第2話
すべての科目の試験が終了し、張りつめていた空気はチャイムの音に反応するように弛緩した。校舎から響く生徒たちの喧噪に辟易としながら、耳栓を装着する。いち早く帰りたいところだけど、今外へ出てしまうと人ごみに飲まれてしまう。机に突っ伏して、人口密度が低くなるのをダンゴムシみたいに丸まってじっと待つ。
もう、今日のことは忘れてしまおう。おそらく合格はしているだろうが、不合格かもしれないという一抹の不安に振り回されるのは癪に障る。
記憶を消す前に、あのメモ帳に――
メモを取ろうと右ポケットに手を伸ばして握ると、手は空気を掴んだ。慌てて左ポケットにも手を伸ばしたが、感触はない。即座に目を開き、辺りを見渡した。鞄の中や机の中、足元を探してもどこにもない。
わがままボタンでそぎ落とした記憶の中で、忘れてはいけないことだけを簡抜して書き出した『記憶帳』。あれがなければ――。
「これって血眼になって探すほど大切なの?」
声の聞こえる方に視線を走らせると、今日の試験開始前、真隣で注目を浴びていた女子が、椅子に座る僕を見下ろすようにして首を傾げている、表紙にでかでかと『記憶帳』と油性で書かれたメモ帳を手に携えて。躊躇うことなくそれを取り返し、餌に飢えた獣のごとく中身を矯めつ眇めつ確認する。中身も無事なことに胸を撫で下ろすと、はっと我に返って耳栓を取り外し彼女を見遣った。
「すみません、拾ってもらってありがとうございます。もしかして、中見ました?」
「そんな非常識なことはしません、見てないよ」
胸ほどまである流れるような長髪が揺れ、柑橘系の微香が鼻をかすめていく。本当は中身を見られたかもしれない。これ以上こいつと関わると面倒なことになるかもしれない。僕はそのままカバンを持って教室の出口へと向かう。
「ちょっと、なんでそんな逃げようとするの!」
彼女に腕を掴まれて、立ち止まる。教室に残っていた数人の生徒たちが訝しい面持ちで僕たちを眺めている。目立ちたくない僕は逃げることを諦めて、彼女の方へ身を向き直し、わざとらしくため息を吐いた。。
「ほかに何か用ですか?」
「一緒帰ろうよ」
「……は?」
僕は言葉の意図が理解できず、気味悪さを感じていた。不審者に遭遇した幼子のように、それ以上は何も言わずにそそくさと教室を後にする。廊下の雑踏も過ぎ去って、足は円滑に進んでいく。
「ねえねえ、記憶帳って君が名付けたの?」
僕と同じ歩調で隣を歩く彼女を横目に、変わらない速度で歩き続ける。
「だったらなんですか、これ以上僕に構わないでくれませんか」
「いや、メモ帳を記憶帳って、変わったセンスしてるなと思ってさ」
小ばかにするように笑う彼女に「君の方がよっぽど変わり者だよ」と言ってやりたかったけれど、会話を極力避けるためにぐっと堪える。
「ねえ、友達になろうよ」
「大丈夫です」
靴箱から靴を取り出して正門へ向かう。その間も彼女はコバンザメのように僕に引っ付いて離れようとしない。
「テストどうだった? 受かってるかなー私あんまり自信ないなー、君はどう? ていうか、名前まだだったね。私は千堂せんどう千鶴ちづる、君は?」
マシンガントーク、いや、ガトリングトークとでもいうべきか。次から次へと湯水のごとく言葉が溢れて耳朶を打ち、不快感も影を潜めて感嘆に値するとさえ思ってしまう次第だ。
「今、こいつのマシンガントークすごいな、とか思ったでしょ。ぶっぶー、今の状況の場合だと私が一方的に話しかけてる感じだから、トークよりはスピークの方が適切です!」
「それ自分で言ってて悲しくならないんですか」
正門を抜けるとまっすぐ伸びる一本道が続き、歩道をせかせかと進む。その間も間断なく話し声は隣から聞こえる。三叉路に差し掛かり、右に曲がると喧かまびすしい声が鳴り止んだ。足は動かしながら、流し目で三叉路を眺めた。
彼女はこちらを見ながら棒立ちしていて、僕の視線に気付くと屈託のない笑顔を浮かべて手を振った。
「私こっちだからまたね! お互い合格してたら、その時はまた名前聞きに行くからちゃんと教えてよ1」
ここまで足蹴にしても執拗に関わろうとする姿勢に若干の恐怖を覚え、足早に家路を進む。
橙色の空が昼を飲み込んで、真っ赤に輝く太陽が寂しげに雲間から覗いている。生暖かい風が春の訪れを感じさせて、制服の袖を少しだけたくし上げた。
今日のことはすべて忘れよう、この景色と空気を除いて。
※
「ただいまー」
間延びした声は音とテレビ音と、台所から聞こえる何かを炒める音によってかき消された。靴を脱いで居間に続く扉を開けると、香ばしい匂いが鼻腔をついておのずと腹の音が鳴った。
