第5章「治天の秋」
第191話「追加法第七条」
八月、坂東における
九月、
十月、北陸に残っていた
内情はともかく、結果だけ見れば足利方の圧勝である。
坂東では引き続き北畠
師冬は引き続き親房と相対することになっているが、師直を援軍に出そうという話は持ち上がっていない。
寺社との問題についても、神木を担ぎこんでの強訴は徐々に終息しており、京は少しずつ静謐を取り戻しつつあった。
一つ、この状況の変化を象徴するような出来事があった。
「追加法第七条――でございますか」
事実上隠居状態にある
直義の口から出たのは、室町幕府追加法に関することだった。
足利氏が創設した室町幕府は、ゼロベースで作り上げられたわけではない。
まず、室町幕府は創設者である尊氏が企図して作り上げた組織ではない。
元々の構想も何もなく、それまで存在していた類似の組織を倣うのは必然と言えた。
このような理由から、室町幕府のルールのベースは鎌倉幕府が制定した
もっとも、御成敗式目にも改善すべき点はある。
制定されてから百年以上経過していて、現状にそぐわなくなっている点もあった。
そうした問題点を改善するため、室町幕府が独自に出したのが追加法だった。
追加法と呼ばれるのは、ベースとなる御成敗式目に追加していった法だからである。
これまで、追加法は第六条まで出されていた。
そこに、新しく第七条を追加しようというのが直義の決定である。
その内容が記された書状を見た重茂は、やや表情を硬くした。
「師直は素直に聞き入れると思うか」
「分かりませぬな」
第七条の内容は、師直がこれまで出していた
執事施行状とは、尊氏が自分に味方をしてくれた武士に下した恩賞を保証するためのものである。
この時代の恩賞といえば、一にも二にも所領だった。
しかし、乱世において「この所領をそなたに与えよう」と言ったところで、実際に手に入る保証はない。
吉野方がその所領を占拠している場合、恩賞を与えられた側の武士は手が出せない、ということもザラだった。
執事施行状は、その所領に近しい有力者――例えば同じ国の
師直は尊氏の執事として、この執事施行状を大量に発行していた。
直義が出した追加法第七条は、これを撤廃するものになる。
「兄が納得するかどうかは、理由によるものと存じます」
「理由ならある。きわめて真っ当な理由だ」
執事施行状には問題点がある。
即効性がある反面、十分な審理を経ずに出されてしまうという問題である。
「戦の真っただ中、味方を増やすため兄は多くの恩賞を出した。執事施行状はそれを保証するために出している」
その中には、院の下にある公家の所領、それに寺社領なども含まれている。
本来、手を出してはいけない所領である。
「恩賞として与えた所領を元々保持していた武士が後から味方になって揉めることもあれば、同じ所領を複数の相手に恩賞として渡して揉めていることもある」
放置しておけば、トラブルの種になるということである。
乱世においては、それに目をつむってでも味方を増やすべく恩賞・執事施行状を出し続ける方が有効だった。
しかし、乱世が落ち着いてくると、それまで蓋をしていたその手の問題が表面化してくる。
「所領は本来
重茂としては、直義の意見に頷ける部分が多かった。
しかし、師直が同様に頷くかは何とも言えない。
「乱世が完全に終息したわけではない。その点で兄が納得しない可能性はあります」
「なるほど、そういう見方もあるか。私は別の理由から納得しないと考えていた」
「別の理由ですか」
「そうだ。執事施行状を停止して、所領の扱いを引付方で一元化する。これは、兄上による恩賞宛行より引付方の審理結果を優先する可能性が出てくるということになる。兄上の権威に影響が出るのだ。私は、この点で師直が承知しないと考えている」
権威について、重茂は考慮していなかった。
漠然と「逆らい難いもの」と考えていただけで、こういうときの判断材料になるものという認識がなかったのである。
「殿の権威に影響が出る……ということであれば、直義殿にとってもこの追加法は苦渋の選択だったものと存じますが」
「当然だ。誰が好き好んで兄上の権威に瑕がつくようなことをするものか。ただ、それでも今このときにやらねばならぬと、そう判断したのだ。こういう問題は、先延ばしにすればするほどつく瑕が酷いものになりかねん」
直義は苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。
直義は事実上足利氏を取り仕切るようになっており、「正式に尊氏から家督を継いだ形にしても良いのでは」という意見も出るくらいだった。しかし、それを一蹴して当主代行の立場に居続けている。
