最終話「終わる世界とその秘密」3

「まずは君の質問にあった、なぜ生き物には寿命があるのかだ。生物はこの世界に適応するために進化という選択肢を選んだ。進化を進めていくためには、型の古い遺伝子を排除する必要がある。その手段として寿命という形で死を受け入れた……とでも言っておけばそれらしく聞こえるのかもしれない。しかし実際はそんなたいそうな理由ではない。私は人類を私に似せてそうぞうした。そして私にも寿命が存在する。だから君たちにも寿命がある。ただそれだけの理由だ」

 それは衝撃だった。僕は創造主を神と同一視していた。この宇宙に地球、人類に世界の法則、その全てを創造した創造主にも寿命があるという。それは僕らから見れば気の遠くなるような、永遠と言って差し支えのないほどの長さなのだろうか。しかし創造主は僕ら人類を自分に似せて作ったと言った。だったら寿命も僕たちと変わらないのかもしれない。もしそうであるのなら、創造主が死んだ後この世界はどうなるのだろう。いや……そもそも宇宙は誕生してからすでに何億年と経過しているはずだ。そうなると創造主と僕らの間では進む時間の早さが違と考えるのが妥当なのかもしれない。

 そんな僕の思索を他所に創造主は更に衝撃的な言葉を続けた。

「君の中に君の世界があるように、私も私の世界を持っている。それに似せてそうぞうしたのがこの世界だ。だからこの世界は私の持つ知識やイメージに大きく影響を受けている。例えば私が住む世界にも柔道がある。しかしもし私が柔道のルールを間違って記憶していたのなら、君たちの住むこの世界ではその間違ったルールこそが真実となる。私が想像し得ないことはこの世界では誰も想像出来ないし、私が知らないことは誰も知らないのだ。ただ一つだけ大きな例外もあるのだがね」

 理解が全く追いつかない。僕は柔道については詳しくはないが、それでも柔道が今よりずっと昔の武術家によって生み出されたものであろうことくらいは想像がつく。それに柔道はオリンピックの種目にもなっているので、近年になってから世界基準にルール変更だってあったはずだ。きっと柔道協会の偉い人なんかが一生懸命に話し合ってルールを変更したに違いない。それなのにそこにも創造主の力が及んでいるというのだろうか。

 いや……気にするべきはそんなところではない。創造主は自分が想像出来ないことは僕たちにも想像出来ない、自分が知らないことは僕たちにも知ることが出来ないと、そう言った。もしその言葉が人が想像し得ることは全て創造主も想像可能であるとか、人の知り得ることは全て創造主も知っているというものであったのなら僕はすんなりと納得出来たはずだ。

 でも違った。

「では、核心へと進んで行くのにあたって、この辺りで君の間違いを正しておくことにしよう。君は私を創造主と呼ぶが、実のところ私は何一つ創造してはいない。私が行ったのは想像だ。そう、私は言葉を用いて想像した。創造ではない。想像したのだ。だから私はこの世界において創造主ではなく、想像主なのだ」

 少し驚きはしたが、すぐにその二つの言葉に、それほど違いがないことに思い至る。例えば僕が粘土で猫を作るとする。それは創造だ。でもその前にどんな猫にしようかと、頭の中でイメージする。それは想像。何かを創造するにあたって想像は不可欠だ。そして世界を作り出した想像主ともなればイメージするだけで全てを作り出してしまうことも可能なのだろう。それは特に荒唐無稽な話ではないはずだ。

「それでは想像主たる私が、想像についての話をしよう。私は世界が言葉で出来ていると言った。そして私はこの世界を想像によって生み出した。そう……この世界は言葉による想像の産物だ。ではここで君に質問だ。君はお気に入りの漫画の主人公が幸せになったのなら、同じように幸せを感じることが出来るだろうか」

 それは思っていたよりもずっと普通の質問だった。

「はい」

 僕は迷うことなく、頷く。そんなことは当たり前だ。全く行動に共感の出来ない極悪人が主人公でもない限り、主人公には幸せになってもらいたい。僕はやっぱり主人公が幸せになって終わるハッピーエンドの漫画が好きだ。だから主人公が幸せになれたのなら、僕も幸せを感じることが出来た。

「では、応援しているスポーツ選手の活躍は君にとっても喜びであるのだろうか」

「当然です」

「なるほど。では先の二つと、君が誰かに優しくしてあげて喜んでもらえたとき、君が感じる幸せは同一のものであるだろうか」

 問われて、少しだけ考える。

「違うと……思います。漫画やスポーツのときは自分のことのようにうれしいけど、誰かに優しくしたときは喜んでもらえたことがうれしいんだと思います」

「なるほど。普通、人に優しくするときはその人に良く思われたいとか、自分がいい人でありたいとか、自分主体であることが多い。しかし中にはそうでない人もいる。本当に人の喜びを自らの喜びのように感じられる人。ではその違いはどこにあるのか。それは優しさの大きさなどではない。想像するかしないかということなのだ。例えば漫画の主人公の場合は想像することはとても簡単だ。物語を追っていくことで、まるで自分が主人公自身であるかのように喜びを共有することが出来るはずだ。スポーツ選手の場合も、長年その選手を追って応援していればその選手の苦悩や努力を想像することが出来、それが報われた活躍を自分のことのように喜ぶことが出来るのだろう。このようにその人の側に立って想像すれば想いを共感出来るのだ。もちろんそれは幸せや喜びだけではなく、悲しみや怒りだって同じことだ」

 理解は出来るのだが少し違和感がある。相手側に立つというのはわかる。でも相手側に立って想像するの、想像という言葉に何か引っかかりを感じる。

「そうだな……では君は最近、誰かに優しくしたことはあっただろうか」

「ぇと……あ、町で知らないおばさんに道を聞かれて、駅まで案内しました」

「そのとき君はどんなふうに感じた?」

「おばさんが喜んでくれたのでうれしかったです。良いことしたなーとも思いました」

「では少し想像してみてほしい。おばさんはその駅から空港に向かった。理由は一人息子が海外に転勤するため、見送りに行ったのだ。夫は息子がまだ幼い頃、事故で亡くなった。女手一つで育てた自慢の息子だ。今はもう別々に暮らしていて、その日は二年ぶりの再会だった。君が道を教えてくれたことでおばさんは何とか間に合って、息子を見送ることが出来た。そして今日、世界は終わる。君のおかげで、おばさんは世界が終わる前に息子に会うことが出来たのだ」

 言葉通りに想像して涙が溢れた。良かった。もしそれが本当だったのなら、僕はあのときおばさんを案内することが出来て良かった。おばさんが息子さんに会えて本当に良かった。

「どうだい? ずっと幸せな気分だろう。優しくした自分を想像するのではなく、優しくされた相手側にたって想像すれば、相手の喜びも自らの喜びのように感じられるのだ。今のように、大げさに想像すれば相手以上に幸せを得ることだって出来るだろう」

 確かに僕は今、相手側の物語を想像することによって、人の幸せを自分のもののように喜ぶことが出来た。

「それでは次は善と悪、対象が対立する二つだった場合だ。ここではフクロウとネズミにしよう。ネズミが主役のドキュメンタリー作品を見ていて、ネズミがフクロウに襲われる。君はネズミがネズミにとっての悪であるフクロウから逃げられることを願うだろう。だがそれがもし、フクロウが主役のドキュメンタリーだったらどうだろう? 母フクロウがお腹をすかせた子供たちのためにネズミを狙っていたとしたら……君はフクロウが獲物を捕らえることを願うだろう。だがそれは悪ではない。君はネズミの死を願ったのではなく、フクロウの幸福を願っただけだ。フクロウの行いだって悪ではないはずだ。それは生きるための、自然の摂理。しかしだ、ネズミにとってフクロウは自らの命を狙う悪に他ならない。そしてネズミを捕らえた母フクロウは、子供のフクロウたちにとって善良な母なのだ。善悪とはそんな曖昧なものだ。ただどちらの側に立って想像したか、それだけのことで表裏が入れ替わってしまう」

 反論の余地もない。僕が特別にネズミを大好きだったりしないかぎり、想像主の言った通りに願ってしまうだろう。どちらの側に立つかだけで、善悪も僕の願いも簡単に変わってしまうのは事実だ。

 でも今、想像主は想像についての話を進めているはずだ。今の話にどれだけその要素があったのだろう。僕にはほとんど関係のない話のように感じた。

「では次は逆に想像しないとどうなるのかだ。例えば人と動物を分けるとされる理性。それは自分の行為における影響を、行動する以前にあらかじめ想像するということに他ならない。その行いが善であるのか、悪であるのか。誰かに迷惑はかけないか。そんなことをしっかりと想像してから行動に移すことが、理性的な行いだ。だから想像せずに行動するということは理性を欠くということになる。それだけではない。他にも自分の利益のために平気で他者を傷つけることの出来る、悪人と呼ばれる者たち。しかし彼らとてその多くは漫画の主人公の幸せを望むだろうし、応援するスポーツ選手の活躍を喜ぶことは出来るだろう。それにどんな悪人も家族や仲間、同郷の者や同じ趣味を持つ人などには優しかったりするものだ。悪人であっても想像さえすれば優しくなれる。ただ彼らは自分に近しい人のことしか想像しない。それ以外の他者のことは少しも想像なんてしないから、酷いことも出来てしまうのだ。更に記憶による知識とは別の頭が良い悪い。頭が悪いといわれるような人は大抵自分の行動による結果を想像しないのだ。どれだけ勉強が出来ても、どれだけ知識豊富であってもそれを使って想像しないのであれば、ただの宝の持ち腐れだ」

「質問です」

 話の内容は理解出来たし、その通りだと思う。しかし違和感があることに変わりはない。だがやっともやもやとくすぶっていた違和感の正体が見えてきた。

「なんだね?」

「その想像という行為と考えるという行為には違いがあるんですか? どの場合でも想像という言葉を考えるに置き換えても問題ないように思えます。そしてそのほうがしっくりくる気がするんですが」

「おお……なるほど。いいところに気がついた。例えば君が母親について考えるとしよう。それは頭の中で、母親のことを想像している状態であるはずだ。では考えるという行為は想像と同じことなのか……あえて言えば、考えるという行為は想像の一面だ。想像をより正確な状態へと練磨していく行為を考えると称するのだ。考え始めたときと考え終えたときでは想像するものが全く同じではないだろう。そして後者のほうがより正しいと思われる想像であるはずだ。だが考えるという行為だけがそうなのではない。君が意識的に頭の中で行う全ての行為の根源にあるのが想像なのだ。だから私は想像という言葉を使った」

 確かにそうだ。何かを考えるとき、まずはその何かを思い浮かべる必要がある。それは想像だ。それだけじゃない。思い出すという行為だって、夢を見る行為も、明日の予定を立てることだって……何だってその根源には想像があった。

「素晴らしい。今、君が思い描いている通りだ。世界は想像の産物。君にとっての正義に悪。夢、希望、絶望。未来に過去。その全ては君の頭の中に、思考の内に存在している。この世界、君を覆い目には見えなくとも永遠と広がって在るとされる世界。その全ては君の言葉によって生まれた、君による想像の産物だ」

 そう声高に語って、さらに想像主は言葉を続ける。

「さぁ、答えはもう目の前だ。君は今、ここにいる。ここはどこだろう。君の部屋だ。君の部屋は君の家の二階。君の家は日本にある。日本は地球にあって、地球は銀河系の中にある。その銀河系は宇宙の中だ。さて宇宙はどこにあるのだろう」

「……ここに」

 僕は自信を持って、そう答えた。

「おお。おもしろい。とても美しい答えだ。確かにその通り。ここは君の部屋で君の家、日本で地球で銀河系で宇宙だ。宇宙はここにある。それは間違いなく真実であり、答えの一つだろう。だが私の望んでいた答えとは違う。君は宇宙と人間の脳の中が似ているという話を聞いたことがあるだろうか。それも当然だ。この宇宙は私の脳の中に、私の思考の中に存在しているのだから。この世界は私が想像した。何度も言っているように創造ではなく、想像したのだ。そして無から宇宙を誕生させたというビッグバンの正体、それは私のひらめきだ。ふとしたきっかけの中に生まれたひらめき。そのひらめきが多くの言葉を得て、今この宇宙を形作っている。そして今もまだ私の想像の広がりと共に、宇宙は広がり続けている。これで聡明な君にはわかったはずだ。心の在り処が」

 意味が、わからない。

 今まではずっと世界という言葉の概念の話だったはずだ。目の前に確かに在る世界ではなく、言葉にして記憶に収め、想像で補完して作り出した僕の思考の中に在る僕の世界の話だったはずだ。

 あぁ……まさか、ここが、ここもそうなのか。僕の世界にだって僕の知る多くの人が住んでいるように、僕もまた想像主の思考の中に在るということなのか。

 僕の世界の住人だって考えることは出来る。それは僕による想像だ。僕がこう言ったのなら、母はこんなふうに喜んでくれるんじゃないか。こんなとき、父ならこんな行動をとるはずだ。そうやって想像することは良くあることだ。

 小学六年生のときの担任の先生がよく言っていた。友達は自分を映す鏡だと。それはそうだ。だって人は自分の心の中しか見えない。自分でない誰かの想いを想像してみたところで、その根底には自分がいる。自分の言葉と自分の知識によってでしか、相手の心の内を想像することは出来ない。だから誰かのことを想像してみても、それはその誰かの姿をした自分自身だ。

 ということはだ、僕の世界の中にどれだけ多くの人が住んでいたとしても心はたった一つ、僕の心しかない。

 そうか……わかった。わかってしまった。全ての同一の心の在り処が。

 この世界は想像主の思考の中にあり、想像主の知識やイメージが反映されている。だから僕は……僕もまた想像主の一部だ。僕たち意思あるものの始まりにして、同一の心とは想像主自身の心だ。僕は想像主とは違う器を持って、違う記憶を持つ想像主なんだ。

「よくここまで辿り着いた。その通りだ。それこそが答え。この世界の真実だ。しかしこの世界にはもう一つだけ秘密がある。君は以前から神の存在を疑っていた。私という存在を予測していた。だがこの世界には私以外に、もう一つだけ大きな意思が存在している。その力は私を否定することこそ出来ないが、私以上に大きな力を持ち無限の可能性を秘めている」

「神がいるのなら、まさか悪魔も……」

「いや、悪魔にもなり得るかもしれないが、そうでないかもしれない。それに私は神ではない。私は想像主だ。神と悪魔のように、それは想像主である私と相反する存在。それは観測者だ。観測者は傍観者ではない。観測者は私よりずっと多くのものをこの世界に想像している。私はこの世界の基礎を作ったにすぎない。私が言葉にして作り上げたもの以外の全てを観測者が想像し補っているのだ」

 観測者……この世界を観測する者とは一体何者だろう。この世界を作った想像主に、この世界に住む僕たち。それ以外にこの世界を観測する誰かがいるという。その誰かは今も僕を見ているのだろうか。

 僕は天井を見上げ、その誰かに向かって手を伸ばした。

「では、そろそろ私は君の物語から退場することにしよう」

 突然の想像主の言葉に僕は時間を確認する。十四時十二分。世界が終わるまで、まだ三十分以上残っていた。

「まだ時間はあります。終わりが訪れるまで、世界について教えてください」

「申し訳ないが、それは出来ない。私はこの世界に想像の余地を残したいと思うのだ。残り三十分、君には余白が生まれる。それは言葉にされていない無限に広がる可能性だ」

「でも……せめてもう少しだけ」

「そうだな……では、最後におまけの話をしよう。もし無限に広がる可能性が未来だけにあると思っているのならそれは間違いだ。もしかしたら君の知らないところで君の父は世界を救うために戦っているのかもしれない。今も知り合いの結婚式に行っているのではなく、世界が滅びるのを阻止するために尽力している可能性を否定することは出来ない。現在だけの話ではない。過去にも君の父は何度も世界を救っている可能性もある。例えそれを君の父が否定したとしても、それだって嘘かもしれない。世界の分岐は未来だけにあるのではない。今にも、過去にだってあるのだ。君にとって確定しているのは、君の歩んできた道のりだけだ。しかしそれもまた真実の記憶だとは限らない。この世界は未来だけではなく今も、過去も曖昧だ。つまり可能性はどこにだって広がっている。私はifの世界は想像の中にしか存在しないと言った。だがそれは言いかえれば想像の中には存在し得るということだ。そう、この世界は想像の産物。同じ世界であっても想像する者が違えば、また違った世界になるだろう。君という存在は君一人きりだ。しかし君を知る人の数だけ別々の君が存在している。それは君を知る人の世界の中にいる君だ。別の世界を生きる君だ。みんな少しずつ違う、君自身だ。そこでは因果がもたらす必然だって違うかもしれない。私がこれまで語ってきたものは、私の世界の話に過ぎない。だが君には君の世界がある。人にはそれぞれの世界がある。だから忘れないで欲しい。君は君の世界の想像主だ。その世界では私の力も君には及ばないだろう。想像する余地さえあれば、そこにはいつだって無限の可能性がある。それでは今度こそお別れだ。さようなら。私はただ願う。君の物語がハッピーエンドであることを」

 その言葉を最後に創造主の声が聞こえてくることはなかった。

 想像主は余地がほしいと言っていた。そこに無限の可能性があると言っていた。僕のこれからの、世界が滅びるまでのたった三十分という余白にどれだけの可能性があるというのだろう。

 そうか……わかった気がした。

 きっと想像主は想像することを放棄したのだ。言葉にしなければ観測は出来ない。シュレーディンガーの猫と同じだ。僕のこれからの三十分には想像し得るだけの無限の可能性がある。

「ありがとうございました」

 物語の最後に僕は誰もいない虚空に向かって、深々と頭を下げた。






エピローグ


                  観測者 ??歳


「物語はここまでだ。しかしこの場を借りて私はあなたに語りかけてみたいと思う。私はこの世界の想像主であり、この物語の作者。そしてこの世界を読んでいるあなたこそが観測者だ。この世界はハッピーエンドの物語。描かれていないということは、あなたの望むように出来る余地だ。あなたがそれを望み、想像するのであればそのようになるだろう。もし世界が終わることを知らない少年が一人で死ぬことをかわいそうに思うのなら、母親が駆けつけてもいいし、山田君も学校をサボっていて、二人でゲームをしたっていい。世界が滅びること自体が嫌であるのなら、特異な力を持つ少年がその力を覚醒させて世界を救ってもいいし、魔法使いの青年が本当に世界を救っていて、夢オチみたいな夢を気絶して見ていたことにしてしまってもいい。あなたが何を想像するかは、あなたの自由だ。あなたの望む想像で世界の余白を埋めてほしい。今までだってそうしてきたはずだ。私はこの世界では出来るだけ容姿の描写は避けてきた。だからあなたは好きなようにその容姿を想像出来た。例えば叶翼。あなたはどんな容姿に想像しただろう。実は彼女は……そう、女の子だ。一人称が僕だったから、きっとあなたは男の子を想像していたのではないだろうか。それは言葉にして明言しなければ、性別すらあなたが好きなように想像することが出来るということ。確かにこの世界は私が想像し、生み出した。しかしあなたがそれを受け取ってくれたのなら、この世界はもう私の手から離れ、あなたのものだ。ただ言葉を追っているだけだったとしても、私が思い描いたものとはどこか違った世界になっていることだろう。私が作ったのだから、私が正しいということはない。あなたにとって、あなたの世界こそが正しい姿だ。全ての登場人物は、あなたの心に触れることで私だけでなく、あなたの分身にもなり得る。私が想像したときとは、きっともう別人だ。もし良かったら、それをふまえて、もう一度最初からこの世界に触れてみてほしい。いつだっていい。あなたが変われば、そのたびにこの世界もまた違う形を見せてくれる。世界を変えるのはいつだってあなたの想像で、あなたの言葉なのだから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

世界の終わりに、想うこと 鈴木りんご @ringoo_10

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