第185話「塩冶高貞の乱(拾肆)」

 播磨はりま国、蔭山かげやま

 出雲いずもまでは遥か遠いこの地で、火の手が上がっていた。


「何を早まっているのだ、塩冶えんや殿!」


 苛立ちを隠さずその場に駆けてきたのは、塩冶高貞たかさだ追討軍の先手の将・桃井もものい直常ただつねである。


 彼は塩冶高貞と縁戚関係にあり、その縁もあって建武政権下で交流を深めていた。

 直情型の直常に対し、高貞は物腰穏やかで控えめなところが目立つ人柄である。

 正反対だからこそ、直常は自分にないものを感じ取って高貞に敬意を払うようになっていたのだ。


 だからこそ、今回の事件は直常にとって寝耳に水だった。

 信用していた兄貴分のような人間に、突如裏切られたのだ。

 憤りもあるが、それと同じくらい戸惑いもある。

 戦うにしても、何か言葉を交わしておきたい。それが直常の正直な心情だった。


「だというのに、何を早まったことを。こんな簡単に諦めるくらいなら、最初から反旗など翻さなければ良かったのだ!」


 火の手が上がっていたのは、旅人用の休息所だった。

 ここに高貞がいるらしいという報告を受けたときには、もう煙が天に向かって昇っていたのである。


 休息所が焼け落ちる様を、直常は無力感に包まれながら見守っていた。


 追討軍の本隊から山名やまな兼義かねよしがやって来たのは、後始末がすべて終わった後のことだった。


「塩冶殿を討ち取られたというのはまことでしょうか」

「ああ、おそらく間違いない」

「気を悪くされたら申し訳ないのですが、塩冶殿を逃すと大事になるので念のため確認させてください。桃井殿もしくは誰かが、塩冶殿本人の姿を見たということでしょうか」


 兼義の問いかけに、直常は一瞬むっとしかけたが、すぐに頭を切り替えた。

 単純なところはあるが、直常は決して馬鹿なわけではない。兼義が言っていることの理屈は分かっていた。


「部下からは、高貞殿の奥方の姿を見た、という報告を受けている。高貞殿本人の姿を見たわけではない」

「この黒焦げになった死体の中に、塩冶殿がいる可能性はどれくらいあると思われますか」

「十中八九いる、と俺は見ている。高貞殿と奥方の仲の良さはよく知っている。高貞殿は、奥方を一人残して自分だけ逃げるようなことはしない」


 そう言いつつ、直常は一言付け加えた。


「あくまで、俺は、そう見ている」


 兼義はそこに込められた意味を汲み取り、頷いてから踵を返した。




 高貞たちは播磨を抜けて、出雲までの道を駆け続けていた。


 体力の限界を迎えて脱落する者もいた。

 そういう者たちは数人単位で置いていくことにしている。


 今、もっとも優先すべきは高貞が出雲まで辿り着くことである。

 高貞が捕まればすべてが終わる。だからこそ、彼は懸命に前へ前へと進んでいた。


早苗さなえはついてきているか」


 側にいた郎党に確認する度、彼らは「少し遅れているようですがついてきているようです」と報告した。


 違和感を覚えたのは、何度目かの問いかけのときだった。

 ついてきていると応えた郎党の顔が、心なしか苦しげに見えたのである。


 疲労によるものとは別の、痛ましそうな表情。

 それを見て、高貞の中に嫌なものが込み上げてきた。


「おい」

「はっ」

「早苗の様子が気になる。もしついてくるのが難しいようなら、護衛をつけてどこかに潜ませた方が良いのではないか。一度、そのように伝えてみよ」


 高貞の言葉に、郎党は皆沈痛な表情を浮かべた。


 一人が、おずおずと高貞の前に進み出る。


「殿。これを」


 差し出されたのは、一通の書簡だった。

 誰からのものか、高貞は尋ねなかった。聞くまでもなく、早苗からのものだと理解できる。


 はたして、綴られていたのは見知った妻の筆跡だった。


 このような形でお別れを告げることになり、まことに申し訳ございません。

 直接伝えれば必ず反対されると分かっていたので、このような方法を採りました。


 あなたがこれを目にしているとき、私は浄土へと赴いていることでしょう。

 私が囮になれば、おそらく足利も無視しないでしょう。

 追手があなたのことをよく知っている人であれば、私と共に行動しているはずだと思うかもしれません。


 こちらで時間を稼ぎます。あなたは私と共にここで死んだと、そう思わせるよう細工もしておきます。

