第189話「天龍寺(前)」

 暦応りゃくおう四年は、建武けんむ延元えんげん以来続いていた戦乱におけるターニングポイントの一つだった。


 吉野よしの方として著名な楠木くすのき正成まさしげ北畠きたばたけ顕家あきいえ新田にった義貞よしさだは皆既に世を去っている。

 しかしその後も吉野方の抵抗は続いており、戦乱の空気は依然残り続けていた。

 その中で大規模な反攻作戦が打ち出されようとしていたのが、暦応四年である。


 結果的に、それは失敗に終わった。


 塩冶えんや高貞たかさだの謀反は早々に済まされ、北陸の新田勢も足利あしかが方の手によって押されつつあった。

 坂東においても、北畠派に悩まされていたこうの師冬もろふゆが勢いを増して攻勢に出つつある。

 西国では島津しまづ貞久さだひさが老骨に鞭を打ちつつ吉野方討伐のため動いているほか、石見いわみ国でも吉野方との合戦が起きていた。

 近いところだと、大和やまと国で活発に動いていた吉野方の西阿さいあという男の城を、細川ほそかわ顕氏あきうじが陥落させている。


 各方面において、形勢は明らかに足利方有利に傾いてきている。

 これまでも全体としては足利優勢だったが、それが素人目にも明らかになるくらいハッキリとしてきた。

 一念発起しての大反攻作戦が不発に終わり、吉野方の勢いは急速に失われつつある。


 これまで積極的に動きを見せていなかった者たちが、徐々に足利方へと靡きつつある。

 この流れは、一度起きたらなかなか止まらない。


 そんな中、怪我が回復した重茂しげもちは最初の大仕事に臨もうとしていた。


 暦応寺の地曳じびきである。


 地曳とは、建築物を建てるにあたって行う儀式の一つである。

 同種の儀式はいくつもあるが、地曳は地ならしの段階で行うのでかなり早めに行われる。

 建築工事は危険を伴うものなので、その無事を祈願するための建築儀礼は、地曳含めいずれも重要なものだった。


 暦応寺の建立は、朝廷・武家・禅宗による共同プロジェクトで、半ば国家事業に等しい。

 ただ、完全な国家事業でないところが難しい。

 これを従来と同様の手法でやろうとすると、顕密けんみつ――延暦えんりゃく寺や興福こうふく寺等の反発を招きかねない。


「それで私に相談しにきたというわけか」


 重茂の眼前にいるのは、相変わらず高圧的な雰囲気をまとっている洞院とういん公賢きんかただった。

 有職故実に精通している公賢であれば、こういうときの最適解を導き出してくれるに違いない。

 そういう期待の下、以前交流があったという理由で重茂が送り込まれたのである。


「確かに従来の作法をそのまま踏襲するのは避けた方が良いだろう。かと言って、過度に遠慮してしまえば今後の暦応寺の威信にも陰りが生まれる。略儀で執り行うのが良いであろう」

「略儀ですか」

「目に見えて挑発的でなければ、今の延暦寺や興福寺は地曳に対して異を唱えることはしない。向こうも強訴続きで手が回らなくなっているからな」


 やられる側にとっては脅威でしかない強訴だが、当然やる側にも負担がかかる。

 武士でいうところの合戦と同じようなものだ。

 何かを得られる可能性はあるが、実行のためのコストがかかる。


「此度、地曳には夢窓むそう疎石そせき古先こせん印元いんげん、足利の両殿が参加するのであろう。それぞれが十分崇敬を得ている者たちゆえ、余計なことをせずとも格式は十分に保たれる。暦応寺の地曳としては、略儀とするのが丁度良い」


 その辺りの匙加減は、どうしても武家には分かりにくいところだった。

 国家的な事業に参画することが薄かった禅律の衆も、そういうところには精通していない。

 公賢に相談したのは正解だったかもしれない。すらすらと回答を述べる公賢を見て、重茂は安堵する思いだった。


「ところで公賢卿」

「なんだ」

「略儀とはどのように行えば良いのでしょうか」


 重茂の問いかけに、公賢は若干顔をしかめて息を吐いた。

 そこから教えねばならんか。声には出していないが、そう言いたいのがありありと伝わってくる。


「入道。教えてやれ」

「はっ」


 公賢の命に応じて姿を見せたのは、以前ひと悶着あった加賀かが入道だった。

 気まずそうな表情を浮かべる重茂に対して、加賀入道は意外にもにこやかな表情である。


「そう硬くなる必要はありませぬぞ、重茂殿。聞いたところによると、そちらもあの後、大分痛い目に遭ったと聞いております。同じような目に遭った者同士、今後は仲良くやっていこうではありませぬか」


 重茂が拷問を受けてしばらく療養していたという話を聞いて、溜飲が下がったのかもしれない。

 気を許せる相手ではなかったが、特に突っかかってくる様子もない以上、こちらから何か言うことはなかった。


「では、よろしくお願いいたします」

「少し待て。一つ言い忘れていた」


 入道の説明が始まる前に、公賢が制止してきた。


「今更ではあるが、暦応寺という名前」

「はい」

「癪に障るな」

「え」


 突然鋭利な刃物で切り付けられたような感覚だった。

 動揺する重茂を前に、公賢は淡々と続ける。


「あらためて口に出して気づいたのだ。元号をその名に戴く寺社。長久ちょうきゅう寺や仁和にんな寺などの先例もあるゆえ、どうにも勅願寺としての印象が拭えぬ。顕密側からすれば癪に障る名前であろう」


 公賢の個人的な感想というよりは、顕密側からどう映るか、という話らしい。

 言われてみれば、そのような気がしないでもない。


 元号は朝廷によって定められるものである。

 その名を冠する寺社があれば、当然朝廷が公的に関与して建立したものだと思われるであろう。


 そういう寺社は、これまで顕密が取り仕切ってきた。

 そこに禅律が関与しようとしているように見えるから、顕密側は嫌なのだろう。


「私は異を唱える立場ではないゆえ、この件について奏上するつもりはない。今のは私見だ。気になるようであれば、武家方で検討してみるが良い」




「一理ある」


 重茂の話を聞いた尊氏たかうじは、神妙な面持ちで頷いてみせた。


「そもそも暦応というのは持明院じみょういん統の元号だ。その名を冠する寺社で、はたして吉野院の供養になるだろうか」


 もっともと言えばもっともだが、尊氏は暦応寺という名前が決まった当初、特に異を唱えていなかった。

 今更な意見と言えば今更な意見である。案の定、直義ただよしはかなり渋い表情を浮かべた。


「それでは、今から院に申し上げるのですか。暦応という名では吉野院の御霊が鎮まらぬので、別の名にしたいと」

「難しいか」

「院に喧嘩を売っているのと同じです、それは」


 暦応という元号も、暦応寺という名称も、光厳こうごん院が良しとして定められたものである。

 それに対して「吉野院がそれだと嫌だろう」と改名を申し出るのは、どう控えめに解釈しても喧嘩を売っていると取られる。


 光厳院からすれば、そもそも吉野院の鎮魂のための寺社建立に協力している時点でかなりわがままを許しているのである。

 あまり調子に乗り過ぎると、機嫌を損じることになる可能性があった。


 改名を申し出るにしても、もっとそれらしい理由をつける必要がある。

 これは難しい問題だった。対応を誤ると、また朝廷との関係性に問題が生まれかねない。


「ただでさえ、佐々木ささき道誉どうよ父子の一件で不信感を持たれているかもしれないのです。これ以上自儘にされるのは、よろしくないかと」

「しかし、改名を申し出ることで顕密側を宥められるかもしれないのだろう。その点については、院にとっても悪い話ではないと思うのだが」


 尊氏もこうなるとなかなか退かない。

 重茂は師直もろなおと共に、しばらく兄弟の言い合いを眺めていた。


「弥五郎」

「は」

「申し出るときの方法について、公賢卿は何も言っていなかったのか」

「はい。自分はそういう立場ではないから、と」


 師直は師直で、渋い顔をしていた。

 尊氏がその気になっている以上、改名の件をうやむやにするのは難しいだろう。

 どうにかして、この難題を捌く必要があった。

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