第183話「塩冶高貞の乱(拾弐)」
中心にいるのは直義と
「
「もぬけの殻でした。見張りの者を残していましたが、外から奇襲を受け、更に邸内からも不意を突かれたので制圧し損ねました」
「つまり、
荒々しい声を上げたのは
かつて坂東から畿内までを戦場に、
「直義殿、高貞殿とは俺もそれなりに付き合いがある。それだけに、此度のことは黙って見過ごせない。どうか俺に塩冶高貞追討を命じてください」
桃井氏と塩冶氏は遠戚関係にある。
また、高貞と直常も建武政権下で交流があったという話を以前聞いた覚えがあった。
具体的な両者の関係までは分からないが、直常が昂っているのは見て取れる。
直義の要請を受けて、直義はちらりと隣にいる尊氏を見た。
現状、足利の総指揮を執っているのは直義である。尊氏は、政治も軍事も直義に委ねていた。
だから直常が直義に請うたのはおかしな話ではないし、直義も独断で方針を決めて良いはずだった。
しかし、直義はどうしても尊氏を立てる癖が抜けない。
立場がどう変わろうと、この二人はあくまで兄弟なのだろう。
昔からずっと二人を見てきた師直だからこそ、直義のこういうところは容易に治らないということが分かる。
「まずは直常を一番手として向かわせる、ということで問題なかろう。ただ、くれぐれも無理はするな。塩冶勢も決死の覚悟で抵抗するだろう。討つことよりも逃がさぬことを優先するのだ。あとで増援を送るゆえ、討ち取るのは合流してからにせよ」
場の空気を察したのか、尊氏が淀みなく直常に指示を出した。
承知しましたと頷いて、直常も颯爽と駆け出していく。
単騎で追っていきそうな気配すらあったが、さすがにそんなことはしないと思いたいところだった。
そんな直常と入れ違いで顔を出したのは、
兼義は生真面目そうな顔つきだったが、時氏は明らかに眠そうだった。
普段から細目でどことなく眠たそうな印象を与える男だったが、今など欠伸をかみ殺している。
時間が時間だから仕方ないが、この状況を理解しているのかと問い質したいところだった。
「
「……既に話は聞いておられたのか、時氏殿」
「道すらが、大まかな話は。塩冶殿の寝返りが決定的になったのでしょう」
時氏は尊氏・直義の前に腰をおろして頭を下げると、やや不満げに口を尖らせた。
「できれば、前もってご相談いただきたいところでした。少なくとも直義殿はある程度把握しておられたのでしょう」
塩冶高貞謀反のことだろう。
確かに、その不満は師直の中にもあった。
直義や重茂は、師直が掴んでいない情報を元に独自の動きを見せていた。
相談してもらえれば、この事態を未然に防ぐこともできたかもしれない。
「大事にせず事態を収めたい。そう考えていた。このような結果になったことについては、申し開きのしようもない」
素直に頭を下げる直義に、時氏は「いやいやいや」と頭を上げて欲しいと頼み込んだ。
「事を穏便に済ませたいという直義殿の意向はごもっともかと存じます。私が言いたいのは、我らにもお声かけいただきたかったということです。独断では、やれることに限りがありますので」
「既に何かをしたということか、時氏殿」
師直の問いかけに、時氏は「然り」と頷いてみせた。
「とは言え、今申し上げた通り私の独断ではやれることに限りがありますので、大したことはしておりません。我が守護任国
出雲と伯耆はすぐ近くである。
時氏の打った手は限定的なものだが、高貞にとっては嫌なものであろう。
情報をほとんど与えられていないにもかかわらず、状況を見通してやれることを一通りやっていたらしい。
マイペースで今一つ頼りにならなさそうだが、どこか底知れないところがある。
事前に直義が時氏に相談していれば、彼は出雲への進路をすべて押さえて高貞の道を完全に塞ぐくらいしただろう。
なんなら、京からの脱出すらさせなかったかもしれない。
「今更になって申し訳ないが、時氏殿、塩冶高貞の追討を任せたい」
直義の言葉に、時氏はゆっくりと頷いた。
「既にどなたか出ていますか?」
「桃井直常が先ほど出立した。彼が一番手として追う形になる」
「承知いたしました。では私も、急ぎ支度を整えて追うことにしましょう」
時氏がほんの少しだけ目を開ける。
「時間をかければ他の吉野方が呼応する可能性もある。そうならぬよう――高貞殿には数日のうちに死んでもらいましょう」
京を脱出した塩冶勢は、西へ西へと駆け続けていた。
ある程度の人数になったとは言え、京からの追手が来たら、どこまで対応できるか分からない。
一刻も早く出雲まで戻らなければ、安全とは言い難かった。
重茂は、力持ちの男二人に担がれながら強行軍に付き合わされていた。
この軍勢が出雲に到着したとき、重茂は斬られることになる。
「しかしまあ大変そうだな。俺は楽なものだが」
汗だくになった男二人に、重茂は雑談でもするかのように話しかけた。
というか、雑談そのものである。この状況になってしまった以上、重茂にできることはもうない。
せいぜい隙があったら逃亡を試みる、というくらいである。
「自分で歩けと言いたい」
「歩けるならそうしているが、少なくとも他の連中に合わせて走るのは無理だ。こちらは足の爪をほとんど剥がされ、何本か指を折られているんだぞ」
我慢しながら歩けと言われれば歩くが、どう頑張っても塩冶勢の速度にはついていけない。
だからこそ、彼らが重茂を担ぎ続けるはめになっているのだが。
「早く殿のところに帰りたかったのに、気づけば俺たちだけアンタを担ぐ役目で居残りだ」
力持ちの男二人は、物心ついた頃に延暦寺に拾われ、兄弟同然に育てられたという。
兄貴分の方は
元々は心優しき師の下で不器用ながらも修練を積んでいたが、建武延元の乱の中で師が命を落とすことになり、そこを良忠に拾われたのだという。そのため、良忠一派の中では新参者ということになる。
「ここはどの辺りだ」
「湊川だ。アンタら足利が新田・楠木とやり合ったところだって聞いたぞ」
確かに見覚えがある。
とはいえ、土地の風景というものは変化がある。
特徴的なもので判別しないと、今一つ現在位置が掴めない。
「アンタも参加してたのか?」
「ああ。俺は兄上たちと共に、楠木勢の相手をした。強かったな。文句なく強かった」
最後まで生きることを諦めず戦い抜こうとした。だからこそ、あのときの楠木勢は強かった。
死を覚悟しつつもそれに抗おうとする者が、もっとも恐ろしい相手になる。そのことを痛感した戦だったと言える。
自分も、もしかすると正成たち同様死出の旅路に赴くことになるかもしれない。
抗う意思はある。しかし身体はぼろぼろで、やれることはあまりに少なかった。
源長たちを懐柔できないかとも考えたが、二人は利害よりも信義で動くタイプのようで、良忠に拾われた恩義を簡単に捨てるようには見えなかった。懐柔策は難しいと言わざるを得ない。
さてどうしたものか。
思索に耽るも、良い案は浮かばない。
そのとき、不意にどこからか「わあっ」という掛け声が聞こえた。
肌がひりつくような感覚が走る。これは、戦の声だ。
「どうやら――早くも追手が来たようだな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます