第156話「都を駆ける神仏(拾陸)」
「我々としても大寺社相手に揉め事を長引かせたくないというのが本音です。ただ、
「そちらの事情は分かった。この聖恵、
おお、と
これで断られたら別の伝手を考え直さなければならないところだった。
元々は坂東武士だった足利には、京の人脈があまりないという欠点がある。
本来そういう面で役に立つのは
本件において光厳院は幕府と異なる立場を取っているので、なるべくその影響下にある上杉の力は使いたくなかった。
「ただし、力を貸すかどうかとは別に、交渉を成功させるための条件がある」
「どのような条件でございましょう」
聖恵は三本、指を立てた。
「一つ。吾はあくまで朝廷と延暦寺の間に立って交渉を行う、という形にする。そういう形にするための調整は任せたい」
「それは何故でしょうか」
「延暦寺が、武家のみで相手をするには大きな相手だからだ」
そうだろうか。
そんな疑問が重茂の顔に出ていたのだろう。
聖恵は苦笑交じりに説明を続けた。
「延暦寺は組織として大きく円熟している――というだけではない。帝や親王の親族、公家の非嫡子などが送り込まれているため、朝廷との繋がりが非常に強い。武家だけで対処しようとすると、そういう繋がりから予期せぬ妨害を受ける可能性がある。古くからの大寺社のそういう性質を軽視すると、痛い目にあうぞ」
名目だけでも朝廷と延暦寺の交渉、という形にしておいた方が良い。
そうすれば、変な横やりが入る可能性を減らすことができる。
「聖恵上人の仰ること、理解いたしました。朝廷との調整もまた難儀ではありますが、それはこの師直がどうにかしましょう」
師直は一時期、朝廷との窓口役を務めていたことがある。
今はその役目を上杉
いざとなれば、
「二つ目だが、
師直と重茂は言葉を詰まらせた。
それは、簡単には確約できない。足利としては異論ないが、
なにせ、両者の確執は深い。今回の道誉父子に対する流罪に納得していないという声も一部から上がっていた。
延暦寺が強訴に及んできたことについて、近江はかなりピリピリしている。
「無論、そういう事情は分かっている。その上で確約できるかどうか、という話だ」
聖恵の言葉に含まれた意味を、師直は察したようだった。
「足利が延暦寺に対してどのような姿勢で臨んでいるか、それを明らかにせよということでございますな」
佐々木一族や近江の武士にこれ以上手出しをさせない、と足利が約束する。
一番大事なのは、それが遵守されるかどうかではない。
足利が近江武士と比べて延暦寺を軽視するようなことはない――と明示することにある。
「無論、口約束だけでは駄目だ。それを遵守しようという姿勢を見せていく必要がある。これは妙法院の件に限った話ではない。今後足利が延暦寺とどのように向き合っていくかという、そういう大きな話だ」
しかし、そこまでしなければならないものだろうか――という疑問もある。
問題を起こしたのは佐々木一族である。それなのに、なぜ足利が延暦寺へそこまで低姿勢で臨まねばならないのか。
ふと、弥四郎
屈託のない性格で、将来有望な弟だった。その未来を奪ったのは、延暦寺の連中である。
「不服か、重茂」
感情が表に出ていたのだろう。
聖恵の穏やかな問いかけに、重茂はハッと我に返った。
「いえ、不服というわけでは」
「良い。そなたらの事情は吾も聞いている。いろいろと人の話は入ってくるのでな」
だが、それでも呑み込め。
聖恵は静かにそう告げた。
「此度の件は、不幸が重なった部分があったにせよ、延暦寺側が被害者になる。足利は旗下の者が加害者になってしまった立場だ。今後も佐々木一族の上に立つのであれば、責任は負わねばなるまいよ。それが嫌なら、佐々木一族を切り捨てるしかない」
「それは、無理でございます」
現実的な問題として、京のすぐ側にある近江の一大勢力・佐々木一族は排除しがたい影響力を持つ。
「聖恵上人の仰られていることは、すべて理解できます。ただ、延暦寺はそこまでしなければならない相手なのだろうかと、そういう疑問が頭の片隅にあるのです」
「往時に比べれば、確かに延暦寺の影響力に陰りが生じている。そこまでの相手かと、疑問に思うのも分からなくはない」
日ノ本が京を中心に回っていた時代と比べると、延暦寺の力は弱まった。
それには、様々な要因がある。
「同じ
内部での争いがあるのは、かつて視察に向かった
しかし、
延暦寺にしても興福寺にしても、普段内部争いが激しいのに必要であれば一致団結する。改めて考えると、不思議な話だった。
そのことを告げると、聖恵は「それはそうだろう」と頷いてみせた。
「普段はどうあれ、外敵が現れれば彼らは一つにまとまる。その結束力は、かつて
かつて鎌倉幕府は後鳥羽上皇との戦いに踏み切ることになった。いわゆる
しかし、そのときですら上皇側に与する者や日和見気味だった者がいた。
「延暦寺の団結力には、いろいろな理由がある。
「居場所でございますか」
ふと、かつて大和で
あのとき、あの怪僧はこう語っていた。
来たくて延暦寺や興福寺に来た者ばかりではない。
俗世に居場所を失って、やむなく放り込まれた者も少ないないのだ――と。
「無論、皆が皆そのように思い詰めているわけではない。だが、家の事情で幼い頃にやむなく延暦寺に入れられた者は多い。だから彼らは外敵に対して敏感だ。延暦寺は、そういう者たちにとって最後の砦なのだからな」
武士は自らの所領のため、一所懸命に戦いに臨む。
延暦寺の僧にとっては、延暦寺自体がその一所なのだ。
「延暦寺を脅かす敵を前にしたとき、普段どれだけいがみ合っていようと他の僧は皆『同じ延暦寺の仲間』となる。だから一致団結できるのだ。他に選択肢がないからこそ、彼らは一つにまとまることができる」
「他にないからこそ、でございますか」
「そうだ。そしてそれは、彼らのような存在を延暦寺が――神仏が救っているということにもなる」
俗世に居場所を失った者たちの受け入れ先。
それは、仏教界のすべてを表した言葉ではない。ただ、その一面を表したものではある。
「俗世に居場所がなく、受け入れてくれる場所がなければ、彼らの辿る道筋は悲惨なものになっていたであろう。それを拾い上げて、意味のある生き方を与えているのが神仏なのだ。延暦寺や興福寺はその象徴とも言える」
今そなたらが相対しているのは、そういう存在なのだ――と聖恵は語った。
もしそれを「既得権益に執着する古い勢力」と否定するのであれば、延暦寺や興福寺によって救われている者を代わりに救い上げるか、すべて切り捨てるしかない。それが嫌なら、大寺社の在り様を認め、尊重すべき相手として向き合っていくしかないのだ。
そこまで言われてしまうと、重茂はもはや抗弁できなかった。
師久の件に関する遺恨はあるが、延暦寺側の立場というものも理解できる。
恨みを秘めつつ、今後も付き合っていくしかないのだろう。
「聖恵上人の仰ること、すべて承知いたしました」
「これは重要な事柄ゆえ、殿や
重茂の言葉に続いて、師直がすかさず補足を入れた。
確かにこれは、この場で決められる話ではない。
聖恵は「それで良い」と頷き、最後の条件について告げた。
「三つ目だが、これがある意味一番難しい条件かもしれぬ」
「どういったものでございましょう」
師直の問いかけに、聖恵は短く答えた。
「期日だ」
「期日――」
「そう。道誉父子の流罪をいつまでに行うかという期日だ」
聖恵は念を押すように付け加える。
「それを伝えなければ、交渉は一切進まぬと断言しても良い」
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