第10話
「亨―京子―はよ起きなさーい」
階段下から聞こえる、叫び声ともとれるそれに不快感を覚えながら、上体を起こした。梯子を下りて洗面台へ向かうと、姉が三面鏡を駆使して身なりを整えていた。
「まだ時間かかるん」
「今日はあんたが下の使い」
姉は髪をいじくりながら、適当に返事をする。一階に降りて洗面台で顔を洗い、居間に行くと、せわしない祖母の姿があった。『共助を学ぶ城山高校歓迎宿泊会』に持っていく、黒のキャリーケースの中身を、プリントと照らし合わせながら確認している。
「それ昨日自分でやったから、いちいち出さんでいいって」
「あんたはいっつもそうやってなんか忘れるんじゃ。私がこうしてせにゃならんやろうも」
昔から、遠出をするときはこうして、最後には祖母のチェックが入る。高校生にもなってここまで過保護にされると、嫌気がさした。これ以上口出しして言い合いになるのはもっと嫌だから、堪えて朝ご飯にありつく。朝ご飯を食べ始めて何分か経った頃、視界の隅に映る祖母が忘れ物を見つけたみたいで、したり顔でこちらを見る。
「あんた昨日言うとった歯ブラシが入っとらんよ。私がみといて正解じゃ」
「わかったって、あとでやるから」
朝ご飯を食べ終えて、洗面台にある歯磨きセットを巾着袋に入れる。祖母の元にあるキャリーケースを取り戻し、中に巾着袋を入れる。
「もう後は僕がやるから、おばあちゃんはテレビでも見とって」
キャリーバッグのチャックを締めて、ハンガーに掛かっている制服を手に取り、袖に腕を通す。この制服を着るのも今日で三回目だけど、やはりまだしっくりこない。姿見で自分の姿を確認して、キャリーケースを引いて玄関に行く。靴を履いていると、階段からどたどたと音を立てながら姉が慌てて降りてきた。
「間に合うかなー」
そのまま居間に行くと思ったけれど、僕の隣にあるキャリーケースを見るや、姉は足を止めた。
「どうしたん、そんなん持って」
「今日宿泊会やから」
「あー、あれか! 懐かしー。友達の一人や二人くらいは作ってきなさいよ」
「はいはい」
「あれ、スマホは持って行っとる?」
「いや、城山高校スマホ持ち込み禁止なの知っとるやろ」
「何を真面目なこと言っとる。持っていっときって。今日おじいちゃんの手術あるんやから、なんかあったらすぐ連絡取れるようにしとき。ばれても事情話したら、そんな怒られたりせんから」
僕は、姉が案外祖父を気にしていることに驚いた。祖父が家にいた頃、僕は祖父と一緒にいることを避けていただけだったけれど、姉と祖父はよく衝突していた。門限を過ぎて帰ってきたときや、中学生にして化粧に手を付け始めた時など、祖父と喧嘩して、時には殴り合いに発展することもあった。姉が高校生になってからは、僕と同じように、ただ避けるだけになったけど、それでも僕以上に、祖父を敬遠しているものだと思っていた。
「じゃあ、一応持っていっとく」
片方履いた靴を脱ぎ、二階の自室へ行ってスマホと充電器を取る。再び玄関に戻ると、そこに姉の姿はなく、居間で朝ご飯を食べていた。入れ替わる様にして祖母が玄関にやってきて、心配そうな目で僕を見る。
「気を付けるんじゃよ」
「うん。一泊二日やし、そんなたいしたことないって」
靴ひもを結び終えて、腰を上げる。
「じゃあ、行ってくる」
キャリーケースを引いて、玄関の扉を開ける。姉のおさがりとあって、キャスターはぼこぼこで、引き心地はあまりいいとは言えない。外は、朝の光が薄く伸びていて、暖かい風吹いている。植木鉢に咲く花々も、どこか元気に見えた。歩道に出ると、キャリーケースは一層がたがたと音を立てはじめる。
結構うるさいな。そんなことを思いながら、城山高校へと向かった。
正門を抜けグラウンドに行くと、観光バスが六台並んでいた。その隣のスペースには、新入生と引率の先生が集まっていた。僕のクラスの列を見つけて最後尾に並ぶと、前にいる男子がやけにこちらを見てくる。それに気付かないふりをして居続けていると、どこからか男子がやってきて、僕に話しかけてきた。
