第182話「塩冶高貞の乱(拾壱)」
もはや後戻りはできない。あらためて意を決した
中にいたのは、
一人、また一人と高貞たちに不意を突かれて倒れていく。
「うろたえるなっ。奇襲を仕掛けるということは、賊は少数、一人にならず複数で相手を始末せよ」
師直にこの場を任されたと思しき男が懸命に声を張り上げる。
しかし、それに応じて冷静さを取り戻せる者はそこまで多くなかった。
理屈では分かっていても、それで実際に落ち着ける者は稀である。
「塩冶邸の者たちよ、我が声を聞け」
高貞は、あえて広々とした庭先に姿を見せた。
良くも悪くも、周囲の視線が集まりやすい場所である。
狙われるリスクはある。しかし、ここは勝負所だった。
「我が名は塩冶
周囲の喧騒がぴたりと止んだ。
皆が、高貞の決意表明に耳を傾けている。
「これより我は、敵地たるこの京を抜けて出雲に向かう。従う者は供をせよ。これは新たな戦への門出である。共に往く者には勝利と恩賞を約束しよう!」
高貞が大きく腕を掲げる。
同時に、歓声と怒声が響き渡った。
「塩冶判官謀反、今すぐ討ち取れいっ」
誰かが吠える。
弦を引く音が聞こえた。
そして、それらをかき消すほどの雄叫びが轟く。
「殿を死なせるな」
「足利がなんぼのもんじゃ」
「偉そうにしやがって」
「目にもの見せてくれるわ」
あちこちでそんな言葉が解き放たれる。
塩冶邸の者たちが、状況を理解して足利と戦い始めたのだ。
高貞はまだ動かない。
危険な状況だったが、ここで姿を見せるのは将としての責務だった。
「殿」
駆け寄ってくる者がいた。
見慣れた顔。何があっても忘れることなどないであろう最愛の者の顔だ。
「
「はい。殿もご無事で何よりでございます」
「すまんな、此度は成り行きで決めてしまった」
「構いませぬ。私は求めに応じて助言をするのみ。今までも、最後に決断していたのは殿でした」
早苗の言葉を聞くと安堵する。
自分の決断は間違っていなかったのだと、そういう確信が胸の中に広がっていくのを感じた。
「皆の理解も追いついた頃でしょう。殿、そろそろ頃合いかと」
「うむ」
塩冶邸の中に関しては、高貞の手勢の方が多い。
皆が高貞の決意を理解して動き始めたので、師直が残した者たちは防戦一方になりつつあった。
もっとも、この優勢は長く続くものではない。
塩冶邸の周囲には足利方の者たちが大勢いる。そろそろこの異変に気付く頃だろう。
彼らがやって来たら、高貞たちに勝ち目はなかった。
「よし、行くぞ。我らが出雲へ!」
塩冶邸に置いていた愛馬に早苗と乗り込み、高貞は正面の門から駆け出した。
堂々と行く。その姿を従う者たちに見せるためだ。
「応っ」
急ぎの支度を整えた者たちが、思い思いに駆け始める。
足利と朝廷が支配する、窮屈で恐ろしい京から逃れるため。
自分たちの故郷から、新たな道を歩み始めるため。
彼らの出発を祝福するかのように、月明かりがその道を照らしていた。
なかなか距離を詰められない。
近づけば切り伏せられる自信はあったが、賊の頭目らしき男は常に一定の距離を維持し続けている。
挑発や包囲を狙ってみたが、いずれも看破されてしまった。思った以上に、荒事に慣れている。
そうこうしているうちに、何か妙な気配がした。
相手も気づいたらしい。二人はほぼ同時に、遠方へと視線を向けた。
夜半だったが、かすかに遠くから明かりが見える。
どこかで火の手が上がっているのかもしれない。
明かりは、塩冶邸の方から見えていた。
「時間稼ぎは成功した、ということか」
「そうみたいだな。そんなわけで、ここはお開きにしたいと思うがどうよ」
「まだ駄目だ」
師直の中で殺気が更に鋭くなっていく。
このままこの男に逃げられたら
現時点で生きているかどうかも怪しいが、ここで逃がせば相手にとって重茂は確実に用済みになる。生かしておく理由がない。
もはや顔も曖昧になりつつあるが、師直の脳裏には
師直には重茂ほどの記憶力はない。年月が経てば、あらゆることが薄れていく。
「まだ、こちらの目的は済んでいない」
これ以上身近な誰かが薄れてしまうのは――到底許容できない。
「おっかねえ目をするもんだ。とても人妻に手を出してたとは思えねえ」
師直は黙殺した。
塩冶高貞の妻女のことを言っているのだろう。今はどうでもいいことだ。
「ふん。その様子じゃ、実際手を出してたってわけじゃなさそうだな」
「貴様には関係のない話だ」
「あーあー、そうだな。関係ねえ」
