第184話「塩冶高貞の乱(拾参)」
微かに感じた戦いの気配は、さほど時間を置かず消えた。
意図してか偶然かは分からないが、追討のための先遣隊が
おそらく、主力はまだ追いついていないはずだ。
主力が来ていれば、こんなすぐに戦いが収まるとは思えない。
程なく、
隣には、動きやすい恰好に着替えた
「気づいているかもしれないが、先ほど追手と小競り合いが起きた」
「割とすぐに収まったようだな」
「向こうも本格的に攻めかかっては来なかった。おそらく先遣隊が様子見で軽く仕掛けてきたのだろう」
「相手が誰かは分かったのか」
「退いた相手を少し追ってみて旗を確認した。二引両紋だったゆえ、おそらく
さすがに
京にいて比較的すぐに出陣できそうな一門と言えば、
「いざというとき、重茂殿は交渉材料にさせていただく。そのために人質として連れてきたのだ」
「あらためて言われずとも分かっている。ただ、俺にどの程度価値があるかは知らぬぞ」
経験不足ながら、仕事を覚えていけば頭人を務められそうな若手も何人かいる。
このまま塩冶高貞を取り逃すくらいなら、重茂くらいは死んでも構わない。
追討のための将がそのように判断しても、なんらおかしくはなかった。
「そんなことを言うためにわざわざ呼び出したわけでもあるまい。高貞殿、俺に何かをさせたいのだろう」
高貞はばつの悪そうな顔を浮かべた。
「俺には弟がいるのをご存知か」
「ああ。会ったことはないが、名前は知っている」
「万一のことを考えて、俺は此度の一件を一切弟に話していない。弟は今、何も知らず
高貞が何を頼もうとしているのか、重茂はすぐに察した。
今回の謀反が失敗に終わったときの保険である。
塩冶氏すべてが滅ばぬよう、高貞は実弟の無実を語っているのだ。
「無論、俺が出雲まで戻れば弟を説得して味方に引き入れるつもりだ。だが、俺がその前に討ち取られるようなことがあれば、どうか先ほどの証言を思い出して欲しい。虫の良い話だとは思うが」
「随分と弱気だな。一度軽い小競り合いが起きただけであろう」
「好きに言うが良い。元々想定外の出奔なのだ。様々な可能性を考えながら、打てる手を打たねばならん」
重茂はその後、すぐに後方へと戻らされた。
高貞は、見るからに余裕がなさそうだった。
足利から離れて
「高貞殿は大変そうだったな。どうも、気の毒だと思ってしまう」
「アンタが言うのか、それを」
「突発的な問題に直面して四苦八苦するというのは、俺も経験があるからな」
呆れたような源長に対して、重茂は苦笑いを浮かべてみせた。
鎌倉
主君である尊氏の選択によって、重茂は振り回されてきたと言って良い。
突然の出来事に対応するため、怒涛の勢いでやらねばならぬことを片付けていく必要があった。
あのときの忙しさは、正直あまり思い返したくない。
今の高貞が置かれている状況も、似たようなものだろう。
態勢が整う前に追手が迫ってきているという点では、より厳しい状態とも言えそうだった。
高貞の中で、焦燥感が募っていた。
出雲まではまだ遠い。今は
どのルートを進むにしても、あと二つか三つは国を越えていかなければならないのだ。
だというのに、既に追討の手が迫っている。
今は先遣隊だけだろうが、数日もすれば確実に本隊が攻めかかってくるだろう。
それまでに出雲まで逃げ切れるのか。
無理だという言葉が浮かび上がりそうになる度、「やってみなければ分からない」と無理矢理上書きする。
近隣の吉野方と連携して追討軍を迎撃することも考えたが、連絡を取ろうとした相手からは未だに返事がない。
高貞の離反を知っていたのは近衛経忠含む一部のみで、他の吉野方は把握していない可能性が高い。
そういう者たちからすれば、高貞からの連絡はあまりに疑わしいと言わざるを得ない。
信用したとしても、あまりに急な出来事で動くに動けない、という者もいるだろう。
「足利の動きが思ったより早い……いや、これくらい早いことは想定しておくべきだった。どうにか、時間を稼がねばならん」
「妙案はあるのでしょうか」
早苗の問いかけに、高貞は頭を振った。
「重茂殿をここで出しておけば多少は時間が稼げるやもしれぬ。だが、またすぐに追いつかれるであろう。人質が一人だけでは、あまりに足りぬ。出雲の遠さが恨めしい」
「……」
余計な持ち物は捨てて、より速く逃げていく――というのも難しいだろう。
既に疲労が顔に出始めている者もいる。そういった者たちをすべて捨てていかねばならなくなる。
その場合、早苗のことすら捨てなければならない。そんな選択は、高貞には考えられなかった。
その日の晩。
重茂を担ぎ続けて疲れた源長が眠りこけているとき、不意の来客があった。
「夜分遅くに失礼いたします」
そう言って重茂の目の前に腰を下ろしたのは早苗だった。
彼女の周囲には、護衛と思しき者たちのほか、下女の姿などもあった。
「いかがなされた」
「一言、挨拶をしておかねばと思いまして」
彼女と言葉を交わすのは、塩冶邸を訪れたときにやり取りして以来である。
あのときは、まさか事態がここまで急激に動くと思っていなかった。
「挨拶?」
「追手の目を欺くため、塩冶勢は細かく散って出雲を目指すことになりました。そのため、重茂殿とはここでお別れとなります」
このまま逃げ続けても追いつかれる。
追いつかれて戦いになれば、数の差で負けるのが目に見えていた。
それよりは、分散して逃げた方がまだマシだと考えたのだろう。
少人数での行動になるが故のリスクもあるが、追討する側からすれば、どこに高貞がいるか分かりにくいので手間取りやすい。
「高貞殿から仔細は聞いております。此度このようなことになったこと、申し訳なく思っております」
「気にされるな。これも乱世というもの。そう割り切った方が、互いに楽だろう」
重茂の言葉に、早苗は少しだけ表情を和らげた。
「恨み言を聞いておいた方が良いと、そう思って来たのですが」
「今回のことは、いろいろと噛み合わせが悪かった。俺にも至らぬ点があった。誰かが少しでも違う行動を取っていれば、まったく違う結果になっていたかもしれない。今は、そのように考えている」
「そのようなことばかりでございますね。この時代は」
早苗はそれだけ言うと、一礼して去っていった。
「なんだったんだろうな。本当に恨み言聞きに来ただけなのか?」
不思議そうな顔を浮かべる源雲に、重茂はぽつりと呟いた。
「いろいろ片付けているのであろう」
「片付ける?」
「ああ。やり残しがないように」
いつ死んでも良いように。
重茂は、その言葉を呑み込んだ。
確証もなにもないが、先ほどの早苗のまとっていた気配には覚えがある。
これが最後になる。そんな風に思わせる、何とも形容しがたい気配だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます