第8話
授業が全て終わったころには、時計の針は三時半を指していた。最初の授業とあって、大体は先生との顔合わせと、今後の授業の流れを説明するだけで終わった。本格的な授業開始は二回目からということだ。でも、今日が金曜日で、土日を挟んだ後は一泊二日の宿泊会があるから、二回目はだいぶ先だ。
SHRも手短に終わり、校舎は帰路に着く生徒や部活見学に行く生徒で溢れていた。雑踏に身を置くことを避けるために、僕は椅子に座ったまま、窓を眺めた。桜の花びらが散っていた。四月中旬にも差し掛かると、卒業式の頃には満開だった桜も葉桜へと変わっていた。開け放たれた窓から何枚か花びらが迷い込んできた。僕は席を立って、拾い上げる。
「桜の花言葉って知ってる?」
聞き覚えのある声が背後から飛んできた。僕は振り返ることなく、拾い上げた薄ピンクの花びらを外に逃がす。
「知らないです」
声の主は僕の傍らに歩み寄り、中庭に植樹された桜に目を走らせた。千堂はいつもの快活な雰囲気など感じさせず、静謐せいひつさを漂わせていた。
「精神の美、優美な女性。だけど、桜の種類によっても花言葉があってね、ここにあるのは八重桜。花言葉は、豊かな教養、善良な教育、しとやか。学校に植えるにはぴったりだよね」
千堂が窓の外に手を伸ばすと、手のひらに花びらが舞い落ちた。
「でもね、桜の花が芽吹くのはほんの少しの間だけ。夏に花芽を作って、秋から冬にかけて落葉して、春に気温が上がるのと同時に一気に成長して、そして芽吹くんだよ。たった少しの間咲くために一年を費やして準備するの。それでも終わるときは、少し風がなびいただけでこんなにも儚く散っていく。健気で愛くるしいよね」
桜を仰ぎ見る千堂の双眸は、黒々と怪しげに輝いて、どこか物悲しさを帯びている。
「花が好きなんですね」
「うん、花屋さんになりたくて、いろんな本漁ったり、フラワーショップに通ったりしてたからねー」
張りつめた糸がぷつん、と切れたみたいに、千堂の雰囲気にらしさが戻った。
「もう、目指してないんですか?」
千堂は手のひらにある花びらを手放して、身を翻した。
「――もう諦めたよ。それより、今日はもう帰ろ。どうせ亨くん、部活とか入んないでしょ? それにほら」
千堂は人のいなくなった廊下を指さした。
「人も少なくなってきたし!」
僕の内心はなんでもお見通し、と言わんばかりの自信に満ちた声色が、気に食わない。断る理由も見つからず、渋々二人で廊下に出ると、談笑する甲高い声や、ほのかに聞こえる金管楽器の蕩けるような音、スポーツ系の部活の突き抜けるような掛け声が一緒くたになって、放課後を形作っていた。
――諦めたよ。
千堂の放った言葉がやけに頭に残る。明るさだけが取り柄みたいな千堂の口から、この言葉が出たことが意外だった。苦労の苦の字も知らずに、順風な日常を送ってきたタイプの人だと思っていたけど、案外、悩みなんて持っていたりするんだろうか。
「何考えてるの?」
下駄箱で靴に履き替えていると、千堂は僕に視線を向けないまま、おもむろに問う。僕も靴に目を向けたまま、答える。
「夢、なんで諦めたんですか」
「そーんなの気にしなくていいの!」
千堂は僕の背中を、喝を入れるみたいに強く叩いて、昇降口から颯爽と出ていく。さっきの静謐さはどこへやら。
三叉路に差し掛かると、千堂は「じゃあ私はこっちだから」といって別れを告げた。千堂の背中を眺めながら、僕はあの言葉を想起する。
――諦めたよ
やはり、千堂には似つかわしくない。多分、聞いてもまたあしらわれるだけだ。一体なにが……
僕はふと、記憶帳の二ページを思い出す。
『人に深入りするな、深入りさせるな』
そうだ、僕は他人のことに深入りしてはいけない。詮索はよそう。去りゆく千堂に背を向けて、帰路に着く。あの言葉は、帰って忘れてしまえばもう、気にはなるまい。
歩く度に、見慣れた景色がどんどん色あせて見える。僕を押し戻すように風は吹いて、それに逆らいながら家に向かう。今日の天気は、少し不穏だ。
家に帰りつくと、既に晩御飯の肉じゃがが食卓に並べられていた。居間のソファーに座る祖母は、呑気に健康番組を眺めている。
「ただいま」
「あら帰ってきたんね、お帰り。ご飯できとるから 食べや」
制服をきたまま椅子に座り、晩御飯を頬張る。おふくろの味だ。
「おばあちゃんさあ、夢を諦めたことってある?」
「なんね急に」
「なんとなく」
祖母は一も二もなく、答える。
「そらあるさ」
「どんな夢?」
「ピアノの先生になりたかったのう、昔は。でもな、指を怪我して弾けんようになってもうたんじゃ。生活するのに問題ないくらいまでには回復したんじゃけど、弾くにはあまりにも程遠くてな。その時に、ピアノの先生になるいう夢は諦めたのう」
天井を仰ぐ祖母は、遠い過去を思い出している風だった。
「夢を諦めた時は、追い続けとるときよりも辛かったのを、今でも覚えとるよ」
やっぱり、わがままボタンを持っていない人は、効率の悪い生き方をしていると、改めて思った。僕なら、そんな夢、抱かなかったことにできる。そうすれば夢を諦めて傷付くこともないのに。
祖母はそれ以降口を開くことなく、テレビに視線を戻した。もっと深く掘り下げてみようかとも思ったけれど、祖母を見ていると、なんとなくそんな気も失せて、それからは何も聞かず晩御飯を食べ終えた。
今日は襖戸の向こうにはしおれた足もなく、サスペンスドラマの音も聞こえてこない。人が一人いなくなっただけで、家はいつも以上に広々と感じられて、浮足立ってしまう。敬遠したとはいえ、いなくなってしまえばそれはそれでどこか物足りない感じになってしまうことを、初めて知った。
僕は食器類を片して、ぼんやりとテレビを眺める祖母を尻目に、二階へと上がった。
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