第27話

「止めないでくれ。僕は、所詮偽物なんだ。蓮見亨という人間の皮を被った、偽物なんだ。だったら、すべて忘れて、いなくなってしまった方が良い。だってそうだろ。千堂が語った蓮見亨と、今ここにいる蓮見亨はなにも似ていないじゃないか! 千堂の言う通り、内心ではお前らのことを見下してた! 俺がお前らに敬語使ってたのもそうだ。お前らのことなんか高校卒業すれば全部わがままボタンで忘れるつもりだったから一歩引いて距離を取ってたんだ! どうだ、これが本当の僕だ。千堂、お前が図書室で喋った蓮見亨はこんなこといってたか⁉ 言ってねえだろ。だってそうだ。お前が図書室で話したのが本物で、俺が偽物だからだよ」



 亨の目からは絶え間なく涙がながれていた。苦しくて、仕方がなかったのだ。



「そんなことない! それは、断言する!」

「なにがそんなことないんだよ。僕もうすうす気付いてたんだ。思い出そうと思っても、なにも思い出せないことが最近多くなった。思い出したくても、その記憶の断片すら見つからない、その感覚がお前にわかるか。それに、忘れることの何が悪いんだ。よく言うじゃないか。人間は忘れることが出来るから前に進むことが出来るって。僕はその能力が他の人間より優れているだけだ。その能力を使って、何が悪い!」


 刹那、千鶴は亨に向かって走り、強く、強く抱きしめた。


「忘れることと、消すことはまったく別だよ! 忘れるっていうのはね、いつでも思い出せるってことなんだよ。それにね、亨くんはちゃんと本物だよ。優しくて、臆病で、とても繊細」



 亨は沸き起こる感情を制御することが出来なくなって、思ったことがとめどなく口をついて出る。



「さっきも言っただろ。俺はお前が思ってるような人間じゃない! 本当は醜くて、冷淡で――」

「――本当に醜くて冷淡な人は、山道で倒れた一人の女の子をおぶらないし、家族の危篤を目の当たりにして悲しんで涙を流すことなんてない。気付かないふりして逃げるのはもう終わり。素直になっていいんだよ。どんな亨くんでも、私が受け止めてあげるから」



 亨は脱力して、千鶴を巻き込むような形で二人して膝から崩れ落ちた。そして、どこまでも広がる茫洋な夜空にむかって、慟哭した。



「大丈夫、ゆっくりでいい、亨くんのこと、聞かせて」



 二人は欄干にもたれかかり、身を寄せ合っていた。落ち着きを取り戻した亨は、力ない声でゆっくりと語り始めた。



「僕はどうしたらいいんだろう。悲しいことに直面したとき、わがままボタンでなかったことにするやり方しか、知らないんだ。このままだと僕はまたわがままボタンを使うよ。そうなったときは、僕を止めてよ、千鶴」



 千鶴は目を点にして亨を眺めた。



「もしかして、記憶が……?」

「いや、思い出してはないけど、昔はそう呼んでたんでしょ? だから、まあ、なんとなく」



 亨は気恥ずかしそうに頬をかいている。千鶴は少し残念に思ったが、同時に嬉しくも思った。以前までの亨なら、誰かに頼ることは絶対にしなかった。だけど今こうして千鶴のことを頼っている。亨は変わりつつある。



私が、変えた。



千鶴は兄の言葉を思い出していた。



『蓮見くんのこと、千鶴に頼みたいんだ』



 兄との約束を、ようやく果たせそうだ。千鶴は最後の一仕事を行うために、口を開いた。



「亨くん、私のお父さんが病院でなんて呼ばれてるか知ってる?」

「知らないけど」

「灯台の名医って、呼ばれてるんだって」

「どういう意味?」

「一応あれでも、どんなに難しい手術をいっぱい成功させて、患者に希望の光をもたらすから、灯台。それに、東大出身だからね」

「すごいんだね、千鶴のお父さんって」

「でもね、これはあくまで建前上のことなの。本当は、皮肉でつけられてるの。亨くんも知ってるでしょ。灯台下暗しって言葉。つまりはそういう事でね、他人の患者ばかりに光を当てるばかりで、自分の足元は真っ暗だってこと」

「ごめん、よく、わからないよ。どういうこと?」

「赤の他人に光は灯せても、家族に光は当てられないってこと。お母さんは私を生んだ時に死んじゃって、お兄ちゃんも死んじゃった。私も、その光の当たらない場所にいるの」



 亨は不思議と、瞬時に理解した。泣き疲れたのか、涙も声も、なにも出なかった。自分にのしかかる現実にひたすら絶望し、静かに諦観した。



「それじゃあ、僕を止めてくれる人は、誰もいなくなるんだ」

「だからね、亨くんにお願いがあるの。もう、哀傷から逃げないで」

「でも、千鶴がいなくなったら、僕、わかんないよ」



 千鶴は亨の肩に預けていた頭を、膝の上に下ろした。



「悲しいことに直面したとき、逃げちゃダメなんだよ。一時的には逃げてもいいけど、いつかは必ず向き合わなくちゃいけない。辛くても、苦しくても、目をそらしちゃいけないよ。それに、私はもう、亨くんの記憶から消されるの、悲しいよ」



 亨は今まで自分の都合で色んな人間のことを忘れてきた。亨は、忘れられた人の気持ちを、一切慮ることが出来なかった。目の前で横たわる悲しげな千鶴の声を聞いて、思い知った。



「ごめんね。僕、自分のことばかりで、千鶴や、生徒会長の気持ちをないがしろにしてた」

「覚えてる? 今日の花畑でのこと。あの時のお願い、今、使うから。……もうわがままボタンは使わないで。私のことを覚えてくれていたら大丈夫、亨くんの心の中から助けてあげる。忘れない限り、私はいつでもここにいるよ」



 千鶴は膝に乗せていた頭を反転させ、亨の胸に手を当てた。そして上体を起こして、ポケットに手を入れた。



「これ、もう覚えてないだろうけど、亨くんがくれたんだよ。私が花が好きって言ったら、これ、くれたの」



 千鶴の手の中には、手のひらで包めそうなほど小さい瓶が握られていた。瓶の中には、乾燥した黄色の花が入っていた。



「これ、母子草っていってね、忘れないって花言葉があるの。亨くん、千鶴のことだけは忘れないからねって、いってくれたんだよ。もう、約束破っちゃだめだよ?」

「うん、約束する。千鶴のこと、忘れない。もう、死なせないよ」

「よかった。安心したら、何だか眠たくなってきちゃった」

「ゆっくり、休んでいいよ。僕はずっとここにいるから」



 千鶴は亨の膝の上に再び横たわり、瞼を閉じた。寝顔は今まで見たことがないほどに、幸せそうで、満足気に微笑んでいた。

 それから千鶴が目覚めることは、二度と無かった。

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