わがままボタン
心憧むえ
第1話
僕は特別だ。それは決して高慢からくる考えじゃない。
じゃあどこが特別なのかって?
簡単だよ。僕は何度だって『初めて』を体験することが出来る。
初めて見た映画の感動をもう一度味わおうと思っても、一度見て事の顛末を知っていてはそれも薄れてしまう。初めて食べた絶品スイーツも、食べれば食べる程に味に慣れてやがて飽きが訪れる。こじれてしまった人間関係を、リセットすることもできない。
だけど僕は違う。
僕は心の中にボタンを飼っている。ドーナツくらいの大きさの、無色透明なボタン。
目を閉じて、トリミングするイメージで忘れたい記憶を切り取る。または、特定
の人間を思い浮かべる。思い浮かべるそれはやがて渦を巻いて、無色透明なボタンに吸い込まれていく。
ボタンはどす黒い色彩を帯びてまがまがしさを放ち始める。
あとは簡単だ。そのボタンを押すだけ。
そうすれば、どんなに強くこびりついた記憶も、高圧洗浄機で洗い流される汚れのごとく綺麗に抜け落ちて、跡形もなく霧消する。
忘れたいことを内に抱えて生きていく人と、忘れたいことをなんでも忘れることのできる僕とでは、大きく差異がある。
だって、忘れたいことを覚えていたって、なんの意味もないのだから。
僕は特別たる所以であるこのボタンのことを、『わがままボタン』と呼んでいる――。
1
緊張と不安に押しつぶされそうになりながら、僕は受験会場の場である城山高校へと歩を進めていた。英単語帳を片手に、単語を何度も声に出しながらその意味を反芻していた。
人は座っている時よりも立っているときの方が集中力が上がると、そんなことをテレビで言っていたのを思い出して、今目視している単語はいつも以上に頭に鮮明に残っているはずだと、薄っぺらな根拠に身を委ねていた。
頭の中は連想ゲームのように、受験とは関係のない関連事項を思い浮かべ始める。テレビと言えば、今日特番で面白そうなバラエティ番組があったなとか、その番組を見ているときにはもう受験も終わっているんだな、とか。そんなことを考えていると、目で追っていた英単語も、川に流れる笹船のように軽快に、右から左へと流れていった。
わがままボタンを使って余計なことを忘れてしまおうかとも考えたけれど、万が一受験に関することも忘れてしまっては取り返しがつかない。雑然とした心持ちのまま、僕は進み続ける。
城山高校の正門に繋がる一本道に入ると、僕の身に纏う制服とは異なる制服を着ている様々な学生が、多種多様な本を片手にささやきながら同じ方向へと歩いている。
視界に映る学生たちが自分のライバルになるかもしれないと意識すると、律動的に刻んでいた鼓動のリズムはすぐに乱れ、いっそうの不安と焦燥を煽った。
受験会場に向かう道中で必死になって勉強したところで、合格に大きく近づくなんてことはない。刻苦勉励したとまでは言わないけれど、僕も人並み以上には勉強に勤しんできた自信があった。
それに、僕の受ける学科の倍率は丁度一倍だった。募集人数四十人に対して受験志願者四十人。担任の教師に聞いたところ、倍率が一を下回る学科は、よほど点数が悪かったり内申点が低くなければ落ちることはないといっていたので、この事実は大きな安心材料になりえた。
しかし、僕が中学一年生だったころの三年生に、成績優秀で県内一の偏差値を誇る高校へ
合格間違いなし、と言われていた人が、試験中に緊張のあまり嘔吐してしまい、受験に失敗した現在は高校へも行かずに自宅で養生中、なんて噂を耳にしてしまってはそう安易に気を抜くわけにもいかなかった。
気が付くと城山高校の正門が視界に入り、気を引き締める。
※
靴箱に靴を置き、手提げ鞄の中からスリッパを取り出して履き替える。掲示板に、受験番号によって割り振られた教室の名前と場所が記載されていた。ポケットから受験票を取り出して照らし合わせる。
僕が向かう教室は二―二。眼前には長くのびる一本の廊下。手前にある教室を一つ越えて左手にある階段を上ってすぐの所だ。人がまばらな廊下をすり抜けるようにして教室へと向かった。
教室の扉は開け放たれていて、少しだけ顔を覗かせてみた。呑気に談笑している人、参考書を眺めている人、寝ている人、僕の全く知らない人達とこの一室で今日一日過ごすことを考えると辟易としたけれど、終わった後でわがままボタンを使えばいいや、と思えば多少気持ちは和らいだ。
前方の黒板を見遣ると、試験時間と休憩時間、席順が白チョークで書かれていた。
僕の席は幸いにも窓側の一番後ろ。僕は人と関わるのがあまり好きではなかったので、窓側の一番後ろは視線が集まりにくい場所でとても都合がいい。
席に腰かけて胸を撫で下ろした。とりあえず、遅刻で受験資格を喪失することはなくなった。雑多な音を排除するため、ポケットから耳栓を取り出して装着した。遠くなった喧噪を尻目に見遣った直後、瞼を閉じて背もたれに身体をあずける。そして大海原にぽつねんと浮かぶ孤島に思いを馳せて鼓動を落ち着かせる。
僕はいささか緊張しやすい性分で、緊張しているときは耳栓を装着して、孤立した空間を思い浮かべる。
昔は百均の耳栓を使っていたけれど、試しにネット通販で二千円弱するシリコン製のものを買ってみたところ、まさに青天の霹靂。天と地ほどの差がある遮音性に感激して、今でもその時の物を愛用している。
先程まで遠くにあった喧噪が収束していくことに気が付いて、耳栓を取り外し目を開くと、フォーマルスーツに身を包む四十代くらいの小太りのおじさんが、厚みを帯びた角型封筒をもって教卓に立っていた。
「それでは、五分後にテスト用紙を各列の先頭に配布します。全てに配り終えたら、各自後ろに回してくだ
さい。机の上には筆記用具と受験票のみを置いてください。ティッシュやハンカチが必要になる人はいま申し出てください。許可なく机の上に置いていては不正とみなされることがあります」
教師であるだろう小太りおじさんは、定型句を淡々と声にして教室に響かせる。僕は筆箱の中からシャーペンと消しゴムを取り出して、受験票を机の上へ置いて他は鞄の中にしまった。
さっきまでの喧噪が嘘のようにしじまに包まれて、皆一様に表情が硬い。周りの生徒を見渡すと、緊張しているのは自分だけではないと安堵感を覚えたけれど、真隣にいる女子だけは、違った。
彼女は飄々とした表情でブックカバーのついた本を読んでいた。あと五分も経たないうちに試験が始まるというのに。
「君、あと少しで試験が始まるからその本をしまいなさい」
案の定、小太り先生が僕の真隣にいた女子を注意した。すぐにしまうものと高を括っていたけれど、彼女は思いもよらない一言を発した。
「嫌です」
数瞬、教室にいた全員の目がもれなく彼女に注がれて、小太り先生はハトが豆鉄砲食らったような顔をしていた。
「あと五分あるから、それまでは読みます」
決して棘のある声色ではなく、自分の信念を貫き通すような力強さを携えて、小太り先生を見据えていた。僕はなるべくかかわりを持たないように、椅子を彼女とは逆方向に少しずらした。
虚を突かれた小太り先生はそれから何も言わなかった。やがて生徒の視線も彼女から離れたころ、隣にいる僕は見た。
彼女が小刻みに震えながら、口角を少し、釣り上げていたのを。
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