第157話「都を駆ける神仏(拾漆)」

 期日を明確にしなければ、他のいかなる話を持ち出したとしても、履行を先延ばしにされるかもしれぬと疑われる。

 聖恵しょうえからのもっとも過ぎる指摘を受けて、重茂しげもちたちは一旦尊氏たかうじ直義ただよしのもとに状況を報告しに戻った。


「このような事態になったのだ。期日などと言わず、速やかに流罪を実行に移した方が良いかもしれぬ」


 報告を受けた直義は、やや憔悴したような表情である。

 近頃の直義は、大寺社への対応に関する朝廷とのやり取りにかかりきりだった。それによる心労が凄まじいのだろう。


 都のあちこちで強訴が起きている未曽有の状況である。

 朝廷もかなりカリカリしているらしく、直義は相当厳しい圧をかけられているらしい。

 無論それに屈するような直義ではないが、妥協できる点は妥協しても良いのではないか――と思い始めている節もあった。


吉野よしの方の企みについての不安があるのは確かだが、それについて道誉どうよ父子の存在を重視し過ぎるのも良くない。我らはあの父子にそこまで頼りきりであったか?」

「そういうわけではございません。ただ、いるに越したことはないと思っております」

「道誉父子を取り除くことで強訴の一つが片付く。吉野方は我らが押さえれば良い。私はできると見ているが、どうだ」


 直義に問われ、師直もろなおは沈黙した。

 できなくはない。ただ、相応のリスクが伴う。

 足利あしかが家の執事たる師直としては、尊氏や直義をそういうリスクに晒したくないのだろう。


「もうしばし、お時間をいただけませぬか。来年の夏――否、それより前にはなんとかしたいと存じます」

「遅い。院はすぐにでも対応して欲しいとずっと言い続けている。年を越す前に何か手を打たなければ、朝議にかなりの影響が出ることになる」

「それは朝廷の事情というもので、我らには関わりのないこと。我らは我らの事情を主張し続けていくしかありませぬ」


 折れない師直に、直義は大きくため息をついた。


「お前も折れぬな、五郎。もう少し相手の事情を汲み取る姿勢を持て」

「私も一応官職はいただいておりますが、官人である前に足利の執事です。朝廷と足利の事情であれば、足利の事情を優先するしかありませぬ」

「それが却って足利のためにならぬ、ということもあるのだ」


 どちらの意見にも理はある。

 ただ、このままだと意見を違えたまま平行線で話が進んでいきそうだった。


 師直も直義も、相当に頑固な一面がある。

 両者の意見が一致すれば二人三脚で事を進めることができるのだが、割れたときはこうやって膠着状態が生まれてしまうのだ。


 直義は「家人なのだからお前が折れろ」と思っている節があるし、師直は師直で「自分の考えは足利のためになるのだから、直義殿が折れるべきである」と信じている節がある。


 重茂が内心どうするべきかと考えていると、それまで奥で話を聞いていた尊氏がポンと扇で手を打った。


「そもそも今年はもう日も残り少ない。今から対応を始めたところで、年明けに朝議が再開できるかはなんとも言えぬ。この点については開き直らさせてもらおうではないか、直義」

「いや、しかし兄上」

「お前の言いたいことは分かる。わしも、道誉父子に依存し過ぎるのは良くないと見ている。山名やまなが年明けには来るから、それで道誉たちの穴はある程度塞げる。その辺りで流罪を実行する。それでどうだ」


 これで妥協しておけ――そういう言葉の込められた提案である。

 直義・師直としても、この辺で矛を収めた方が良いと思ったのだろう。両者はそれぞれ頷いて応じた。


 二人の意見が割れたとき、毎回こうやって仲を取り持つのは尊氏だった。

 表舞台には滅多に出てこなくなったが、やはり尊氏は足利に欠かせない存在なのだ。


「では、聖恵上人の交渉が上手くいくよう朝廷との調整は任せたぞ」


 尊氏の締めの一言で、その場は解散ということになった。




 暦応三年は、そういう慌ただしい状況下で暮れていった。


 朝廷としては幕府の対応の鈍さにかなり苛立っているようだったが、聖恵を介して延暦寺えんりゃくじと交渉したいという師直の提案には快く応じてくれたという。幕府がこの問題に対処する意志を持っていることが確認できて、少し安堵したのかもしれない。


 重茂にそんな話をもたらしたのは、兄・師泰もろやすの妻であり上杉うえすぎ清子きよこの妹でもある静子しずこだった。

 彼女は年明けに上杉一族の集まりに参加していた。そこでいろいろな話を聞いてきたのだろう。


「しかし師直殿もなかなか強情ね。聖恵上人の交渉について朝廷に話を通しにいったときも、いろいろと院からご提案があったそうだけど、足利のためにならないとすべて断ったみたい」

「兄上らしいといえば兄上らしいですな」


 一時期務めていた朝廷との窓口役を降ろされたのも、そういう強情さを直義が懸念したからなのかもしれない。

 今の窓口役である朝定ともさだは若年ゆえ、むしろ朝廷からの要求に押され気味なところがあるが、その辺は重能しげよしが上手くフォローしているようだった。


「これで問題が少しずつ解決していくと良いんですけど」


 そう不安そうな心情を吐露したのは、師泰と静子の娘であるあいだった。


「重茂殿の方では、なにか吉野方の動向について手掛かりは掴めたのかしら」

「一応有力そうな情報は得ていますが、まだ裏付けは取れておりません。義姉上にもお伝えできるような話はないですね」

「あら残念」


 下手に不正確な情報を静子に伝えると、それが噂話としてあちこちに出回りかねない。

 どこまで伝えるかはよくよく注意しなければならない。それが上杉静子という人の厄介さだった。


「ああ、そういえば別件ですが一つ朗報がありました。遠江とおとうみの情勢が落ち着きつつあるので、四郎の兄上が近いうちに都へ来られるそうです」

「あら、父上が!」


 その言葉に、藍や師泰の養子である師秀もろひでが喜色を浮かべる。


 重茂や師直の兄である師泰は、遠江で活動を続ける吉野方の宗良むねよし親王を抑えるため、同地に出向いて軍事活動をしていた。

 吉野方の動きは大分落ち着きつつあるらしい。そのため、師泰を遠江から呼び戻そうという話が持ち上がっていた。


 実際は、遠江以外の状況も関わっている。

 近頃都の辺りがきな臭いこともあり、山名以外にも頼れる将を呼び寄せておきたいと尊氏・直義が提案したのである。

 坂東で苦戦中の師冬もろふゆを助けるため、そちらに師直を向かわせようという話も出ている。師泰にはその穴埋めも期待されていた。


「そんなわけで、四郎の兄上が戻り次第我ら父子は別邸を探して引っ越す予定です」

「あら、叔父上たち出て行ってしまうの?」

「元々兄上の留守を預かるという意味もあって同居していたからな。引付ひきつけ頭人とうにんを務めるのに十分な広さの邸宅が見つかれば、そちらに引っ越すことにする。兄上が戻ればここは兄上の邸宅になるのだし、そこを俺が仕事で使うというのも変な話だろう」


 もっとも、今のところそれに見合う大きさの邸宅は見つかっていない。あったとしても空いていないのである。


「もし見つからなかったら?」

「……まあ、最悪兄上に引付頭人をやっていただくというのも視野には入れている。そうすれば兄上が兄上の家を仕事で使う形になるし、それなら何の問題もないだろう」

「義父上、嫌がりそうですけど」


 師秀の指摘に、藍もうんうんと頷く。


 実のところ、師泰は以前一度引付頭人を務めていた時期がある。

 しかし、訴人たちやその縁者からあれこれ言われたり、訴訟に関する資料に逐一目を通さないといけなかったりするのが相当に苦痛だったらしく、遠征担当の将が必要という話が持ち上がったとき、真っ先に立候補したのだという。


