第4話
天井に頭をぶつけないよう姿勢を低く保ち、ロフトの梯子はしごを降りて洗面台へと向かう。蛇口を捻ると冷水が一気に飛び出て、跳ねた水滴が顔にかかった。タオルで顔を拭いて温水が出てくるのを待っていると、ぼさぼさ頭の姉が自室から出てきた。
「あんた、今日入学式でしょ。こんな時間に起きて間に合うん?」
「姉ちゃんは、今日授業はないん?」
「何言っとる、入学式の日は二、三年は休みよ」
「そうなんや、普通に間に合うよ」
「ふーん」
姉はそう言うと、ぼさぼさになった髪を掻きながら一階へと降りて行った。
蛇口から温水が出始めていた。温度を微調節して、絶妙になったところで両手で器を作って温水をため、顔に掛けた。掌に残った水滴をなじませるように顔面に擦る。
朝の日課を終えて一階へ降りると、食卓に朝ご飯が並んでいた。白ご飯と納豆とみそ汁、日本らしい朝食一位に輝きそうなほど、なじみのある簡素なメニュー。
「亨、もう八時よ、間に合うんね?」
祖母が訝るような視線を僕に送る。刺さるようなそれに辟易しながらご飯を口に運ぶ。
「別に大丈夫やから、城山高校まで十五分もかからんから、間に合うって」
「ならいいんじゃけどねえ」
朝食を食べ終えて、ハンガーに掛かった制服を手に取り、袖を通して姿見で確認すると、随分と不格好に映る自分を改めて観取する。成長に合わせるために今現在の体型に合うものより、一回り大きめの寸法の制服を購入したせいだ。
「まだ様になってないねー、まあ、どうせすぐ合うようになるやろ」
姉が僕の制服の着こなしを見て、いたずらに笑った。どこかバカにされたような気がしてほんの少し気に障る。
中学の頃の正カバンを背負い、扉を開けて外に出た。軒先に植えられた植物の葉は、昨日の夜に降った驟雨の名残を帯びて雫を垂らしている。落下する雫に朝日が屈折して刹那的な光を放つ。
式典というのは、示し合わせたように学生にとっては退屈極まりないもので、どうせ今日の入学式もご多分に漏れず退屈なものになるだろう。きっと僕は不平不満を内にためて、帰宅してすぐにわがままボタンを使うに違いない。どうせなかったことになるイベントに向かう足取りは、やはり重い。
※
始終退屈な入学式を無事終えると、新入生と保護者は広々とした多目的室に誘導され、学校指定の学生カバンや学生帽、教科書類を購入する手筈になっている。多目的室内は円を描くように販売店が連なっていて、一周すれば必要なもの全てを揃えられるというわけだ。
祖母に用意してもらったお金を頼りに、雑踏に揉まれながら必要なものを買い揃えて多目的室を後にした。両手いっぱいに荷物を抱え、肩にずっしりとした重量がのしかかり、精いっぱい力をこめる。城山高校から家までの道程が近いことがささやかな救いだった。本来であれば保護者に来てもらい、車に重荷を乗せて余裕綽々帰路に着けるけれど、僕の家庭でそれを実現するのは難しい。――今は特に。
正門を抜けて歩道に入ると、何台もの車が横を通り過ぎていく。家に帰り着いてベッドに横たわることだけを考えながら、亀のようにのしのしと歩いていると、一台のファミリーカーが隣で止まった。止まって間もなく、助手席の窓が開いた。
「そんな重い荷物持って一人で歩くなんて危ないよ、乗っていきなよ」
城山高校指定のブレザーに身を包む、精緻な顔立ちの女子が心配そうな面持ちで僕を眺めている。
「家すぐそこなので、全然大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
知らない人の車に乗るわけないだろ、という言葉は飲み下した。
「細かいことはいーの。ここで時間かかると迷惑になっちゃうから、乗った乗った!」
助手席に座る彼女は、容姿とは相反して明朗快活な雰囲気を帯びている。そして助手席の窓から上体を乗り出し、後部座席のスライド式のドアを開いて乗車を促した。
学校から別の車が出てくるのが見えて、仕方なく車に乗り込む。
「すみません、乗せていただいて」
運転席には略礼服を着た母親らしき人がいる。
「ごめんねほんと、ちづちゃんが君を見た時、止めてって言いだすものだから。もしかして知り合い?」
「知り合いだよ、ね? 蓮見はすみ亨とおるくんっ!」
一瞬、心臓が口から飛び出そうになって必死に口を押えた。まったく見覚えのない女子が、なんで 僕の名前を知っているんだ。僕はへどもどしながら、助手席に座る彼女が続けて何かを言うんじゃないかと言葉を待った。しかし、彼女はそれ以上喋ることなく、ゆるりと振り返って、僕の目を見つめた。鋭い眼光に気圧されて、喉が縮こまって肩がせり上がる。
彼女は数秒僕を見つめたのち、正面に向き直した。息をするのも忘れて気圧されていた僕は、細く息を吐いた。
一体、今のは何だったんだ……
「私の名前は千堂千鶴、覚えてない?」
きっとアニメや漫画なら、僕の頭上には煌々と輝く電球が、ピコーン、と安っぽい音を立てながら現れているに違いない。記憶帳にぽつんと浮き出るように記載されていた名前、千堂千鶴。それ以外の情報が書かれていなかったから些末なことなのだろうと高を括っていたけれど、まったく僕は何をやっているんだ。
「あ、ああ、覚えてます。入試の日以来ですね」
「あら、入試の日に知り合ったのね。お互い合格してよかったわね。ちづちゃんと仲良くしてやってね、亨くん」
「い、いえ、こちらこそです」
とんとん拍子で進んでいく話が奇妙に思えて、気分が悪くなってきた。背を丸めて、窓に流れる見慣れた景色を眺望して、気を紛らわせようとしたけれど、千堂のマシンガントークは止まらない。
「なんで今日は一人なの? 荷物たくさん運ばないといけないってわかってただろうに」
「家の人は、まあ、今日は用事とかで来れなかった」
いつからか、僕は家庭のことを他人に話したくなくなった。小学生の頃は、他人とは違う環境で育った、という事に特別感を抱き、満足にさえ思っていた。しかし、歳月を重ねるたびに、両親がいない事で生じる不憫や周囲の視線が自分を蝕んでいた。
「ふーん、そっか」
千堂は何かを察したのか、それ以上踏み込んでくることはなかった。それからは特に実のない会話のキャッチボールをして、あっという間に僕の家に着いた。
「今日は本当にありがとうございました」
「いいのよ。これからもちづちゃんをよろしくね」
「亨くん、また明日ね!」
「はい、また明日」
頭を下げた後、遠くなるファミリーカーを見送る。視界から切れてようやく深いため息を吐いた。人と関わると、疲れる。特に元気な人は。
最後の気合を入れて玄関の扉を開き、放るように荷物を置いて居間のソファーにあおむけに倒れこんだ。
「あんたそんな寝っ転がったら制服皺になろうが」
祖母は疲れ果てた僕に容赦なくがみがみと叱る。
「わかっとるって、重い荷物持ってたんやからこのくらいよかろ」
「これ、今日もちゃんと持って行っとくんよ。京子はこれから受験で忙しいんじゃからね」
駄々をこねる僕を気にも留めずに、腹の上に膨らんだトートバッグを置いて祖母は台所へ戻っていった。中には、祖父の数日分の着替えがぎっしり詰まっていた。
受験が終わって十日も経たないある日、祖父はとみに激痛を訴えてそのまま市民病院に運ばれた。結果は前立腺がん。数年前に一度患っていたから、いわゆる再発というやつだ。医者いわく、命に関わるようなことはない、と言っていたらしいけれど、昨今の『ガン』という言葉の響きが持つ重みは、そうやすやすと拭いきれるものではない。数日後には手術をするらしいけど、詳細はあまり聞いていない。いや、もしかしたら覚えていないのかもしれない。
「ばあちゃん、病室何号室やったっけ?」
「あんた最近馬鹿になったんね? ついこの前も行ったばっかりじゃろ。506号室じゃ」
「あれ、そうやっけ。了解」
重い腰を上げて、トートバッグを片手に引っ提げ再び敷居を跨ぐ。
平日日中の空気感は、なんだか特別だ。車が通りすぎる音、電線の上で小休憩する名前も知らない鳥のさえずり、澄み切った風になびいて葉擦れする音。学校という箱に閉じ込められた僕には聞こえてこない外の音が、物静かに高揚感を湧き起こらせる。
平日の昼間に外出すると得した気分になるのは、きっとこれだ。疑問を解消した僕は得した心持ちの中、近くのバス停へと足を運ぶ。どこまでも広がる蒼天の水色を引き立たせるように、純白な雲が点々と流れている。入学式にはふさわしい、いい天気だ。
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