 ですから、あなたは今すぐこの書簡を読むのをやめて、出雲に足を進めてください。

 それが、私や私と共に残った者たちへの供養となります。


 あなたの武運長久を、心からお祈りいたします。


 読み進めるにつれて、高貞の心には穴が広がっていった。

 替え難い大切なものが、永遠に失われた。

 唐突に訪れたその事実を跳ね除けることもできず、否定することもできず、ただ空虚な何かが広がっていく。


 だが、と踏みとどまる。

 崩れ落ちそうになる足に力を入れて、高貞はゆっくりと腰を上げた。


「皆。少し休んだら出立するぞ」


 ここで諦めれば、早苗の決断が無駄になる。

 浄土に行くのがいつかは分からないが、彼女に顔向けできなくなるような恥をさらすわけにはいかない。


「我らは出雲に帰る。今はそのことだけ考えよ」


 皆の顔には疲労の色が表れていたが――反対する者は一人としていなかった。




 どれくらいの時間が経っただろうか。

 ほとんど身動きが取れない重茂しげもちは、ぼろぼろになった身体が発する痛みと向き合うか、自分を運んでいる源長げんちょう源雲げんうんたちと話すくらいしかやることがなかった。


 源長たちもさすがに強行軍が続いて疲弊してきている。

 思えば、塩冶勢でもないのに重茂のせいで強行軍に付き合わされているこの二人も、なかなかに気の毒なものだった。


「お前たちは、この一件が片付いたら良忠りょうちゅうの元に戻るのか」

「ああ、そのつもりだ」

「しかし、良忠はなぜ吉野よしのについているのだ。奴からすれば、吉野院は主――大塔宮おおとうのみやを死に至らしめた相手であろう。その吉野院が残した吉野に味方するというのも、考えてみれば奇妙な話だ」


 良忠の主である大塔宮は、後醍醐ごだいごの皇子であり、足利あしかがにとっては政敵だった。

 ただ、最終的には後醍醐に見捨てられる形となった。

 良忠からすれば、足利は仇ということになるのだろうが、それを言うなら吉野とて仇になるはずである。


「知らねえよ。ただ、俺たちは拾われた恩義がある。だからついていく。それだけだ」

「それで良いのか?」

「アンタだって似たようなもんだろう。足利の家人の家に生まれたから、足利に尽くし続けている。なにが違う」


 源長の言葉に、重茂は「なるほど」と素直に感心してしまった。

 従う相手を選ぶ者もいれば、ただひたすらについていく者もいる。

 どちらが良いという話ではない。少なくとも、重茂と源長たちのスタンスに差といえるほどの差はなかった。


 仕える相手を選ぶのは難しい。

 尊氏たかうじや高貞を見ていると、つくづくそう思わざるを得ない。


 良忠も、何かいろいろと思うところがありつつ吉野についているのだろう。

 動向が気になる相手ではあるが、源長たちから情報を得るのは難しそうだった。


「しかし、アンタは落ち着いているな。もう出雲にかなり近づいているぞ」


 出雲に到着すれば、重茂は人質としての価値を失い、始末されることになっている。

 重茂の命は、風前の灯火になっていた。


「じたばたしても仕方あるまい。人はいつか死ぬ」

「武士というのは、皆が皆、そのように割り切っているのか?」

「人それぞれだ。武士だからと言って皆が同じなわけはなかろうよ」

「そうか」


 源長は複雑そうな表情である。


「こういうのもなんだが、アンタともうすぐお別れだと思うと、少し寂しいと感じる」

「お前たちは良い話し相手だった。冥途への案内人としては、悪くなかったぞ」


 正直、ここまで逃げ延びてくるとは思わなかった。

 高貞だけではない。高貞の周囲にいる人々――早苗たちの執念もあっての結果だろう。


 誰もが懸命に動いた結果なら、受け入れるほかなかった。




 やがて出雲へと至るであろう山道。

 闇夜に紛れて進もうとしている集団を、高所から見下ろす人影があった。


「準備は良いか、兼義」

「ああ。すべて整った」


 兼義の応えに頷き、人影――山名時氏ときうじは周囲に視線を走らせた。

 相手に気づかれぬよう息を潜めた山名勢が、主の号令を今か今かと待っている。


 そして、彼らを待たせておく理由は今なくなった。


 眼下の獲物――塩冶勢を見据えながら、時氏は短く告げる。


「塩冶高貞を、討て」

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