 後醍醐ごだいごによる建武政権の頃も、雑訴決断所の職員という訴訟にかかわる仕事をしていたが、そのときもかなり嫌そうだった。

 訴訟はとにかく煩わしいことが多い。師泰の性に合っていないのだろう。


「そこはもう主命ということにしてもらう。殿には話を通してあるからな、さすがの兄上もこれには逆らえまい」


 重茂も、師泰の反応くらいは読んでいた。

 当然、対策は済ませている。丁度良い邸宅が見つかるか不安があったので、念のためにと尊氏・直義の内意を取り付けていた。


「実際の仕事は俺の方で引き受ける。それなら兄上も折れるだろうさ」

「重茂殿も、京での生活が板についてきたというか、したたかになってきたわねえ」


 静子が半ば呆れたような目を向けてくる。

 考えようによっては喜ばしい評価なのかもしれないが、あまり嬉しくはなかった。




 その数日後、重茂は師直邸に呼び出された。


 どうも師直を坂東に向かわせるという話が本格的に進み始めているらしく、同地のことに詳しい重茂から話を聞きたい、ということらしい。

 師冬は北畠親房を相手に、坂東の厳しい状況下で年を越すことになったらしい。相変わらず、状況は好転していないようだった。


「近頃は宇都宮うつのみや小山おやまにも調略の手が伸びているという。お前の目から見て、両氏は吉野方の誘いに乗りそうか?」


 宇都宮は当主の加賀寿丸かがじゅまるが幼少なので、それを支えている紀清両党きせいりょうとうと呼ばれる家臣団――特にその筆頭の芳賀はが禅可ぜんか次第だろう。


 小山の方はより複雑である。

 中先代の乱で当主が討死したせいで、幼少の当主を大後家と称される祖母が支える体制になっている。

 それに加えて、北畠きたばたけ顕家あきいえに城を攻め落とされたことがあり、それ以降足利方とも吉野方とも取れる不明瞭な立場になっていた。


「芳賀禅可は北畠顕家を前にしてなお足利についた者たちゆえ、当面は問題ないものと思われます。小山については、むしろこちらからも調略の手を伸ばした方が良いでしょうな。きっかけがあれば、旗幟を明確にするでしょう」


 そんな話をひとしきりした後、師直はふと思い出したかのように「先日の件だが」と口にした。


「先日?」

「聖恵上人のところに向かったときのことだ。お前、弥四郎のこともあって不服そうな顔をしていたであろう」


 延暦寺に対する遺恨が顔に出ていて、それを聖恵に諭されたときのことだろう。

 何か小言でもあるのかと身構えていたが、師直の口から出たのは意外な言葉だった。


「――正直なところ、俺は自分が少し嫌になった」


 重茂に対してではない。師直は、自分自身に対して嫌悪感を持ったのだという。


「それは、どういうことでしょう」

「俺は、弥四郎のことを忘れたわけではない。延暦寺のことは、どこかで弥四郎の仇だと思っている。しかし、それを引きずっていても足利のためにならぬと、割り切るようにしていた」

「……俺が言うのもなんですが、そちらの方が良いことなのでは?」


 師直はなんとも微妙そうな表情を浮かべた。

 肯定も否定もできない。そんな顔である。


「割り切るべきだという考えは今でも変わっていない。ただ、そう思う自分がどうにも嫌になった、というのも確かだ」


 割り切ろうとしても、割り切れない部分がある。

 自分の中にあるそういう一面に、師直は気づいたのかもしれなかった。


「弥四郎は俺にとっても良き弟だった。そう思いつつ、近頃は弥四郎がどのような顔をしていたか、どのような声であったかはっきりと思い出せなくなってきている。だから割り切れるのだろうか、俺は薄情なのだろうかと、そう思うことがあった」


 師直の視線の先には、外の庭先で戯れている菖蒲あやめ青葉丸あおばまるの姿があった。

 新たに家族を得たことで、失った家族に思うところが出てきたのかもしれない。


「兄上がどう思われているかは分かりませんが、少なくとも足利には今の兄上が必要なのだと、俺はそう思います」

「そうだな。俺も、そう思っている。そうすることが、足利のために命を散らせた弥四郎のためにもなる。そう信じて、足利家に仕えている」


 師直はじっと重茂を見つめてきた。

 冷徹で恐ろしいと評判の、鋭い視線である。しかし、今はその中に強い情のようなものが感じられた。


「弥五郎。お前は、今でも弥四郎のことをはっきりと覚えているか」

「はい。きっと、忘れることはないのだろうと思います」


 重茂の言葉に師直は頷いてみせた。


「俺の生き方は、おそらくいろいろなものを置き去りにして進んでいく生き方だ。大事なものを取りこぼすこともあるだろう。弥五郎、お前はそういうものを拾い上げて、大事にする生き方をしてくれ」


 それは、おそらく足利家執事・高師直としての言葉ではなく、高弥五郎重茂の兄・高五郎師直としての言葉なのだろう。

 突然の肉親としての言葉にやや戸惑いつつも、重茂は頷いて応じるのだった。

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