第121話「暦応寺建立狂想曲(伍)」

 師直もろなおの邸宅前に立てられた落書は、実際のところかなりの長文だった。

 格調の高さすら感じられる怨嗟の言葉が、見る者を唸らせる美しい字体で綴られている。

 犯行者の教養の高さが窺い知れるというものだった。


「これは、誰の仕業だと思う」


 重茂しげもちを呼び出した師直は、半ば感心した様子でその落書を眺めていた。


「おそらく、顕密の者どもの手によるものかと」


 正直なところ、先日邦省くにみ親王から話を聞いていなかったら、親王一派の手によるものという線も考えていただろう。

 もしかすると邦省親王は、こういう展開になることを見越してあのタイミングで重茂を呼び出したのかもしれない。

 そう考えると、京の政局に関わる人々の嗅覚というものが恐ろしく思えてくる。


「もう少し絞り込めるか」

醍醐寺だいごじ東寺とうじは比較的我らと協調する姿勢を見せています。暦応寺りゃくおうじ造営は院も関与している事柄ゆえ、院と近しい諸寺も外して良いかと。いざとなれば、院に対してすら強硬な姿勢を取れる寺社――と考えれば、候補は絞られてきましょう」

延暦寺えんりゃくじ興福寺こうふくじ金剛峰寺こんごうぶじか。あるいは石清水いわしみずの手の者か」


 かすかに憂うような表情を浮かべて、師直はため息をついた。


 先年、北畠きたばたけ顕家あきいえの一軍が健在だった折、その一部は石清水八幡はちまん宮寺に立てこもって京を窺う構えを見せた。

 石清水八幡宮寺は京周辺の要所の一つで、ここを占拠されることは喉元に刃を突き付けられているに等しい。

 それを放置しておくことはできない。足利あしかが勢はどうにか敵を誘い出せないか苦慮したが失敗に終わり、最終的に立てこもる敵を攻めた。結果、北畠勢を追い散らすことには成功したが、石清水八幡宮寺は多大な被害を受けることになったという。


 そのときの攻撃を指揮したのが、他ならぬ師直だった。

 やむを得ぬことではあるが、聖域ともいえる石清水八幡宮を焼亡させたことで、師直に悪印象を持った者も多い。

 特に石清水八幡宮寺の関係者や、似たような立場の旧来仏教――顕密の者たちの心証は悪化したことだろう。


「しかし、五郎の兄上の家にこんなものをかけるとは」

「さすがに院や殿を非難するのは憚られたのだろう。それで殴りやすい俺が標的にされたというわけだ」


 石清水八幡宮寺の一件もそうである。

 あそこが戦場になったのは立てこもった北畠方に原因があるし、攻撃を命じたのは尊氏たかうじ直義ただよしである。

 しかし、実際に批判の的になっているのは師直だった。足利の家人という立場は、やはり弱いところがある。


「どうしますか、兄上」

「黙殺するのも一つの手だと思うが、俺だけでなく夢窓むそう国師に対する批判も強く押し出されているのが気になるところだな」

「夢窓国師は顕密の一派からすると、新興勢力である禅律の代表格のような者。それだけ危険視されているということでしょう」


 顕密の手の者からすると、暦応寺造営計画の本丸は夢窓疎石そせきに他ならないのだろう。

 夢窓疎石さえ排除できればこの計画は頓挫すると考えているのかもしれない。


「このまま計画を推し進めて夢窓国師に何かあっては困る。一度、殿や国師も交えて相談した方が良さそうだな」

「次郎(重成しげなり)が暇を持て余しているようですし、あいつを国師の護衛につけるのも良いかもしれません」

「ああ、国師と親しいんだったか。ならばお前の方から話を通しておけ」


 師直は落書を邸宅に運び込むよう郎党に命じると、どこか力のない様子で重茂に背を向けて宅内へと戻っていった。


「さすがの兄上も気落ちしているか」

「気落ちしているんですか、あれで?」


 一緒に来ていた重教しげのりが、意外そうに師直の背中を追った。どうも、傍から見るとその辺りの機微が分かり難いらしい。


「所詮坊主どもの悪ふざけ――と気に留めてなさそうですけど」

「普段ならそうだが、今は叡山や石清水を攻めたこと、権勢を増したことなどがあって世間の風当たりが強くなっているからな」


 抱えるストレスが増えれば、普段は気にならないようなことも心の重荷になっていくものだ。


「それに、坊主の所業云々はともかく、石清水を焼亡させてしまったことは事実だからな。あの一件はかなり気にしているようだ」

「まあ、それはそうかもしれませんね」


 重茂から見て、師直は特別敬虔な神仏の徒ではないが、さりとて軽視するような思想の持主でもなかった。

 必要に応じて神仏に縁あるものと対立することもあるが、そのことに後ろめたさを覚える――そこら中にいる普通の武士と同じような感覚の持ち主に見える。


「繊細なところもあるのですな、武蔵守むさしのかみ殿は」


 そんな感想をもらしたのは、先日邦省親王のところへの案内人を務めた兼好けんこう法師だった。

 遁世者ではあるが、世間から離れて暮らしているというわけではなく、むしろ各所に出入りしている顔の広い人物である。

 和歌を通じて公家との付き合いも多く、今日もとある筋からの依頼で師直邸に来たのだという。


「意外に映るか」

「さて。私は武蔵守殿とまだ数えるくらいしか会ったことがないですからな。意外も何もない、とお答えするしかありませぬ」


 巷説で人を判断しないタイプということだろうか。

 兼好は物事の捉え方がやや独特で、他の人間にはないバランス感覚というものを持っているような印象を受ける。


 一方、重教は「意外ですよそんなの」などと口にしている。

 彼からすると、師直はあくまで恐ろしい惣領なのだろう。


 近頃は師直のことを天下の執事などと呼ぶ人もいる。

 足利が天下のことを差配するのであれば、取り仕切るのはその執事であるこう武蔵守師直である――ということらしい。

 だからこそ、摂家である二条家が関わりを持とうとしてきたのだろう。屋敷を出入りする者も増えた。兼好がその一例である。


 他にも師直の立場の変化を示す兆候はあちこちに出始めていた。

 その変化に、重茂はどこか危うさを感じ取っている。


「この変わり様が、悪しき方へと向かわねば良いが」




 夢窓疎石は、重茂が思っていた以上に落書の一件を重く受け止めていた。


 師直からの報告を受けた直義の招きに応じて、尊氏や夢窓疎石が集まったのが先刻のことである。

 尊氏や直義はことの重要性をはかりかねているようだったが、夢窓疎石は明らかに表情を曇らせている。


「落書という形ではありませんが、近頃私の身の回りでも不審なことが多々起きるようになっています」

「暦応寺造営を強行すれば災いが降りかかる――その災いが、既に起きていると?」


 直義の問いかけに、夢窓疎石は頭を振った。


「少なくとも、私の身の回りで起きていることは人の仕業です。弟子が無頼漢の類に絡まれて怪我をしたり、私が出入りしている寺に汚物の類が放り込まれたり。明らかに嫌がらせの類でしょうな」

「造営反対派の仕業ということでしょうか」

「証拠はありませぬ。ただ、この落書の件も踏まえると、このまま強行すれば私だけでなく周囲にも被害が広がりかねません。現に武蔵守殿が被害に遭われている」

「国師殿。人の仕業であるなら、我らはいかようにも対応するつもりですが」


 相手が坊主と分かっているなら、恐れることはない。

 坊主はあくまで坊主。神仏ではないのだ。同じ人間である以上、力のある方が勝つ。


 しかし、夢窓疎石は「相手が人のままなら良いですが」と険しい表情を浮かべている。


「相手が権威ある寺社の者だと仮定しましょう。彼らはいざというとき、強訴ごうそに及んでくる可能性があります」

「強訴――」


 それは、寺社勢力が採り得る最強の切り札ともいえる行為である。


 彼らは自分たちの要求を呑ませるため、武装して集団で相手方に乗り込む。

 問題なのは、彼らの武装の中には神輿や神木といった神仏を象徴するものが含まれている――ということだった。


 人間だけが相手なら、武士が武力をもって制圧すれば良い。

 しかし、神仏と共に攻め込んでくるとなると、迂闊に手出しすることはできない。

 武装した坊主――僧兵の類ならばなんということはないが、神仏に傷を負わせるようなことがあれば、恐ろしい災いが降りかかるかもしれない。

 無論、何も起きない可能性もある。しかし神仏を相手に「何も起きないはずだ」などと断言することはできない。神仏の相手をするには、並々ならぬ覚悟が必要なのである。


 自分たちの武力と知略で事を決する武士にはない切り札。それが、寺社勢力の強訴である。


「万一強訴が実行されれば、交渉で解決するか神仏の敵となる覚悟で追い払うかしかなくなります」

「交渉で解決できるものなのでしょうか」

「難しいでしょうな。そもそも真っ当な交渉で収まる話であれば、強訴になど及ばないでしょう」


 夢窓疎石の正論に、その場にいた全員が押し黙った。

 交渉で解決不能になったら神仏を持ち出して要求を押し通そうとする。

 半ば無敵の集団である。今や弱体化しつつある吉野方などより、遥かに厄介な相手かもしれない。


「強訴後の交渉というのは、相手の要求を少なからず呑むことを意味すると言って良いでしょう。どういう要求が来るかは分かりませんが、近頃の様子を見るに、かなり強硬な内容になると思われます」

「何か良い対応策というのは、ないのでしょうか」


 やや表情を青ざめさせた尊氏が問いかけるものの、夢窓疎石は難しい表情を浮かべて沈黙するばかりだった。


「……一つだけ案があります」

「おお」


 長い沈黙の果てに夢窓疎石から出た答えに、尊氏は破願した。


「それはどのような案なのでしょうか。我らにできることであれば、なんでもいたしましょう」


 夢窓疎石は尊氏に対し、かすかな笑みをもって応じた。

 その表情からは、どこか覚悟のようなものが感じられる。


「強訴は強力無比な手段ですが、神仏を持ち出す以上、軽々に行われるものでもありません。相当な不満が溜まり、その激情が抑えられなくなったときのみ行われるものです。そのため、彼らの不満を過度に溜めさせなければ良いのです」


 そんな方法があるのだろうか。

 そう疑問に思う一同を前に、夢窓疎石は落ち着き払った声で告げた。


「よって――暦応寺の造営は白紙にいたしましょう」

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