第152話「都を駆ける神仏(拾弐)」
幕府が下したその裁定は、すぐさま京の市中に広まった。
真っ先に反応を示したのは、
「かつて佐々木の一族が延暦寺の人間を殺害したときは斬首となった。此度も延暦寺の人間が犠牲になっているのに、死罪になっていない。これは道理に合わぬことである」
彼らは幕府の決定に納得せず、怒りを爆発させた。
元々準備していたこともあって、延暦寺の衆徒はただちに強訴を決行したのである。
それだけでも一大事だったが、この年の京は更なる問題に襲われた。
強訴を実行したのが、延暦寺以外にもいたのである。
ほぼ同時期――暦応三年の秋には、なんと
いずれも顕密仏教におけるトップクラスに位置する大寺社だった。
三つもの大寺社がほぼ同時期に強訴に及ぶなどということは、そうそうあることではない。
この異常事態に京の市中は大いにざわついた。どこか祭りじみた様相を呈してきたとさえ言える。
「こうして中で話をしていても、外の騒ぎ声が聞こえてくる。物珍しいのは確かだが」
苛立たしげに吐き捨てたのは、
対面で腰を下ろしていた
庭先では
どうも一方的に重教がやられているように見える。
重教は頭の回転こそ速いが、腕っぷしは今一つだった。
「今の我々にとって大事なのは、市井の熱気ではない。それは分かるな、重茂殿」
「分かっているからこそ来たのだ。院や近臣の意向を確認したい」
妙法院の一件に関する幕府の方針は、
焼き討ちされた妙法院の住持は、延暦寺と同様幕府の決定に大きな不満を抱いているという。
その住持は、光厳院の実弟なのである。院とて思うところはある――そう考えている人は多かった。
「重茂殿は、兄弟仲は良い方か?」
重能は不意にそんなことを尋ねてきた。
改めて自分の兄弟たちのことを思う。昔から一緒だった
「普通だろうか。他と比べて格別に良好というわけではないが、さして悪いわけでもない」
「
院の近臣には、住持の叔父にあたる
彼も最初のうちは住持の訴えを少しばかり後押ししたらしいが、幕府の決定を聞いてからはだんまりを決め込んだという。
妙法院の住持は、光厳院およびその側近から距離を置かれた、ということになる。
「では、妙法院の一件については問題なしということだろうか」
重茂の楽観的な問いかけに、重能は頭を振った。
「実弟からの訴えは院に響かない。だが、延暦寺を含む顕密寺院からの強訴については思うところがあるそうだ。院は宮中の立て直しに並々ならぬ熱意を持っておられる。度重なる強訴については、かなり苦々しく思っているらしい」
強訴が発生すると宮廷行事が停滞する。光厳院としては、身動きが取れなくなるのだ。
政についてやる気のない人であれば問題なかったのだろうが、光厳院は
それだけに、強訴を起こした寺社やそれを引き起こした武家の振る舞いには不満を抱いているらしい。
「院は、佐々木父子の配流を早々に決行して延暦寺を宥めることを強く望まれている。無論、他の寺社の要望も出来る限り聞き入れて欲しいとのお考えだ」
「興福寺の訴えについては、
すぐには難しい。
京近辺で不穏な動きがある。それを潰してから決行するようにしたい。
その辺の事情は、直義から院に伝えてあるはずだった。
「難しいのは分かっている。だが、院にとって延暦寺の強訴は潜在的な問題ではなく既に発生している問題なのだ。足利にとっては対岸の火事だが、院は当事者だ。一刻も早く、既に起きている問題をどうにかしたいとお考えになるのは道理であろう」
「それはそうだ。こちらもそれは理解している。ただ、寺社を鎮めても
ゆえに、と重茂は切り出した。
「そちらで掴んでいる吉野方の動向を共有して欲しい。向こうの動きを押さえることができれば、佐々木父子の流刑を早めに執行することが可能になる。延暦寺も強訴を終えることだろう」
重茂の要求に、重能は眼を鋭く光らせた。
「今の上杉の惣領は
「既に聞いたが、朝定殿は何も知らないようだった。そもそも、今回おぬしが妙法院の調査を命じられていること自体把握していないようだった。彼は、何も知らない」
あの反応は嘘偽りのないものだった。
あれが演技だとしたら、朝定は天性の役者ということになるであろう。
「逆に言えば、おぬしは四条殿から朝定殿も知らぬような内密の命を受けてあの場にいたことになる。焼き討ちの件以外にも調査していたことがあった――そう考えるのが妥当であろう」
重茂の推測に、重能は深いため息で応えた。
「
吉野方に近しい顔触れが揃ったという歌会。
邦省親王は、それが光厳院も承知の上で開かれたものだと推理していた。
それが本当なら、光厳院は幕府が知らない吉野方の動きを掴んでいる可能性がある。
少なくとも、なにかしらの接点はあるはずなのだ。そこから何かヒントを掴んでおきたい。
じっと真っ直ぐ見据える重茂に、重能は重い口を開いた。
「……邦省親王は何人かの公家や僧の名を挙げたそうだが、歌会には他にも武士・遁世者が参加していた。親王が名を挙げなかったのは、その者たちのことをいちいち覚えていなかったからだろう」
それは、決して珍しいことではなかった。
親王からすれば気に留めるほどの存在ではなかったのかもしれないが、重茂にとっては重要な手掛かりになり得た。
「おぬしは、参加していた者の名を突き止めたのか」
「いや、すべてを調べられたかどうかは分からぬ。ただ、聞き込みを行った僧兵の一人がこう言っていた」
まさかとは思うが、あの男がこの歌会のことを道誉に密告したのではないか――。
「あの男……」
「そうだ。名前を聞いて私は得心した。確かにその男が歌会に参加しているとき佐々木
「誰だ。誰のことを言っている」
重茂に問われた重能は、冷めた表情で淡々と名を述べる。
「――
幕府における出雲守護を担う重要人物。
それが、吉野方だらけの歌会に参加している。
「確か……道誉とはそれなりに付き合いがあったはずだったな?」
重能の問いかけに、重茂は思わずつばを飲み込んだ。
今日は、いつもと少し様子が違っていた。
あの客人は、既に何度もこの家に来たことがある。
秀綱はそこまで親しいわけではないが、年が近いこともあって道誉とはどこか気が合うようだった。
延暦寺を巡る方針など考え方が異なる部分もあるようだったが、両者はどこかで互いの立場や考えを尊重し合っている。
だからか、話が弾んで部屋の外にまで笑い声が聞こえてくることもあった。
今日は何か違う。二人は大分長い時間話し込んでいたが、この家はいつも以上の静けさの中にある。
妙な緊張感が漂っている――そんな気配があった。
客人を見送った後、秀綱はつい道誉に尋ねた。
「親父殿。随分長い間話し込んでいたようだが、塩冶殿はどういう用向きだったのだ?」
道誉は何も応えない。
わずかに秀綱を睨むと、そのまま自室に引きこもってしまった。
外では僧兵が高らかに何かを叫んでいる。
ここ最近、道誉の家の周りは延暦寺の僧兵がうろつくようになった。
たまに罵詈雑言が聞こえてくる。いつもはうるさく感じる彼らの声だったが――今は不思議と気にならない。
「……何か、嫌な予感がするな」
道誉と塩冶高貞が何を話していたかは分からない。
ただ、これをこのまま放置しておけばまずいことになる。
そんな漠然とした予感が、秀綱の中で生まれつつあった。
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