台所に行くと、割烹着姿の祖母がフライパンを片手に野菜を炒っていた。
「ただいま、今帰ったよ」
「あら亨とおるお帰り、テストはどうじゃ?」
「んー、普通」
「なんじゃそれは。受かっとったらいいけどねえ。あと、もうすぐしたらご飯できるから皿取っとくれ」
古めかしい食器棚から楕円形のプラターを取り出して、台所へと持っていく。焼肉のたれが効いた野菜炒めがプラターに注がれ、食卓へと運ぶ。
一人には広すぎる食卓で、テレビに流れる特番のバラエティを眺めながら食事を頬張る。いつもと変わらない質素な味。作った人はおふくろではないけれど、おふくろの味とはきっとこのようなことを言うのだろうと思った。作ってくれた人が誰かなんて関係ない。長年食べ続けた変わらない味が郷愁を掻き立てて、春一番のごとく心を温めていく、それがおふくろの味なんだと思った。
まあ、僕はこの地に生まれて育っている最中だけど。
居間に隣接する寝室を見遣ると、開け放たれた襖戸の向こうにしおれた足が見えた。祖父が、録画したよくわからないサスペンスドラマを見ているのだろう。
いつからか、家族で食卓を囲むことは無くなった。六年前に両親を亡くした僕ら姉弟のために、祖父は父親に成り代わったつもりなのか、とても厳格な人だ。そのせいもあって僕と姉は祖父のことを敬遠するようになり、一緒の空間にいることでさえ嫌悪するようになった。祖父も最初のころは時間を合わせるように食卓に足を運んでいたけれど、僕たちが何度も目の前で食事をお盆に乗せて、二階に持っていく姿を目にするうちに、気を使ってか僕らが居間にいるときは寝室でごろごろしている。
鬱々とした気持ちと野菜炒めを流し込むように飲み下した。ごちそうさまと呟き、台所へ食器を置き去りにしてそそくさと逃げるように二階に上がる。二世帯住宅を考えて作られた三階建てのこの家も、今となっては宝の持ち腐れ状態になっている、
両親ともに病死してからというもの、僕と姉の寝室と、父の書斎であった三階は使わなくなり、あれからずっと埃をかぶり続けている。足腰の弱い祖父母は二階にすら上がることはなくなって、二階の二部屋は僕と姉の部屋として割り当てられた。
両親が亡くなってからも、僕たち姉弟はさほどお金に困ることはなかった。そのおかげもあってか、一人で使うにはあまりにも広い自室は、僕の好きな小説や漫画で埋め尽くされていた。
自室の扉を開けて、天井ギリギリのデスク付きロフトベッドに上って、倒れこむようにして横になった。枕に突っ伏して今日一日の出来事を振り返る。
受験も終わって緊張感から解き放たれたことを思い出して幸福感が体を包み込む。それと同時に不合格かもしれないという一抹の不安に襲われる。
仰向けに向き直してポケットから記憶帳を取り出す。表紙にでかでかと油性で書かれた『記憶帳』の文字。書いたことも思い出せないから、きっと僕がわがままボタンを使って書いた記憶を消したんだろう。なんとも拙い字体だ。
表紙を一枚捲ると、たった一行、言葉が並べられている。
『終の住処のその先を、お願いします』
文字は子どものお絵かきみたいに全体的にバランスが悪く、ひらがなでさえも垢抜けていない。何度言葉を反芻してみても理解できないうえに、書いた記憶もない。
これ以上は特に気にすることもなくさらに何枚かページをめくって、最後に書いた、失った記憶の断片を見つけ出す。その下に、今日の忘れてはいけない出来事を、日付と共に書き出す。
『受験は何も問題なく無事終了』
あとはわがままボタンの出番だ。目を瞑りわがままボタンを試みようとした時、あの女子が頭を過った。
試験中席が隣になった、僕が落とした記憶帳を拾っただけで執拗に絡んできたあの変な女子。名前は確か、千堂千鶴。
何度足蹴にしても変えない態度を鮮明に思い出して、つい怖気立ってしまう。こんな記憶、覚えている必要なんてんない。
しかし、もし今後、あいつと万が一関わることがあったら、またあの恐怖を味わうことになる。僕は記憶帳にペンを走らせた。
『入試日に遭遇。千堂千鶴。要注意』
書き終え、僕は記憶帳を閉じて、目を瞑った。心の中にドーナツくらいの大きさの無色透明のボタンをイメージして、今日の朝から三叉路であいつと別れたところまで、そして自室に入ってから今までの記憶をトリミングするように切り取る。記憶は渦を巻いてわがままボタンに吸い込まれていく。やがてどす黒い色彩を帯びて禍々しさ放ち始める。
そうして僕はゆっくりと、噛み締めるようにわがままボタンを押した。
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