第190話「天龍寺(後)」
「なるほど。かなり難儀しているようだな」
ここは聖恵が住まいとしている、あの侘しい寺社である。
どのような名前にするのが良いのか。
そして、それをどう朝廷に納得させれば良いのか。
いずれも、頭の痛くなる問題だった。
今、重茂は方々に相談を持ち掛けている。
聖恵のところに来たのも、その一環だった。
今回のような問題において、聖恵は何か良い案を出してくれるのではないか――そんな期待があった。
「重茂は夢を見る方か?」
「夢でございますか」
「そうだ。寝ているときに見る夢だ」
「とんと見ませぬな」
寝ている間の記憶というものは、一切合切存在しない。
眠るという感覚はあるが、それは重茂にとって無だった。
そうか、と聖恵は少しだけ残念そうな表情を浮かべた。
「夢には不可思議な力がある。誰かが見た夢は、他人が否定できるものではない。何らかの解釈を経て形となるが、見た夢をすべて否定されるようなことは早々ないだろう。ましてや、夢を見た当事者が軽んじるべきでない相手なら尚更な」
「改名した方が良いという夢を見た。そういう体で伝えた方が良い……ということでございますか」
「そういうことだ。その方法を採る場合、夢を見るのは
「なぜでしょう」
やけに具体的な指示が出たので、重茂は首を傾げた。
「今、朝廷において尊氏の評判はあまり良くない」
淡々と告げられて、重茂はなんとも頭が痛くなるような思いがした。
近頃の尊氏からは、どこか
それで大丈夫だろうかという懸念はあったが、どうも杞憂では済まなかったようである。
「念のため、理由をお伺いしても良いでしょうか」
「要因はいくつもあるが、突き詰めていくと直義との対比だな。武家は朝廷との取り決めを後から取り消そうとしたり、なかなか素直に従おうとしないところがある。ただ、そういうとき直義は院に対して礼を尽くして対応する。そうなると、言うことを聞かないのは直義ではなく尊氏に違いない、ということになる」
直義はどちらかというと朝廷と良好な関係を維持することを重視している。
必要であれば朝廷相手に妥協するところもあるだろう。
そういう点もあって、院やその近臣等からの評判は悪くない。
しかし、その割に武家はいろいろと理由をつけて大人しく従わない一面を見せてくる。
親朝廷派とも言える直義がそんな姿勢を取るとは考えにくい。
そうなると、なかなか言うことを聞かない理由は一つしか考えられない。
直義の意向を抑えることができる人間――兄である尊氏が原因ということになる。
「尊氏は直義と違ってあまり院の下へ顔を出すようなこともしていない。まめに対応している直義と比較され、院や近臣たちからの評判はどうしても悪くなる。あいつが裏でゴネているのだと、そういう話が広まっているのだ」
重茂は渋い顔になった。
それは根も葉もない噂というわけではない。
実際、尊氏と直義では光厳院に対するスタンスに差がある。
しかし、どうも最近はそれが常態化しつつあるように見える。
表で朝廷とやり取りをする直義は武家と院の間に挟まれる格好となり、尊氏は朝廷に対して強気とも無遠慮とも取れるような姿勢を取っている。
見方によっては、尊氏・直義という二つの柱を持つ足利の強みを生かしているとも取れる。
しかし、ずっとこの方法を採り続けていると、いずれ尊氏と直義の間に埋めがたい溝が生まれないか、という不安もあった。
「ありがとうございます。聖恵殿の立場から話を伺えるのは、こちらとしても非常に助かります」
「参考になれば幸いだ。またいつでも来ると良い」
聖恵にゆっくりと頭を下げてから、重茂は静かに退出した。
今は助けてくれる人々がいるから良いが、自分たちもある程度の知識を身に着けておかなければ、いざというとき重要な判断を誤るかもしれない。
そんな漠然とした不安が、重茂の中に芽生え始めていた。
あの日、天に何か名状しがたいものを見た。
公賢からのアドバイスに従って、地曳の儀は略儀で行われた。
滞りなく終えた後、重茂含む参加者は皆で臨川寺に集まっていた。
そこで改名の件についてあらためて案を出し合っていたとき、不意に尊氏がそう呟いたのである。
「天に、ですか」
直義の問いかけに、尊氏は「うむ」と頷いてみせた。
「正直なところ、おぼろげで何か具体的に見えたというわけではないのだ。ただ、何かがあった。それはとても大事なものだったようにも思えるが、あっという間に消えてしまった」
あまりに漠然としていたため、尊氏も今の今まで失念していたという。
ただ、今日地曳の儀をしていた折、ふと空を見上げたことで思い出したらしい。
「この感覚は、何か大事なもののような気がするのだ。新たな名をつけるなら、それに関連付けた名が良い」
直義と
どうしたら良いのだ、と言いたそうな顔だった。
重茂には自分の顔は見えないが、おそらく二人と同じような表情になっていることだろう。
「――龍、とするのはいかがでしょう」
声を上げたのは、地曳の儀に参加していた
暦応寺建立プロジェクトを
もっとも、近頃は夢窓疎石に対する動きも落ち着いてきたので、実質的なプロジェクト代表の座は夢窓疎石に戻りつつあった。
古先は元々頼まれて引き受けただけの立場だからと、そういう実情への反発も見せていない。
相変わらずのお人好しだと、重茂などは密かに感心していた。
「龍は大陸において帝位の象徴として扱われた伝説上の生き物です。伝承は多岐に渡り、解釈も地域や人によって多少の相違はありますが、偉大な存在であることは一致していると言って良いでしょう。
古先の話を聞いて、尊氏は「おお」と喜色を浮かべた。
「龍か。そう言われてみると、あのとき見たのは龍だったような気もする」
「そんな適当で良いのですか、兄上」
「適当なつもりはない。本当に腑に落ちたのだ」
尊氏の表情は真剣そのものだった。
当然だろう。尊氏からすれば、後醍醐は敵味方に分かれてしまったとは言え、恩人なのである。
いい加減な気持ちで寺社を建立しようなどと言い出すはずもない。彼は本気で取り組んでいた。
「――
それまで話を静かに聞いていた夢窓疎石が、短く言葉を発した。
その場にいた全員の視線が夢窓に集まる。
「尊氏殿が天に見たという龍。天下に変革をもたらした吉野院を祀り、治天の君たる院がお認めになられる寺号として、天の一字を付け加えるのが良いかと思いますが、いかがでしょう」
「天龍――天龍」
尊氏は何度も頷いて、夢窓・古先の手を取った。
「暦応寺ではない。我らが建てるのは、天龍寺。まったくもって異論ありません。これ以上の名はないでしょう」
喜びをあらわにする尊氏だったが、重茂たちはまだ気分が落ち着かなかった。
問題は、これを光厳院が受け入れるかどうかなのである。
天龍寺。
武家から出された改号案に目を通しながら、光厳院は静かに笑みを浮かべた。
「直義が、龍が天に昇るという夢を見た――という話だったか」
「はっ。そのように聞いております」
武家から連絡を受けて話を持ってきたのは、
武家から光厳院に話を持ってくるためのルートはいくつかあった。
基本的には
そこに、何かしらの意図があるようにも思えてくる。
少なくとも、直義が夢を見た云々は方便であろう。
ただ、それは嘘だと決めつけて否定するのは難しかった。
誰かの入れ知恵があったのかもしれない。
「まあ、良い。今のままでは暦応のうちに形にならぬ寺社だとは思っていた。改号したいというなら、すれば良いのではないか。夢窓国師がまとめた内容を見る限り、天龍という名に問題はないように思える」
その言葉を聞いて、経顕は安堵したかのように頭を下げた。
経顕からすれば、この改号の提案は厄介事でしかなかったのだろう。
特に揉めるようなこともなく収まるなら、それに越したことはない。
「各地での戦も、まだ決着していないとは言え、大勢はほぼ決したと聞く。暦応寺――否、天龍寺についてはゆるりと考えていけば良いであろう」
「はい、仰せの通りです」
鷹揚に頷いて、光厳院は静かに庭先へと出た。
空を見上げる。そこに龍などいない。ただ天が広がっているだけである。
「他に考えなければならぬことは山ほどある。戦がじきに収束するのであれば、その後の天下について考えるのが第一」
「その後の天下、でございますか」
そうだ、と光厳院は天から視線を降ろした。
今彼が見据えるべきなのは、そんなところではない。
「我らと足利と吉野。これを、一つにまとめなければならぬ」
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