第5話
バスは最寄り駅を終点として、ロータリーで乗客を全員を下ろすと営業所へと戻っていった。駅前にそびえたつ市民病院は最近建てられただけあって、外装は新調した夏制服のように白い。交差点を抜けて病院へと向かう。自動ドアを通過すると、左手にはこじんまりとした売店、眼前には長い廊下が奥まで続き、それに面するように右手に受付カウンターと規則的に並んだロビーチェアが設えられていた。廊下を進み、おくまった場所にあるエレベーターに乗って五階を押す。五階に到着すると正面に窓口があり、その奥にはオフィスのようなものが見える。窓口に端座する看護師と軽く会釈を交わして、部屋番号を確認しながら進んでいく。
506号室……506号室…………あった。
ドアをノックすると、中から懐かしさを覚える声で「どうぞ」と言われ、スライド式のドアを開く。
真っ先に視界に飛び込んできた光景に、ひっそりと息を呑んだ。よれよれの肌着とステテコを身に纏うやつれ顔の祖父が、威厳を微塵も感じさせることなく物静かにベッドに腰かけていた。
「おお、亨か、ありがとうなぁ」
「うん、着替えここに置いとくよ」
木製の小さなテーブルに荷物を置いて、なんとなく、椅子に腰を下ろした。
「手術いつあるん」
「三日後ぐらいじゃったかの。前立腺がんは問題ないみたいなんやけどな、心臓にも少し異変が見つかったみたいでな」
「体力持つんそれ。もう八十も越えとるのに」
「八時間くらいかかる手術して治療する方法もあるにはあるんじゃけどな、先生が、わしが手術に耐えられん可能性があるから言うとったからのう、わしもそれは断って、今回は、心臓にカテーテルいうてな、管みたいなのを入れる手術するいうわけじゃ」
「そうなんや、なんか大変そうやね」
数瞬、ドアをノックする音が病室に響いた。
「蓮見さん、入りますねー」
そう言うとドアは開き、真白に身を包む、女性の看護師が入ってきた。僕がいることに気が付くと、軽く会釈して、僕も返した。ベッドの傍らまで歩み寄ると、サイドテーブルに置いてあるオボンの上の食器類を見た。
「ちゃんと全部食べてますねー、今日はなんか体に調子悪い所とかありますか?」
「そりゃ食べますよわしは。出されたものは全部食べるように親父にさんざん言われて育ったかからのう。ほれ、これがわしの孫じゃ」
看護師は再び僕を見て、ほほ笑んだ。
「じゃあ特段問題もなさそうなので、十分後にまた迎えに来ますね、今度の手術のことで先生から話があるそうなので」
「孫も連れてってええかの? わしが死んだらこれが大黒柱になるじゃけな」
「多分大丈夫だと思いますよー。もしだめなら先生の方から言われると思うので、その間はここで待ってもらうとかもできますし」
そういって看護師はオボンを持って颯爽と病室を後にした。今日はこれから何か用事があるわけでもないから、話を聞くことについてはとやかく言わないことにして、迎えが来るのを二人で待った。
先程と同じ看護師に先導されて、白い扉の前に連れてこられた。看護師は「それじゃ私はここで」と言って立ち去った。看護師という職業人は思いの外、終始私情を垣間見せることもなく、どこか素っ気ない様子で、淡白な人柄に思えた。しかし、何度も人の死が出来しゅったいする職業柄それも必定なのかもしれない。
扉を押し開けると、そこは真白な壁に囲まれた、カラオケの小部屋くらいの大きさのせせこましい部屋だった。テーブルが一つにパイプ椅子が四つ。机が面する壁にはシャウカステンが取り付けられていた。
「どうも、担当医の朝日あさひ出で蒼汰そうたと申します。それではこちらにお座りください。そちらは?」
「これはわしの孫です先生。わしが死んだら大黒柱になるんじゃけのう、それに大事なこと聞き落さんように聞いとって貰おうとおもってな」
二人して椅子に座ると、朝日出先生は、僕たちの目の前にホチキスで止められた数枚のÅ四用紙を滑らせた。流し見してみたところ、手術の概要が書かれている。列挙された見たこともない単語たちが不安を煽っていく。
「これがですね、蓮見さんの心臓部分なんですけどね」
シャウカステンにレントゲン写真を取り付けて、資料と照らし合わせながら話を進めていく。祖父は隣でそれを聞きながらメモに大事な部分を書き出している。
手術……異変……詰まる……血管……失敗……大丈夫……。
無機的な言葉の羅列が持つ畏怖は、この小さな一室をみるみるうちに満たして息苦しくしていく。
もしも失敗したら、もしも治らなかったら、もしも――。
堂々巡りになる思考は、鬼胎をあざ笑うように掻き立てる。眼窩の奥から熱い水が滲み出て、やがてそれは表面に流れて、双眸を煌びやかに潤していく。朝日出先生の言葉がどんどん遠ざかって、知らない外国語を聞いているみたいで理解が追い付かない。隣でメモを取る祖父は、自分が死の危険に裾を掴まれているかもしれないというのに、泰然としている。
心臓の一点を指圧されているみたいな、今まで経験したことのない鈍い痛みが絶え間なく続く。僕は初めての出来事に密かに狼狽する。早くこの部屋から出てしまいたい。しかし一度入った以上、最後までここにいることが礼儀だ。ぐっと堪えて、目から溢れそうな雫を何とか閉じ込めて時間が過ぎるのをじっと待った。
「ありがとうございました」
礼を言って部屋を後にする。胸の苦痛は尾を引いて、いまだに痛み続けている。病室へ戻ると、祖父はベッドに座るやいなや、ようようと朝日出先生について語り始めた。
「あの先生は立派だから大丈夫じゃ。なんせ灯台の名医とよばれとるんじゃからのう」
「なんそれ?」
「そりゃあ、難しい手術を何度も成功させたからじゃろう。どれだけ先が暗くとも、先生なら希望の光を照らしてくれるんじゃ。それに、東大出身らしいからのう、それもあっての、灯台の名医いうわけじゃ。東大出なら、安心じゃ」
どこの大学を出たかなんて、そんなに関係のある事なのだろうか。しかし、そんな呼称で呼ばれるという事は、きっと確かな実績があるからだ。
祖母は旧弊な人だから、いまだに、いい大学を出れば大企業に就職出来て安泰の人生を送れる、と信じているタイプの人だけれど、祖父は時代の移り変わりを受容し、理に適った思考をする人だと思っていた。案外そういうのも気にするらしい。
「じゃあ僕帰るから、また着替え持ってくる」
「そうか帰るか。健康にだけは気を付けるんじゃぞ。健康が一番じゃ」
今の祖父の容姿から発せられるその言葉は、とても重くのしかかる。
「わかった、じゃあまたね」
僕は病室を後にすると、窓口にいた看護師と視線も言葉も交わすことなく、急ぎ足でバス停へと向かった。バスに急いで乗り込んで、空いている席を見つけて座った。一行に引くことのない胸の痛みを取り除くために、僕はわがままボタンを思い浮かべた。こ
厳格な祖父の面影など皆無のやつれた顔や、それでも僕を心配して、言葉を掛ける弱々しい姿が、脳裏にありありと焼き付いて離れない。想起すればするほど謎の痛みは強さを増していく。この胸の痛みの原因があの祖父を見たことにあるとすれば、解決してくれるのはわがままボタンしかない。
早く、忘れよう――。
見慣れた景色が流れていく。さっきまで病院に向かうバスに乗っていたはずだけど、陽も落ちてきて、今は家に向かうバスに乗っている。思い出そうとしても、何も思い出せない。記憶帳を確認しても何も書かれていない。残ったものと言えば、胸にぽっかり穴が開いたみたいな、空虚感だけ。
窓から親子連れが歩いているのが目に入った。母親の腰ほどまでの背丈の子どもが、歩道で元気よく飛んだり跳ねたりして、母親はそれを見て笑っている。
僕も両親が生きていたら、何か変わっていたんだろうか。祖父が死んでしまっては、今の生活を維持していくことも難しい。頼るあてもないし、高校を辞めて働くことになるかもしれない。
気が付くと、目からはらりと涙が流れ、空虚な胸に滴り落ちた。なんだか、枯れた花に水を掛けるようで、虚しくなって拭った。どうして虚しくなるのかは、わからない。
夕暮れは地平線に吸い込まれて、薄い夜がぼんやりと姿を現した。
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