頭目らしき男は、苛立たしげに吐き捨てる。
「――関係ねえよ」
そう口にした瞬間、師直めがけて男が石を投げ放った。
ほぼノーモーションでの投石。当然勢いはなく、師直は難なくそれを弾いた。
が、その僅かな隙で十分だったらしい。男は師直に背を向けて、一目散に逃げだしていた。
「ちっ、追うぞ」
すかさず馬に乗り込むも、様子がおかしい。
よく見ると、馬の足に石がくくりつけられた縄がからまっている。
こちらの目を盗んで、いつの間にか仕掛けていたらしい。
気づけば、男たちは完全に姿を消していた。
「……俺は塩冶邸に向かう。お前はすぐに
「塩冶判官殿御謀反、ということで良いのでしょうか」
「良い。違っていたら俺が責任を取る。とにかく今は、京から逃げ出そうとする者を取り押さえることが肝要だ」
逃がしてはならない。
必ず追い詰めて始末する。師直は、誰にともなくそうひとりごちた。
「夜分遅くに失礼いたします」
そう言って部屋の外から声をかけてきたのは、
今日行われた
「どうした」
かなり遅い時間だったが、光厳院は起きていた。
本日開かれた庭中の内容を、あらためて確認していたのである。
「まだ詳細は分かりませぬが、先ほどいずれかの邸で火災が生じたようです。また、武家どもがなにやら騒ぎ立てている様子。万一のこともありますゆえ、念のため警護を強化したく存じます」
「分かった」
不意に、夜の闇が深くなったような気がした。
月明かりが消えたのである。
気になったので、光厳院は庭先に顔を出すことにした。
先ほどまで夜の京を照らし出していた月は、雲によってその姿を隠していた。
加えて、空を見上げる光厳院の顔にぽつぽつと冷たい雨がかかり始める。
「一雨来るか。火災はそう広がらずに収まりそうだな」
濡れる前にお戻りくださいと促され、光厳院は室内に引き返す。
かすかに濡れた顔を拭いながら、傍らにいた隆蔭に問いかける。
「武家の者どもはどのような様子だったか」
「私は直接目にしておりませんが、急いで戦支度をしているように見えた、と聞いております。もしかすると吉野が……」
「吉野がいきなりここを攻めてくることはあるまい。今、この京には多くの武家が集っている。わざわざそんなところに真正面から攻めかかるは、愚者のすることよ」
吉野の新帝は、幼い頃から
そのような者が、光厳院から見ても分かるくらい稚拙な方法を許すとは思えない。
「北陸の吉野勢と戦をするため多くの軍勢が集まっている。その中で思いがけぬ問題――寝返りなどが生じたのかもしれぬな。急いで戦支度をしているということは、支度をするくらいの余力があるということだ。おそらく、さほどかからぬうちに事態は収束するであろうよ」
光厳院は戦のことを理解しているわけではない。
ただ、手元にある材料を一つ一つ見て考えを構築しているだけである。
「隆蔭。武家は――足利は強いと思うか」
「は。
「なぜ強いと思う」
光厳院の突然の問いかけに、隆蔭はやや困惑したような表情を浮かべていた。
彼は優秀な官人だが、武家のことを評価する立場ではなく、そういう目も持ち合わせていない。
少し意地悪な質問をしたかもしれぬと自戒しつつ、光厳は自分の考えを述べ始めた。
「彼らは自立している」
「自立、でございますか」
「
彼らは何度も窮地に陥っている。
しかし、その度に柔軟な立ち回りで生き残ることに成功していた。
朝廷の一員として立場を確立した清盛、朝廷の権威と武士の支持を制御した頼朝、鎌倉の責任者としてあり続けた北条。
彼らには、代え難い環境というものがあった。その環境を捨て去れば、自らの立場を失ってしまう。
ゆえに、その環境を守りながら戦い続ける必要があった。
だが、足利にはそういうものがない。
皆無とまでは言わないが、ひどく薄い。最悪、自分たちだけでどうにかやっていきそうなところがある。
そういう意味で、光厳院には彼らが自立しているように見えるのである。
「彼らは強い。何度窮地に陥っても、どうにか生き残るであろう。今宵の問題がどういうものか私には分からぬが、彼らがこれで潰れてしまうとは到底思えぬ。そういう強さがある」
「は」
「だからこそ思うのだ、隆蔭」
辺りは暗かった。
蝋燭の灯りも、光厳院の顔を十分には照らし出していない。
「――強過ぎるのも、考えものだとな」
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