第19話


「先輩」

「やあ。もしかして始業式の日から毎日ここにいたのかい?」

「はい、放課後が僕の唯一の楽しみですから」

「はは、殊勝なことだね」


 生徒会長の顔は、とてもやつれていた。ほほの肉が削げ落ちて、身体も以前よりやせ細っているようだった。空気の抜けた風船のようにしおれている。


「先輩、大丈夫ですか? 顔色があんまり優れないようですけど。それに、痩せました?」


 生徒会長は弱々しい手つきで図書室の扉を開けると、今にも消え入りそうな微笑を亨に向けた。


「そうかな、そんなに変わってないよ。それより、ごめんね。ずっとここにきてあげられなくて」

「僕は別に、大丈夫ですけど……」



 以前の明朗とした生徒会長の姿はそこにはまったくなかった。ただただ、憔悴していた。

 図書室に入ると、本の匂いが鼻腔をついて、懐古する。



「なんだかひと月来ないだけでだいぶ懐かしく思えますね」

「そうだね、あの頃はまだ……」


 生徒会長はいつものカウンターに腰を下ろし、項垂れている。


「先輩、もしよかったら話を聞かせてくれませんか。なにか、あったんですよね? 僕なら、先輩の力になりますよ」


 すると、生徒会長は乾いた微笑を亨に向けた。


「ありがとう。気持ちだけ受け取っておくよ。わがままボタンはまだ持っているかい?」

「はい、特に使ってないですけど、まだあります」

「僕はわがままボタンはこの世にあってはいけないものだと、考えていたんだ。君はどう思う?」

「僕は、存在していても、特段問題はないと思っています」


 生徒会長は亨の返答を聞いて、カウンターから腰を上げ、窓の方へと歩み寄った。窓を開けると突風が吹いて、生徒会長の髪がなびく。


「今は蓮見くんが羨ましく思える。なんでも忘れることが出来るって言うのは、君が思っているよりずっと素晴らしいことなんだ」


 生徒会長が亨の方へ身を翻すと、双眸が滲んでいた。生徒会長はそのまま亨の元に歩み寄り、優しく抱き寄せ、強く抱きしめた。


「君は僕みたいになってはいけないよ」


 亨は何が起こっているのか、理解することが出来なかった。ただ黙って生徒会長の話を聞いていることしかできなかった。生徒会長は亨から離れると、ポケットの中を弄まさぐり始めた。ポケットから手を出すと、その手には薄い丸型のガラス瓶が握られていた。



「今日は、これを君に渡そうと思ってね。ドライフラワーって言うんだ。花を乾燥させてあるんだ。ちゃんと管理すれば、かなり長くもつみたいだよ」



 生徒会長はドライフラワーの入った瓶を亨に手渡した。



「これは、何の花なんですか?」

「これはね、勿忘草って言うんだ。花言葉は、私を忘れないで。この花言葉にはエピソードがあってね、ドナウ川の岸辺に咲いていたこの花を、とある騎士が恋人のために採ろうとして誤って川に落ちて、その時に恋人にこの勿忘草を投げて「私を忘れないで」と言い残したそうだよ。まあ僕と君は恋人ではないけど」



 亨は一層、生徒会長のことが気が気でなかった。



「先輩は、僕が先輩のことを忘れると思っているんですか?」

「君が不変的であればあるほど、僕のことは忘れるよ。だから、これは僕のわがままだよ。もしそうなったときが来ても、忘れないでくれっていう、僕のわがまま」



「絶対に先輩のことは忘れません! 誓ってもいいです。先輩にわがままボタンのこと話して、初めて、誰かに頼ってもいいんだって思えたんです。先輩は僕を変えてくれた恩人で、尊敬できる人で、学年の垣根を超えた友達です!」


 亨が熱を込めて生徒会長に訴えかけても、生徒会長の曇りかかった表情は一向に晴れない。


「もしかして先輩、あの記憶帳の中の言葉の意味が分かったんですか?」


 ほんの一瞬、生徒会長の顔の筋肉がピクリと動いた。


「やっぱり、わかったんですね。教えて下さい、あの言葉の意味は何なんですか!」


 生徒会長が呼吸を整えるように大きく息を吐いた。


「僕からは言えない。これは、君が自ら答えに辿り着かなくちゃいけないんだ」


 生徒会長はカウンターの上に置いてあった図書室の鍵を手に取り、出入り口の方へと向かう。


「今日はもう終わりだ。明日からは僕も忙しくなるだろうから、ここには来れない」


 生徒会長に何をいっても、この人の心を動かせることは出来ない、そう直感した。生徒会長の中には決して揺らぐことない確固たる考えがあった。亨はそれ以上声を掛けることが出来ず、為す術もなく図書室を後にした。

生徒会長は一言も発することはなかった。



 亨は、鍵を閉める生徒会長を眺めていた。その背中はあまりにも弱々しく、なんとも頼りないものだった。一学期の頃の充実していた放課後を思い出して、涙が出そうになった。泣いたところでなにかが変わるわけでもないのに。



 鍵を閉め終えると、生徒会長は一瞥もくれず、階段を下りて行った。

窓からS差し込む夕陽に当てられ。一学期の頃の生徒会長と過ごした日々が次々に想起される。唯一、心を許したと思っていた生徒会長に、わけもよくわからずつっけんどんにされ、悲しくて仕方がなかった。

 しばらく立ち尽くしていると、手洗い場の水道から水がぽつりぽつり、滴り落ちる音が耳朶に触れた。


 亨は、一人ぼっちになったんだと、痛感した。

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