第153話「都を駆ける神仏(拾参)」

 塩冶えんや高貞たかさだ吉野よしの方に通じているかもしれない――。

 上杉うえすぎ重能しげよしからその話を聞いて以降、重茂しげもちはずっと難しい顔をしていた。


「義父上。先ほどからいつもにまして仏頂面になっていますが、どうかされたのですか」


 重教しげのりは呑気なものだった。先ほどの話はどうやら彼らに聞こえていなかったらしい。


 わっと人々の跳ね上がるような声が聞こえてくる。

 見ると、通りの先で猿楽さるがくの一座が公演を行っているようだった。


 近頃は寺社の出入りが激しいからか、寺社と結びつきの強い芸能一座もよく見かける。

 娯楽の少ない時代にあって、一座の公演は人々の気分を盛り上げるという重要な役割を果たしていた。


 重茂は猿楽についてさほど詳しくない。

 ただ、武芸とは異なる技術を見るというのは好きだった。純粋に、いろいろな驚きがある。


 もっとも、今は猿楽を見ても他の人々のようには気分が上がらない。


 塩冶高貞の件は、二つ難しいところがある。


 一つは、高貞が吉野方に通じているという証拠が何もないということだった。

 妙法院で開かれた歌会では、特に密議はなかったという。

 そのため、歌会に参加していたというだけで吉野方と通じていると決めつけることはできない。

 歌会に参加していたことを重茂に隠していたことが不審と言えば不審だが、妙に勘繰られるのが嫌で黙っていたと言われれば、それ以上の追及は難しくなってしまうだろう。


 もう一つの難しい点は、高貞と道誉どうよの関係性である。

 高貞は道誉の人となりをある程度把握していた。それくらいの付き合いはある、ということになる。

 そんな高貞を介して、道誉が吉野方と通じている可能性はないだろうか――。


 道誉という男は、重茂と違って単純ではない。

 妙法院焼き討ちについて、未だに解明されていない裏の理由があるのではないか。

 根拠のない疑念が、重茂の中から離れずにいた。


「顔色が悪いようだな、大和やまと権守ごんのかみ


 不意に声をかけられた。

 いつの間にかすぐ側まで近づかれていたらしい。

 重茂が視線を向けると、そこには法体となった堀川ほそかわ具親ともちかの姿があった。


 邦省くにみ親王の側近にして、数多いる源氏の中でもっとも官位の高い者――源氏長者だった男である。

 もっとも、それは前の話である。今の堀川具親は出家して官位を返上しているため、既に源氏長者ではない。


「これは堀川殿」


 腰を低くしようとした重茂を、具親はやんわりと制止した。


「気楽にして良い。今の私は何者でもない。出家した以上、ただの私人だ」


 供をしている者も二人しかいない。

 以前会ったときと比べると、なんとも寂しくなった。良く言えば、身軽になったとも言える。


「堀川殿は、どこかへ向かわれるのですか?」

「邦省殿下の屋敷へ行く途中だった。近頃はあまり顔を見せることができなかったのでな」


 猿楽の一座が動くたびに、観衆から声が上がる。

 その光景を、具親はどこか懐かしそうに見ていた。


「大和権守は、猿楽はあまり好きではないのか」

「いえ、嫌いではありません。ただ、考えなければならぬことがありまして。それで頭を痛めていました」

「吉野方の動向についてか」


 勘の鋭い人だった。

 邦省親王としばらく会っていないと言っていたが、書簡か何かで状況は把握しているのかもしれない。


「大和権守は物覚えが非常に良いと聞いているが、一度会った人間の顔は忘れぬものか」

「はい。多少姿形が変わっても、少し見れば分かります」

近衛このえ経忠つねただ卿の顔を見たことはあるか」

「いえ、ありません」

「そうか。惜しいな」


 近衛経忠。先日の歌会に参加していたという、吉野方の重鎮である。

 五摂家の一角である近衛家の人で、後醍醐ごだいご光厳こうごん両政権で重用された。

 後醍醐が吉野に逃亡した後も光厳からは厚く用いられたが、後醍醐への旧恩を忘れられなかったのか、吉野に参じたという。


「経忠卿は行動力と智謀を兼ね備えた人だ。おそらく、かなり上手く立ち回る。それなりに動き回っていることから、もしかすると院にある程度話を取り付けているのかもしれない」

「院の内諾を得ているとなれば、我々には対処ができません。院の命もないのに五摂家の方に手を出すというのは、よほどの理由でもなければ不可能です」


 公家は幕府の配下ではない。加えて、五摂家は尊氏よりも朝廷において立場が上である。

 足利あしかがにとって不都合な動きをしていたとしても、容易に手出しはできない。


「ならば、外堀を埋めるしかないであろうな。経忠卿の動向を常に追うようにして、疑わしき者がいれば徹底して目を光らせる。それを丹念に続けていくことだ」

「疑うべきかどうか悩ましいときは、いかにすべきでしょう」


 重茂の中にある迷いを察したのか、具親は少し考えてから答えた。


「悩ましいということは、そなたの中に疑いたくないという思いもあるのだろう。ならば、納得できるまで調べてみるしかない。ここまで調べて結論を出したのだ、もしそれが間違いだったとしても仕方がない――そう思えるまで、調べ尽くすのだ」


 やってみることが肝要だ。そう具親は念を押した。


「疑わず妄信する者は進歩しない者である。疑いに囚われて結論が出せない者もその点では同様である。疑った上で結論を出した者だけが進歩できる。仮に出した結論が間違いだったとして、何が間違いだったのか検討することができるからな。まずは動き、そして決めることだ、大和権守」


 具親の言う通りだった。

 こんなところでうだうだと頭を抱えていたところで、どうにもならない。


「ありがとうございます。おかげでやるべきことを思い出せました」

「うむ。殿下のためにも、そなたら足利には頑張ってもらわねばならぬ。しっかりと頼むぞ」


 具親の行動原理は、邦省親王にあるらしい。

 考えてみれば、弱小勢力と言って良い邦省親王にずっと仕え続けているのだ。並々ならぬ思い入れがあるのだろう。


「堀川殿のような方が側におられるのは、邦省殿下にとっても心強いでしょうな」

「どうかな。私などはただの遠戚だ。後見の洞院とういん家含め、吉野院の世が続くにつれて皆邦省殿下から離れていった」

「しかし、堀川殿がおられるではないですか」


 具親はどこか寂しそうな表情を浮かべて、軽く天を見上げた。


「殿下は父君のことをあまり覚えておられない。幼少の頃から頼りにされていた兄君も亡くなり、周囲からは人の気配が嘘のようになくなっていった。普段あのように快活ゆえそうは見えないが、殿下は孤独な御方なのだ。誰か一人くらい、御側にいてさしあげるべきであろう」


 具親のその言葉は、利害関係で結びついた主従からは出てこないものだった。


 邦省親王は孤独だと具親は言ったが、そんなことはないのだろうと重茂は思う。

 もっとも、思うだけで口にはしない。それをして良いのは邦省親王だけである。


「すまぬな、立ち話が長くなった。私はそろそろ行くことにする」

「はい、ありがとうございました。殿下にもよろしくお伝えいただければと存じます」


 鷹揚に頷いてから、具親はふと重教に視線を止めた。


「そなたは、大和権守の子か」

「はい」

「そうか。……存分に孝行せよ」


 それだけ言い残して、具親たちは去っていった。

 後ろ姿がいつになく寂しい。供回りの数が減ったから、というわけではないだろう。


「なんだか、優しそうな御方でしたね。源氏長者と聞いて、もっと恐ろしい人だと想像していました」

「前に会ったときはもっと恐ろしかった。今は……そうだな、いろいろあって丸くなられたようだ」


 堀川具親は、今年になってから息子を亡くしている。

 亡くしたその日、官位も源氏長者の地位も捨ててすぐさま出家したという。

 そうするだけの情があったのだろう。邦省親王の元から離れないのも、そういう情によるものなのかもしれない。


「いろいろですか?」

「ああ。いろいろだ」


 重茂はそれ以上説明しなかった。

 猿楽一座の方に少しだけ視線を向けたが、それ以上留まることはせず、その場を離れ始める。

 やらなければならないことは、いくらでもあった。




 その場を離れる重茂たちを、小屋の中から男女二人組が注意深く見ていた。

 やがて姿が見えなくなると、かすかに安堵の息がこぼれ落ちる。


遠子とおこ殿。今のが高大和権守か」


 男に問われて、遠子は「はい」と頷いた。

 大和猿楽の一座・結崎ゆうざき座の当代・山田太夫の妻女である。

 かつて大和で重茂と邂逅してから数年経つが、その美しさには衰えが見えない。


 かつて楠木くすのき正成まさしげと兄妹同然に育った彼女は、その縁もあって、今回吉野方の協力者として動いている。


「あの御方は大層な強記だそうです。極力、姿は見られないようにしておいた方がよろしいでしょう」

北畠きたばたけや洞院なども物覚えは凄まじいものがあったが……武家にもそういう者がいるのだな」

「武功には縁がないようですが、各地で重要な御役目を任されているそうです。足利では重宝されているようですね」


 遠子の説明を聞いて、男は嫌そうな顔をした。


「武辺者など私の活動において何の支障にもならぬ。だが、大和権守のような者は厄介だな」

「今後は武士への調略も行われるとお聞きしております。大和権守様は近頃市中をあちこち駆け回っているようですので、接触しないよう細心の注意を払われるのがよろしいかと」


 あい分かった、と男は素直に頷いた。遠子に一定の信頼を置いている。

 彼は京での工作において、何度か彼女の助言に救われていた。


「幸い宮廷工作は今のところ順調だ。私の行動を咎める者がいるとすれば、事情を知らぬ者か、こちらに残っている近衛家か、足利一派くらいであろう。注意すべき相手がある程度分かっているというのは、悪い条件ではない」

「今のところは順調というわけですね」

「順調に見えてはいる。見えているだけだ。最後の最後、結果が出てくるまで本当のところは分からぬ」


 油断というものをしない男だった。

 これくらいでないと、宮廷社会のトップ層にい続けることはできないのかもしれない。


「まだ仕込みに時間がかかる。ただ、この経忠を信じてもう少しお待ちいただきたい。あちらに戻ったときは、そう帝にお伝えしてくれ」


 そう言って男――近衛経忠は、静かに微笑んでみせた。

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