「この班の人?」
「え?」
「いまこれ、班ごとに並んでるんだよ。名前教えてくれたら、班の場所教えるよ」
「蓮見亨です」
「蓮見……蓮見……あった、三班。俺と一緒のところじゃん!」
やけ嬉しそうに声を張り上げる。彼は制服の袖を捲り上げて、浅黒い肌が露出させている。引き締まった腕と、整ったツーブロック。
僕は彼に連れられ、二つ隣の誰もいないスペースに移動する。彼と僕以外、まだ班の人は来ていないみたいだ。
「そういえば自己紹介がまだだったな。俺は源みなもと雄大ゆうた。一応、三班の班長だから、なんか困ったことあったら何でも言ってくれよ」
「あ、ありがとうございます」
「源でも、雄大でも、好きな方で呼んでくれ」
「じゃ、じゃあ、源くんで」
「おっけ、よろしくな、蓮見」
初対面の人と話すのは、いつまでたっても疲れる。特に、千堂や源みたいな、僕とは正反対な人とは。僕はなるべく人と関わりを持ちたくないのに、正反対の人間は無遠慮に話しかけてくる。ただただ面倒臭い。
「じゃあ、俺またさっきのとこ行ってくる」
そう言うと、源は去って行った。どうやら、僕みたいに、班ごとに並んでいることに気付かなくて、迷っている人を自主的に案内しているらしい。整然とした顔立ちに、スポーツマン然とした、シュッとした体格、学級委員長よろしく大層な真面目っぷり、ああいうのが異性にもてるんだろうな。
喧噪の只中で棒立ちして、手持無沙汰のまま時間だけが過ぎていく。もう少し遅れて家を出ればよかったなと、すこし後悔する。
隣を見遣ると、皆一様に誰かと話している。初めての授業の日、一人で席に物静かに座っていた人でさえ、クラスメイトと打ち解けて、楽しそうだ。一方僕と言えば、いまだに一人。頭を垂れて、靴先でグラウンドの砂を蹴っていると、後ろに人の気配を感じた。
「あの、ここって三班であってますか」
振り返るとそこには、眼鏡を掛けた小柄な女子が立っていた。
「そうですよ、ここが三班です」
すると彼女はっとしたようで、「よかった」と一息吐いた。すると、肩まで伸びる、流れるような髪がふわりと揺れた。そしてすぐに源が戻ってきた。
「とりあえず、今はこれで全員揃ってるみたいだな」
「あの、源くん。多分、もう一人いるはずなんだけど……」
知らない人と、一緒の空間にこれ以上置かれるのは、あまりいいものではない。千堂が来れば、個性の強いあいつのことだ、注目が集まって、僕は一人、影を潜めてのんびり過ごせると企んでいたのに。
「ああ、その人のことなんだけど、さっき今畠先生から聞いてさ、向こうで合流なんだって」
源が言う『向こう』とは、おそらく、今から向かう『城山市立 青少年自然の家』のことだろう。僕たちを自然に親しませ、集団で生活させることで、社会性や協調性を育むことを目的とした社会教育施設だ。今から向かう自然の家も、山に囲まれた高原にあるらしく、昨日ネットで調べてみたところ、緑豊かな落ち着きのある場所だった。
でも、どうして千堂は向こうで合流なんだろう。
「各班揃ったら点呼にこいよー」
朝礼台に立つ体育教師が、グラウンド一帯に響き渡るくらいの大声を出す。それを皮切りに、各般の班長が朝礼台に駆け足で向かう。源くんも「じゃあ、俺行ってくる」といって去って行った。名前も知らない女子と二人になって、気まずい空気が流れる。
「すみません、名前とか、聞いてもいいですか」
突如背後から声を掛けられ、振り返ると、先程の眼鏡女子の視線がこちらを向いていた。一拍間を置いても視線をそらさないことから、僕に向けられたものだと判断する。
「あ、えと、蓮見亨です」
「私は、春原すのはら楓かえでって言います。よろしくお願いします」
