第5話
待ちに待った9月23日の日曜日。
頭の片隅に早坂のことがチラついていたけど、それ以上に今日という日への期待が強かった。
そして、そのせいで寝坊してしまった。
うわああ、楽しみ過ぎて寝られなかったとか、僕は小学生か!
大慌てで家を飛び出て、ギリギリで電車に駆け込む。このままなら、電車を降りた後走っていけばギリギリ待ち合わせに間に合うはずだ。
電車の窓を鏡に寝癖がまだ残ってないかを確認。身だしなみも再度整えた。
扉が開くと同時に速足。人の間を縫いながら、ホームから抜け、駅を出た後は駆け足になる。
映画館のある、割かし都会な町。
交通量も人通りも多く、周囲を過ぎ去っていく並ぶ建物の背が高い。
走りながら、チラリと腕時計を見る。これならギリギリ間に合いそう――。
足が止まった。
走っていた勢いで二、三歩足が前に出る。
僕の目は、さっき視界の端に早坂の姿を捉えた気がしたのだ。もちろん、ただ休日に早坂の姿を見たくらいじゃあ、僕の足は止まらなかっただろう。でも、問題は彼女を見た場所だ。
そこは、大通りから逸れた道。とはいえ狭くはなく、少し小汚くはなっているがそれなりの広さがあるその道は、今は閑散としている。夜だったら、その通りはそれなりに賑わっているだろう。
そこに並んでいるのは、居酒屋と……風俗やホテルなどのいかがわしい店ばかりなのだから。
もう走るのはやめたはずなのに、心臓が強く打った。
通りの人影に目を向ける。
気のせいだ。
見間違いだ。
僕は心の中でそう呟いていた。
わかっていたから。もし、そこにいるのが早坂だったら、僕がどういう行動に出るかを。
脳裏によぎる、金曜日に見た冷たい早坂の表情。
父親と思しき黒い影が彼女に手をあげる様が幻視される。
通りを歩いている人影の一つに視線が行く。人影は背を向けていたが、仮にこっちを向いていてもすでに顔をハッキリ判別できる距離じゃなかった。
でもわかる。
間違いない。あれは、早坂だ。
ほとんど直観に近かった。でも確信的だった。
僕の足は勝手に彼女を追っていた。その足は決して軽くはない。
悪い予感や混乱が、僕の体に鎖のように巻き付いていた。
彼女が角を曲がる。それにあわせて僕の歩みはさらに速くなり、いつのまにか僕は走っていた。
角を曲がる。再度視界にとらえた彼女は、近くの建物に入ろうとしているところだった。簡素なその建物には、明かりのついていないネオン灯で、『HOTEL』の文字が――
「早坂っ!」
思わずあげていた僕の声は、悲鳴のようであった。
ビクリと体を震わせる人影、いや早坂は、油の切れた機械のような硬い動きで僕のほうへ振り返った。
彼女と目が合う。そしてその瞬間、僕は体に巻き付いていたすべての鎖を引きちぎっていた。
彼女は暗いうねりに翻弄される儚い木の葉だ。驚愕、同様、怯え……彼女の瞳は、様々な感情が混じった暗い色をして、大きく揺らめいていた。
ただそこに一瞬、そのうねりに飲まれそうな弱々しい早坂の心を垣間見た気がしたのだ。
僕はもう何も考えずに、動けないでいた早坂の手をつかんで引っ張っていく。
「ちょっ、葉山!」
早坂は、レースを多めにあしらった服装をしていた。短めのスカートや明るい色合いのその服装のせいか、少し大人びて見える。
抗議を無視して、僕は彼女を近くの公園まで引っ張っていった。
手を離して彼女に向き直ると、葉山は横髪を指で巻きながら、ふてくされたように僕と目を合わせようとはしなかった。
「……なんなの?」
突き放すようなその口調に、怯みそうになるけど、そこをぐっとこらえる。
「何って、あんなところに入っていくの見たら、その……」
「私が援交してるって言いたいの?」
「それは……」
「してるよ」
そう言い放つ早坂の目は、相変わらず僕の目を見ずどこか遠くへと焦点を当てていた。その口ぶりはあまりに軽く、そして投げやりだった。けれど、その言葉は、僕の心を大きく揺さぶった。
次に言う言葉が出てこない。ただ口が動くばかりだ。
なんて情けないんだろう。早坂の手を引っ張っていったときに僕を突き動かした感情は、勇気などではなく、ただの衝動だったのだ。高ぶった感情に任せた身に対して、その心も頭も追いついてなどいなかったんだ。
そんな僕の心境を感じたわけではないだろうけれど、早坂は諦めたように大きなため息をつき、こわばっていたように見えた体から力を抜いて、近くのベンチへと腰かけた。
彼女の表情が少しだけ和らいだように見えた。けれど、相変わらず僕とは目を合わせようとはせず俯いたままで、人を遠ざける空気を放ったままだった。
「私さ、大学に行って、一人暮らしたいの。それであの家から出ていきたい。……あの父親はそのお金なんて払ってくれそうにないしね。だから、お金がいるのよ」
「でも、普通のバイトだって……」
「大学と一人暮らしのために、いくらいると思ってんの。普通のバイトじゃ足んないよ」
吐き捨てるようにそう言った早坂の口調には、明らかに苛立ちがにじみ出ていた。
これ以上言葉を重ねるのが怖い。けれど、何も言わないこともできない。
「でも、だからって、わざわざあんなことしなくても……」
「るさいなぁ……」
突然、早坂立ち上がって僕に迫った。その瞳からは、大きな涙が流れていた。
途端に僕は、自分の発言を呪う。
思いのままに、言っただけの一般論なんて、暴力となんの変りもない。
「だからなんだっての! 私がなにしてようが、私の勝手でしょうが! それとも、あんたが何かしてくれるのか! できないでしょうが!」
「……!」
早坂の言葉は、鋭く僕を突き刺した。
彼女の言う通りだった。僕にできることなどない。彼女の父親の暴力をやめさせることも、彼女の資金問題を解決することもできない。そして、その権利すらもないのだろう。
「勝手なこと言うなよ! あんたが私のなんだっていうのよ!」
彼女は叫ぶ。大粒の涙を流しながら。
彼女の内側に立ち入る権利。
彼女にとって、何者でもない僕が土足でそこに入ることはできなかった。
せめて僕が早坂の……。
そこまで考えたとき、僕は後悔した。
気付かなければよかった。
知らないままで、気付かないままでいたかった。
彼女の拳が、僕の胸を強く叩く。何度も、何度も……。
しばらくの間、早坂は僕の胸に顔をうずめて泣いていた。
僕は、彼女を抱き返すこともできず、ただ立ち尽くしていた。
人気のない公園に、ただすすり泣く声が木霊する。
僕はまたしても衝動に押されて、囁くように口を開く。
「僕は、早坂のことが……」
だけど、それ以上は飲み込んだ。
ああ……僕に、衝動を貫き通す強さか、あるいは愚かさがあればよかったのに。
「か、かわいそうだと思って、言い過ぎた。……ごめん」
「……。なによそれ」
そうして、早坂は僕から離れると、再びベンチに座った。僕もそれに続いて隣に腰を下ろす。
何も言わない時間が流れる。
空を見上げながら、だいぶ落ち着いた表情をした早坂が口を開いた。
「あんた、今日デートだったんじゃないの?」
「……うん」
さっきから、なんどかポケットの携帯が震えていた。きっと、美奈からの連絡だろう。きっと美奈は心配している。
「なんでさ、美奈のこと好きなったか訊いていい?」
「え?」
唐突な質問に戸惑う。答えが言いづらい質問だった。
「……気になり始めたのは、僕の一番好きな本を、美奈が読んでいたから、かな。ほら、うちの図書室って、借りる本のところに名前書いたプラスチック板を差し込むでしょ?」
「へぇ、そうなんだ」
「ああ、知らないんだっけ。そうなんだよ。それで、僕の一番好きな本が置いてある場所にさ、美奈の名前が書かれた板が差してあって、ああ、この人は同じクラスの、って思ったのが始まり」
それから彼女自身に惹かれていったわけだけれど、そうだ、始まりは一冊の本だったのだ。自分でも半ば忘れかけていた。
「『一次元のスタンドアロン』って作品なんだけれど、知らないでしょ?」
内容は、誰にも深く関わってもらうことなく、大勢に囲まれながらも一人で生きていった主人公の孤独と強さを書いたものだ。まさに、今の早坂のように……。
「……うん。全然」
そう、全然有名な作品じゃない。……少なくとも若者の間では。一応この作品を書いてる作家さんは有名な人で、書店でも宣伝されていたりもするのだけれど、いかんせんジャンルが現代文学とあっては、若者の知名度は低いだろう。だからこそ、あの本が借りられていた時には、驚きと同時に、仲間を見つけた高揚を覚えたのだ。
今から考えてみれば、ほとんどファンタジー小説しか読まない美奈が、あの本を借りたのは、何か運命的な導きがあったのかもしれない。
「ふーん。その本のおかげで二人が結ばれたってわけね。運命的じゃない」
早坂も同じことを思っていたらしい。いつの間にか、彼女の口調には、いつものような茶化した雰囲気が戻っていた。
早坂はおもむろに立ち上がると、空に向けて大きな伸びをした。
「私、もう行くわ。……あんたも早くデート行きなよ」
そう言って、早坂は立ち上がり、元来た道を戻っていく。
僕はもう、離れていく彼女になんと声をかけていいか、わからなかった。
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