ
DOMDOMDOM!!!!!!
「おいいつまで入ってやがんださっさとしろ!」
意識が引き戻される。誰かがここをこじ開けようとしている
ここは僕の世界だよ鍵があるから壊れない
僕にはここしかないから壊そうとしないで僕の幸せ
――DOMDOMDOM!!!!!!
気付けばそこは中学校のトイレだった。薄暗い個室、冷たい便座、ドアを叩くけたたましい音。
それがどうしたというのだろう
イヤホンで耳を塞ぎ本を開く。それだけで僕は世界から隔絶される。
僕だけの世界、僕にとっての幸せ
僕は難解な本を好んだ。分かりやすいストーリーは邪魔だった。僕は、僕の世界を得るためだけに本を読んでいた。その世界は断片的な理解の隙間にあった。誰かが作った物語は一片の塵に過ぎなかった。それを核として僕の世界が結実するのだ、その透明な結晶を僕は愛でた
DOMDOMDOM!!!!!!
「駅員です! お客様から、ずっとこちらに入っているとお聞きしたので、様子をうかがいに参りました! 大丈夫ですか⁉」
僕は顔を上げる。頑なに守り続けていた世界に終わりが近いことを知る。
「はい、大丈夫です、すみません」
ドアを開ける――
「いい光だね」
「えっ」
「だからさ、君、ずっと窓の外見てたでしょ」
「うん、まあ……」
外を見ていれば教室を見なくて済むからだけど
「それでわたし外を見たの。そしたらきれいだなあって思って」
「そうなんだ」
僕は本を開いて会話をシャットアウトしようとした。
「えっ、ちょっと、なんで? もっと話そうよ」
僕はそれに応えて、黙って本を閉じてうつむいた。
少しくすぐったかった
僕は自分で自分が分からなかった。どうして僕は佐藤さんを拒まなかったのか。
人との交わりは不幸になるだけだと知っていたのに!
――ドアを開けると、そこには駅員も、トイレに入ろうとしてきた男も、誰もいなかった。僕はゆっくりと周りを見渡した。洗面台が三台。ジェットタオルが一台。大きな鏡が一つ。小さな窓が一つ。小便器が五据。個室が三つ。
個室が三つあるなら僕の入っていたところのドアを叩く必要はないよな
あはは、僕は本当に誰かの救いを求めているのだ
僕に見向きする人などいないのに
翌日、学校で隣に座る佐藤さんを僕は見ることができなかった。そのまま授業が始まると、僕は教科書を出し、普段とは違って机の右端に置いた。それではじめて佐藤さんの様子をうかがうと、佐藤さんはいつものような動作で教科書を左端に置いた。僕は左利きで佐藤さんは右利きなのでそれらはごく自然の行動だった。
僕だけ頭がおかしかった
昼休みは食欲が湧かずに手持ち無沙汰になって顔を伏せて寝た。周りにある全てのものが嫌だった。絶望は空気の色をしている
「上野はわたしに何か言いたいことがあるんじゃないの」
「別に何も」
「うそつき。上野が教科書を壁みたいにしていたのを、わたしが気付いていないとでも思った?」
なんだ気付いていたのか
「それを指摘するなら佐藤さんが普段から教科書を壁にしていることを言わないと片手落ちだ」
佐藤さんは一瞬唖然とした表情をして、それから僕を押し倒した。
「うるさいうるさいうるさい。『上野が』『わたしを』避けるのがだめなの。ねえ上野、上野の世界にはわたし以外誰がいるって言うの? いるんだったら教えてよ」
僕は頬を紅潮させた佐藤さんを見た。それ以外には誰もいなかった。何もない灰色の世界の中、佐藤さんだけが色を帯びていた。僕は佐藤さんを押し倒す。
「僕には佐藤さん以外いない、だから」
佐藤さんは挑戦的な目で僕を見上げる。
「よく言えました」「だけどね上野、わたしの世界には上野以外にもたくさん人がいるの」
そこで夢が醒めた。周りを見渡したが、そこには佐藤さんも清水もいなかった。
「おい上野、次の授業は化学室だぞ」
クラスの嫌われ者の多田だけが教室にいた。
こいつはなんで先にいかなかったのだろう
僕は多田に興味を抱いて世間話を振った。多田はそれに、やや上機嫌で答えた。正直なところ話はあまり面白くなかった。それでも暇を埋めるには充分だった。暇――その隙間の正体は何だろう
多田が嫌われている理由は判然とはしなかったが、嫌われているのは何となく納得がいった。
ただ何となく、だ
僕が多田に話しかけた日から多田は僕によく絡むようになった。彼は芸能関係の話を好んだ。誰と誰が結婚してどう思ったかを熱心に話した。やがて僕がテレビをほとんど見ないと分かると、彼は律儀に話題を変えた。
相手のことをちゃんと考えている
それなのに、何かが違う
次の授業が体育で彼は僕を誘った。僕が少し机を片付けたくて「先に行っていいよ」と言うと彼は「一緒に行こうや」と僕を待った。トイレの前を過ぎると「しょんべんしたくなったわ、」と僕を見た。何、一緒に行けってか。僕は面倒くさくて「じゃ、先に行ってるね」と彼に告げた。彼は半笑いの微妙な表情を浮かべていた。
僕が集中して本を読んでいると彼は「なあ、それ何て本」と尋ねた。そういうところだぞ、と僕は思って彼に強くあたった。
「あのさ、本読んでる人に話しかけるのって、かなりの罪だからな」
「あー、」「すんまそん」
すんまそん
彼はやはり半笑いでそこに立っているのだった。
ある日僕は、いつものように僕についてくる彼に言った。
「ねえ多田、別に陰キャの僕と無理してしゃべってくれなくてもいいんだよ?」
彼がクラスで孤立しているのを見越しての発言だった
「陰キャの僕としゃべっている時点で、やばいって思わなきゃ」
僕は続ける。
なんでこんなにも彼に攻撃的になれるのだろう
彼はいつもの通り半笑いだった。その半笑いの口から言葉が漏れ出した。
「俺さー、さみしがりなんだよな。だからさ、許してくれや」
僕は足を止めて彼を見た。彼は依然として半笑いだった。
ああそうか
僕は悟った。
本当に救うべき人は、救いたくなるような顔をしていない
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