第4話

一週間経って翌週の金曜日の朝。


僕は美奈と通学路を歩いていた。


「明後日楽しみだなぁ」


感慨深そうにそう言う美奈。


僕がちょっとサプライズ風に誕生日に映画に行こうと言ったとき、美奈はびっくり仰天という言葉が似合うくらいに驚き、感動をあらわにした。


半泣きするほど喜ぶのは、少し大げさかとも思ったが、あの時の表情は、僕にも感情が伝播してきたように感じ、うれしくなった。


金曜なので、昇降口で美奈と別れ、花壇へと向かう。


美奈に喜ばれたと報告しよう。べつに早坂とはクラスでも会っているのだが、なんとなく、僕たちは教室内では話さないのだ。


上機嫌で校舎の角を曲がる。


「や――」


直後に話しかけようとしたところで、僕の声が止まった。理由は早坂の頬に貼られたガーゼを見たからだ。


大きなガーゼは右頬の半分を覆っている。


花壇のそばで腰を屈めて花をのぞき込んでいる彼女の目は、無表情に僕に向けられていた。


「あ、その……」


高揚していた体温が、すーっと引いていくのが分かった。


「遅いよ」


僕から目を逸らしながら、早坂は低い声でそう言った。


大きな頬の傷。ただ事ではない気がする。


早坂は立ち上がると、何も言わずに水やりを始めた。


「……」


「……」


訊きづらい……。


チラリと、様子をうかがう。


黙々と水をやる早坂の横顔からは何もうかがうことはできない。


その朝はお互い何も話さなかった。


その日一日はずっと朝のような雰囲気でいるのだろうか、と思ったが、教室での彼女の様子を見ていたが、彼女はいつも通り明るく友達に接していた。


「でねー。ハリーポッターシリーズには一貫したテーマがあってさ……」


 朝のホームルーム前、美奈と話している最中も、どうしても気になって、友達と話している早坂を見てしまう。


「……。ねえ、快斗。聞いてる?」


「え、あ、ああ、ごめん。聞いてなかった」


「もーっ」


「ごめんって」


「だからさ――」




「えーっ、どうしたのそのケガ!」




クラスの女子の一人がそう声を上げ、思わず僕はそちらを振り返っていた。


みんなが訊きづらそうにしていたところで、その空気を読めなかった女子が訊いたらしい、周りの女子も次々とうんうんと便乗する。


「そんな大した理由じゃないよ。昨日、物置で高いところのもの取ろうとしたらさー、それが落っこちてきて当たっちゃってさ……」


手を振りながらそういう彼女に、周りの女子は痛そうに顔をしかめた。


「もー、気を付けてよ。嫁入り前の女の子の顔なのよー」


「アハハ、気を付けるよ」


そうしていつもの談笑に戻っていく。


「……気になるの? 遥ちゃんのこと」


「え?」


見れば、美奈も僕と同じほうを見ていた。


あ、さすがに彼女の前でほかの女子ばかり見てるのはまずかったかな。


「えーと、うん、まあ、あんなケガしてたらびっくりしてさ」


「まあねぇ。私もびっくりしたよ」


そう言って再度早坂のほうに目を移す。僕もそれを追った。


友達と談笑する早坂。その様子はいつも通りに見える。


けれど、僕は違和感を覚えていた。


ただぶつけただけなら、朝の態度は何だったのだろう。


違和感のせいか、普段通りであるはずの態度も、なんだか無理をしているように見えてしまう。


その日一日、僕の中の引っ掛かりが取れることはなかった。


放課後。いつも通り、図書館に行ったあと、昇降口で美奈と別れ、水やりに行くことになると思ったら、教室から出たところで、美奈がこう言った。


「ねえ、今日、待ってようか?」


「え?」


「だから、水やりが終わるまで待ってるよ。図書館で」


「でも、待たせるのはなんか申し訳ないというか……」


「いいの。急ぎの用事があるわけじゃないし、待ち時間も本読んでたらあっと言う間だよ。それにさ……」


と、そこまで言って彼女は頬を染めながら目を逸らした。


「一緒に帰りたいし……」


「え……あ……」


沸騰したように自分の体温が急速に上がるのを感じる。


こ、こんなとき気が利いたセリフを言えればいのに、何も言葉が出てこない……。


しばらくの無言の後、空気を換えるように、美奈はまだ頬が赤いままで手を叩いた。


「ほ、ほら、それにさ、水やりってそんなに時間かからないでしょ! 待つってほどのものじゃないよ」


パタパタと手を振ったあと、「そ、それじゃあ」と図書館へ行ってしまう美奈。僕も一緒に行くつもりだったんだけどな……。


今会うのはなんだかちょっと照れくさい。


まあ、本を返すのは、水やりが終わって美奈を迎えに行く時でいいか。


そのまま花壇へと向かった。その間、何か予感めいたものが僕の頭の中でちらついていた。


朝とは一転、教室ではいつも通りに振る舞っていた早坂。でも、この先の花壇で、いつも通りの姿が見られない、そんな予感がしていた。


校舎の角を曲がる。予感は的中した。


朝と同じように、早坂は枯れかけた赤い花をしゃがんで見つめていた。


朝と違うのは、暮れかけた日が暗く彼女を照らしていることくらいだった。


やはり、彼女の横顔には表情はなく、感情を読み取ることはできない。


太陽が雲に隠れた。校舎横の景色から、オレンジの色合いが薄れ、一気に暗くなる。


「この傷さ」


ぽつりと早坂が言葉を呟く。


その目は焦点があっておらず、もはや花も見ていない。


「父さんにやられたんだ」


「え……」


血の気が引いていく。まだまだ残っていた夏の暑さが、一気に遠くに行ってしまったように感じた。


僕の反応を気にせず、早坂は頬を撫でながら続ける。


「こっちに来てからはしばらくなかったんだけどな……」


『こっちに来てからは』それはつまり、ここに来る前、転校してくる前にもこうされたことがあったということだ。


「仕事、うまくいかなくなってくるとね」


僕は何も言うことができないでいた。


どうして早坂は僕にこんな話を?


僕じゃなくたって、仲のいい友達はほかにもいっぱいいるはずなのに。


いや、仲がいいわけじゃないから、だろうか。こんなこと、仲がいい子ほど話しづらいだろう。


いつの間にかなっていた、気兼ねなく本音を言い合える関係。だから今、彼女は僕に話しているのだろうか。


「なにも八つ当たりしなくてもね……」


そこまで言うと、早坂は何も言えないでいる僕に視線を向けた。その視線は、冷たく、僕自身に何も語りかけてはいない。すがっているわけでも、助けを求めているわけでもない。ただ、話したかった。それだけであるようだった。


早坂は立ち上がって、伸びをした。そこには、さっきまでの無感動な雰囲気はもうなかった。


「水やり、やろっか」


そういって、いつも通り水やりをする。僕たちの間に会話はない。


思い切って、火ぶたを切った。


「なんで、僕に話したの?」


「なんでかな。なんとなくだよ」


僕のほうを見ないままに、早坂は少し笑みを浮かべながらそう言った。


なぜかその笑みは印象的で、いつまでも僕の記憶に引っかかっていた。


その日の帰り道。自分でもわかるくらいに口数が少なくなり、一緒に帰った美奈に心配をかけてしまった。



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