足利氏当主はあくまで尊氏であり、自分はその補佐をする存在だという認識なのである。
そんな直義が、尊氏の権威を重要視していないはずがなかった。
「師直が納得するかどうかは別として、私は近日この追加法を正式に発行するつもりだ。お前は念のためその写しを師直に見せておいてくれ」
「説得は必要でしょうか」
「いや、説得に応じるような男ではないだろう。あいつは頑固者だからな。重要なのは、事前に師直に伝えておくということだ。それが、私にできるあいつへの誠意というものだ」
直義と師直は言い争うことも多いが、そうこうしつつもずっと向き合い続けてきている。
面倒だとは思っているのかもしれないが、同時に相手に対するリスペクトも持ち合わせている。
少なくとも、重茂はそのように解釈していた。
「どうせ発行されるのだろうが、この追加法は承知できんな」
重茂から渡された追加法第七条を見て、師直は険しい表情を浮かべた。
予想通りの反応なだけに、重茂としては苦笑いするしかない。
「ちなみに、どの点が問題だとお考えですか」
「戦はまだ終わっていない。いずれ執事施行状を停止する、もしくは形を改める必要はあるかもしれないが、今は時期尚早だ」
言いながら、師直は庭先に出て南に視線を向ける。
見えるはずもないが、その視線の先には吉野があった。
「北畠・新田といった吉野の主力はほぼ叩き潰した。各地で抵抗を続ける勢力は残っているが、もはや各国の守護に委任しておくだけで対処できる。我らが優勢であることは疑う余地もない」
「では、何を懸念されているのです?」
「吉野の帝だ」
師直の回答は明瞭だった。
「帝には戦う力がない。しかし、戦える者を集める力はある。今、天に帝が二人おられる。この異常事態を終息させない限り、乱世が終わったことにはならん」
「今、吉野の帝にそこまでの求心力がありますかね」
「今はないだろう。しかし、この先もないとは限らん。足利やこちらの朝廷に不満を持つ者が出てきたら、その者たちはこぞって吉野の帝の元へ向かうだろう。一度その流れが生まれると、一気に情勢が変わる可能性がある」
優位に立ったからと言って油断すべきではない。
師直は、そう考えているのだ。
「直義殿のこの追加法は、我らに対する不満を少しでも抑えようという意図があってのものかと存じますが」
「そこは分かる。しかし、それで本当に不満が解消されるのかは怪しいと見ている。公平な審理をしたところで、敗訴した側は納得などしないだろう。どうやったところで、不満を抱く者は生まれるのだ。大事なのは、その不満をどのように晴らしていくかだ」
そして、不満の晴らし方は相手や状況次第でいくらでも変わる、と師直は続けた。
「一律同じ方法で対処できる、などと簡単な話ではない。強大な武士団相手には融通を利かせて味方につける必要がある。小さき武士団は所領において優遇するのは難しいが、足利との繋がりを持たせて所領以外の旨味を与えることはできる。公平性にこだわっていては、その両方を敵に回す可能性がある」
師直の言うことにも一理ある。
不公平ではあるが、最終的により多くの人間が納得できるなら、それに越したことはない。
「追加法第七条について、俺は否定しない。だが、ここには『執事施行状を無効とする』とは書かれていないな」
あらためて見ると、確かに執事施行状について直接的な記述はない。
執事施行状を必要とするような所領の実効支配に関する事柄を、引付方で一元的に扱う、というのが第七条の内容である。
事実上執事施行状の役割を引付方が持っていくことを意味するが、出すなとは一言も書かれていなかった。
「引付方でやるならそれも良いだろう。だがそれはそれとして、必要と判断したら俺は俺で施行状を出す。殿の将軍としての権威を向上させ、乱世を終息へと導くためには、それが一番良い方法だからな」
「……また、直義殿と口論になると思いますが」
「そうなれば、互いに納得するまで言葉を交わすのみ」
師直邸を後にしつつ、重茂は胃が痛くなるのを感じていた。
直義の言葉にも師直の言葉にも十分に理がある。そして、どちらも足利のためを思って動こうとしている。
両者ともに、容易に意見を曲げることはしないだろう。この件は、相当長引くような気がした。
「困るのは、間に立たされる他の人間なんだが……」
はあ、とため息がこぼれ落ちる。
暦応四年。乱世は落ち着きつつも、重茂の周囲はまだまだ落ち着く様子が見えてこなかった。
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