春原と名乗る彼女は、とても同級生に対する挨拶とは思えないほど、丁寧に深々と頭を下げてきた。僕もそれにつられるようにして、同様に頭を下げ「こちらこそ」といった。頭を上げた春原の顔は少し強張っているように見えた。さしづめ、この宿泊会を通して友達を作ろうという魂胆だろう。しかし声を掛けることに力を全部使ってしまったのか、それ以降春原の口が開くことはなく、僕は前に向き直し、再び気まずい空気が落ちた。
朝礼台に行っていた源が駆け足で戻ってくると、話す暇もなく、朝礼台に立つ学体育教師が再び大声を上げる。
「全員、前を向いて整列!」
ざわついていたグラウンドは水とを打ったようになった。学年主任はその様子を確認すると、朝礼台を降りた。すぐに別の先生が朝礼台に上がり、これから始まる『共助を学ぶ城山高校歓迎宿泊会』についての説明を始めた。
一通りの説明を聞き終わると、最前列である一組が観光バスに吸い込まれるように、乗車していく。グラウンドは再び嬉々とした喧噪に包まれたけれど、僕らの班は、まだどこかむず痒い空気で満ちていた。少なくとも僕はそう感じた。
「いやー、皆が皆知らない顔だと少し緊張するな」
源がそう言うと、僕たち三人の間に沈黙が落ちた。この空気に真っ先に耐えかねた僕は、沈黙の後、言葉を繋ぐ。
「そうですね。僕もこういうの久しぶりだから、なんだか慣れないです」
「そうだよなー、でも俺は、やっぱり楽しみだよ。オリエンテーリングもあるみたいだし、絶対一位取ろうぜ」
溌剌と言う言葉がすっぽりと当てはまるような源の空気に圧されて、嫌な汗がじとりと滲む。春原と言えば、僕たちの会話になんとか割り込もうと機を窺っている様子だった。僕はこの状況にほとほと呆れて、二人に聞こえないよう小さくため息を吐いた。先が思いやられそうだ。
「次は二組やから、いくよ!」
電線に留まっていた雀たちが一斉に飛び立った。朝だというのに、今畠はお構いなしに、大声を響かせる。
どこからともなく、「先生声でかすぎー」という声が聞こえて、どっと笑いが起きる。それから今畠を先頭に、二組も観光バスに大きい荷物を入れて、車内に乗り込んだ。以前配られたプリントを頼りに座席を確認して、自分の席に座る。本来であれば、僕の隣は千堂だったけど、今はいないから、広々使えそうだ。全てのクラスの乗車を確認して、一組から順に観光バスが動き始めた。外には先生が数人いて、バスに向かって手を振っている。通路を挟んだ向こうでは、源と春原が隣り合って座っている。春原はぼんやりと窓の向こうを眺めていたが、なんとか距離を縮めようとしているのか、源が春原に声を掛けていた。隣が誰もいなくてよかった。
春原に倣うわけじゃないが、僕も窓の外を眺めた。見知った街が、どんどん流れていく。
両親がいないという事もあり、あまり遠出をしたことがなかった。そんな僕だ、見慣れた景色が過ぎ去るのにそう時間は掛からなかった。バスの中はグラウンドにいた時と同様、喧噪に包まれている。同じ中学からこの学科に来た人はそう多くないはずだ。それなのにこんなに話し声が聞こえているという事は、もう、皆新しい友達を作っているんだ。僕は、どうやって友達を作っていたんだろう。そもそも、友達なんていたことがあるんだろうか。今までいたことがあるのか、それとも、いたけれど忘れてしまったのか。それすらも今の僕には分からない。一人たそがれていても、余計なことを考えてしまうだけだ。
僕はすぐさまわがままボタンを使い、バスに乗ってからの記憶を忘れることにした。
使い終わると、胸にぽっかり穴が開いたような空虚感だけが残った。今となっては、この空虚感が、わがままボタンの使用を僕に知らせてくれる証拠のようなものだ。
目的地までの距離を、姉に言われて持ってきたスマホで確認すると、まだ五十二分もあった。幸い、僕にしつこく話しかけてくる輩もいない事だし、目的地に着く少しの間、眠っていよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます