第189話「天龍寺(前)」
しかしその後も吉野方の抵抗は続いており、戦乱の空気は依然残り続けていた。
その中で大規模な反攻作戦が打ち出されようとしていたのが、暦応四年である。
結果的に、それは失敗に終わった。
坂東においても、北畠派に悩まされていた
西国では
近いところだと、
各方面において、形勢は明らかに足利方有利に傾いてきている。
これまでも全体としては足利優勢だったが、それが素人目にも明らかになるくらいハッキリとしてきた。
一念発起しての大反攻作戦が不発に終わり、吉野方の勢いは急速に失われつつある。
これまで積極的に動きを見せていなかった者たちが、徐々に足利方へと靡きつつある。
この流れは、一度起きたらなかなか止まらない。
そんな中、怪我が回復した
暦応寺の
地曳とは、建築物を建てるにあたって行う儀式の一つである。
同種の儀式はいくつもあるが、地曳は地ならしの段階で行うのでかなり早めに行われる。
建築工事は危険を伴うものなので、その無事を祈願するための建築儀礼は、地曳含めいずれも重要なものだった。
暦応寺の建立は、朝廷・武家・禅宗による共同プロジェクトで、半ば国家事業に等しい。
ただ、完全な国家事業でないところが難しい。
これを従来と同様の手法でやろうとすると、
「それで私に相談しにきたというわけか」
重茂の眼前にいるのは、相変わらず高圧的な雰囲気をまとっている
有職故実に精通している公賢であれば、こういうときの最適解を導き出してくれるに違いない。
そういう期待の下、以前交流があったという理由で重茂が送り込まれたのである。
「確かに従来の作法をそのまま踏襲するのは避けた方が良いだろう。かと言って、過度に遠慮してしまえば今後の暦応寺の威信にも陰りが生まれる。略儀で執り行うのが良いであろう」
「略儀ですか」
「目に見えて挑発的でなければ、今の延暦寺や興福寺は地曳に対して異を唱えることはしない。向こうも強訴続きで手が回らなくなっているからな」
やられる側にとっては脅威でしかない強訴だが、当然やる側にも負担がかかる。
武士でいうところの合戦と同じようなものだ。
何かを得られる可能性はあるが、実行のためのコストがかかる。
「此度、地曳には
その辺りの匙加減は、どうしても武家には分かりにくいところだった。
国家的な事業に参画することが薄かった禅律の衆も、そういうところには精通していない。
公賢に相談したのは正解だったかもしれない。すらすらと回答を述べる公賢を見て、重茂は安堵する思いだった。
「ところで公賢卿」
「なんだ」
「略儀とはどのように行えば良いのでしょうか」
重茂の問いかけに、公賢は若干顔をしかめて息を吐いた。
そこから教えねばならんか。声には出していないが、そう言いたいのがありありと伝わってくる。
「入道。教えてやれ」
「はっ」
公賢の命に応じて姿を見せたのは、以前ひと悶着あった
気まずそうな表情を浮かべる重茂に対して、加賀入道は意外にもにこやかな表情である。
「そう硬くなる必要はありませぬぞ、重茂殿。聞いたところによると、そちらもあの後、大分痛い目に遭ったと聞いております。同じような目に遭った者同士、今後は仲良くやっていこうではありませぬか」
重茂が拷問を受けてしばらく療養していたという話を聞いて、溜飲が下がったのかもしれない。
気を許せる相手ではなかったが、特に突っかかってくる様子もない以上、こちらから何か言うことはなかった。
「では、よろしくお願いいたします」
「少し待て。一つ言い忘れていた」
入道の説明が始まる前に、公賢が制止してきた。
「今更ではあるが、暦応寺という名前」
「はい」
「癪に障るな」
「え」
突然鋭利な刃物で切り付けられたような感覚だった。
動揺する重茂を前に、公賢は淡々と続ける。
「あらためて口に出して気づいたのだ。元号をその名に戴く寺社。
公賢の個人的な感想というよりは、顕密側からどう映るか、という話らしい。
言われてみれば、そのような気がしないでもない。
元号は朝廷によって定められるものである。
その名を冠する寺社があれば、当然朝廷が公的に関与して建立したものだと思われるであろう。
そういう寺社は、これまで顕密が取り仕切ってきた。
そこに禅律が関与しようとしているように見えるから、顕密側は嫌なのだろう。
「私は異を唱える立場ではないゆえ、この件について奏上するつもりはない。今のは私見だ。気になるようであれば、武家方で検討してみるが良い」
「一理ある」
重茂の話を聞いた
「そもそも暦応というのは
もっともと言えばもっともだが、尊氏は暦応寺という名前が決まった当初、特に異を唱えていなかった。
今更な意見と言えば今更な意見である。案の定、
「それでは、今から院に申し上げるのですか。暦応という名では吉野院の御霊が鎮まらぬので、別の名にしたいと」
「難しいか」
「院に喧嘩を売っているのと同じです、それは」
暦応という元号も、暦応寺という名称も、
それに対して「吉野院がそれだと嫌だろう」と改名を申し出るのは、どう控えめに解釈しても喧嘩を売っていると取られる。
光厳院からすれば、そもそも吉野院の鎮魂のための寺社建立に協力している時点でかなりわがままを許しているのである。
あまり調子に乗り過ぎると、機嫌を損じることになる可能性があった。
改名を申し出るにしても、もっとそれらしい理由をつける必要がある。
これは難しい問題だった。対応を誤ると、また朝廷との関係性に問題が生まれかねない。
「ただでさえ、
「しかし、改名を申し出ることで顕密側を宥められるかもしれないのだろう。その点については、院にとっても悪い話ではないと思うのだが」
尊氏もこうなるとなかなか退かない。
重茂は
「弥五郎」
「は」
「申し出るときの方法について、公賢卿は何も言っていなかったのか」
「はい。自分はそういう立場ではないから、と」
師直は師直で、渋い顔をしていた。
尊氏がその気になっている以上、改名の件をうやむやにするのは難しいだろう。
どうにかして、この難題を捌く必要があった。
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