第64話「利根川の戦い(弐)」

 北畠きたばたけ軍が動いたという知らせは、鎌倉から坂東各地に伝えられた。

 武士だけではない。各地の寺社や座の代表者たちに向けて、戦が始まるということを正式に通達したのである。


「奥州の軍勢が、来る――」


 その話を聞きつけて、薙刀を握る力を強めた者がいた。

 東勝寺とうしょうじの小僧・新熊野いまくまの――足利あしかが尊氏たかうじの庶子である。


あおい殿。その戦、俺も参加させてはもらえませんか」


 重茂しげもちと共に東勝寺へやって来た葵に、新熊野は頭を下げて頼み込んだ。

 寺社とて戦は行う。僧兵として武士と協力して敵を迎え撃つのは、決して珍しい話ではない。

 しかし、葵は頭を振った。


「なりません。貴方は東勝寺の者。一人で勝手に武士に混じって戦をするものではありませんよ」


 普段はくだけた接し方をする葵が、大人として新熊野を制止する。

 普段との態度の違いに葵の意向を察した新熊野だったが、それでもと膝を進めた。


「このまま奥州の奴らが来たら、東勝寺は再び戦火に巻き込まれるかもしれません。奥州勢を相手に戦うことは、東勝寺のためにもなると思います」

「女子相手に一本も取れぬというのに、自惚れたことを言うものではありません。戦場には、私より強い武士などいくらでもいますよ」


 新熊野は押し黙った。

 時折葵に稽古をつけてもらうようになってから腕は上がったと感じている。

 しかし、まだ葵から一本取ることはできていない。


「焦っても良いことはありません。貴方は貴方にできることをやりなさい。そうやって皆、少しずつ成長していくのです」

「そうだな。葵殿の言う通りだ」


 横から口を挟んだのは妙吉みょうきつだった。

 新熊野をいたずらに焚きつけている疑いはあるが、この戦に新熊野を出すことについては反対らしい。


「前の征夷大将軍となられた大塔宮おおとうのみやも、そのときが来るまでは研鑽に努め、吉野よしのの帝の窮地において、頼れる仲間と共にようやく起ち上がられた。焦りは禁物ぞ、新熊野殿」

「……宮が俺の立場なら、思い留まったであろうか」

「戦に出たいとは思ったかもしれぬな。だが、周囲に説得されれば聞き入れたであろう」


 新熊野は少し思案して、身を引いた。戦に参陣したいという欲を、どうにか抑えられたのだろう。

 妙吉の言葉で心を動かされたというのが引っかかったが、葵は何も言わなかった。そのことにケチをつけても、おそらく意味はないだろう。


「葵殿。奥に行った重茂殿の用件というのもその話かな」


 妙吉が重茂の名を出すと、新熊野はかすかに顔をしかめた。

 重茂と新熊野はこれまでまともに言葉を交わしたことがない。

 自分の出自を知らない新熊野にとって、重茂は「憧れの大塔宮を殺害した足利の一味」という認識でしかないのかもしれない。

 ただ、これは感情の問題である。葵が理屈を並べ立てて解決することではなかった。


「……ええ。それと、住職に要請を伝えに」

「要請とな?」


 妙吉は重茂の動向が気になるようだった。

 隠すようなことでもないので、葵は鎌倉から伝えられた内容をそのまま告げる。


「敵が武蔵むさしまで迫った場合、近隣の寺社の者たちは鶴岡つるがおか八幡はちまん宮寺に集結。戦勝祈願と、同地の守備をされたし、とのことです」




 小山おやま城を攻める北畠軍の陣に、一際物々しい武士団が合流した。

 下野しもつけ国において、小山氏と並び称される大氏族――宇都宮うつのみや氏である。


「お久しぶりでございます。宇都宮公綱、ここに参上いたしました」


 若き北畠顕家あきいえの前に現れた歴戦の武将・宇都宮公綱きんつなは、恭しく頭を下げた。

 かつて後醍醐ごだいご帝が鎌倉幕府と戦った際、幕府軍の一員としてあの楠木くすのき正成まさしげと勝負を繰り広げた名将である。

 その後、後醍醐方に降伏してからは厚遇され、現在も南朝を支える有力な武士の一人として頼られていた。


「参陣、感謝します。宇都宮殿は坂東一の弓取りと称された御家柄。此度の上洛戦では頼みにさせていただきます」


 顕家は公綱を手厚く出迎えた。現状、吉野の後醍醐方は足利方に押され気味である。

 味方――特に高名な武士は少しでも多く味方につけておきたい。


「久しいな、宇都宮殿」

「おう、これは結城ゆうきの翁ではないか。健勝なようでなによりだ」


 顕家の側に控える結城道忠どうちゅうが声をかけると、公綱は深い笑みを称えた。

 所領もそこまで遠くなく、元は鎌倉幕府の御家人、その後建武の新政で後醍醐に仕えた者同士である。両者の付き合いはそれなりに長く深いものだった。

 もっとも、仲が良いとも言い切れない。


「生憎と、まだまだ活力が衰えぬよ。そなたの方は大丈夫か」

「心配無用だ。俺は吉野の帝につくと決めている。もはや揺らぐようなことなどない」


 道忠が言外に問いかけたのは、一度公綱が足利方に寝返ったがもうそのようなことはないか、という点である。危機的状況に陥ったためやむなく行った寝返りだったが、寝返りであることに変わりはない。

 公綱としてもそれを突かれるのは痛いところだった。だからこそ、今後は後醍醐に対して忠誠を尽くさねばならないと思っている。


「そうか。しかし奇妙なものだな。思ったより軍勢が少ないように思われるが」

「兵粮にお困りだと聞いたのでな。我が所領で今集めさせているところよ。じきに第二陣がそれを持って合流する手筈だ」

「お心遣い痛み入る」


 顕家たちの兵粮事情が苦しいのは事実だった。

 トップである義良のりよし親王ですら、進軍を始めてからは必要最低限の粗食しか口にしていない。

 小山城の攻略に時間がかかっているのは、下野国の各所に兵を派遣し、兵粮の現地調達をさせているせいでもある。城攻めに集中できないのだ。


「宇都宮殿が率いる紀清きせい両党りょうとうは坂東一の精兵。彼らと兵粮が我が軍に加われば、遠からず小山城は落とせるであろう」


 未だに頑強な抵抗を続ける小山城を眺めながら、顕家が拳を握り締める。

 そんな若者に向けられる公綱の視線には、なぜか少しばかり不安の色が表れていた。




「本当に良いのだろうか――」


 まだ幼さを顔に残した少年は、目の前にいる老人にそう問いかけた。

 不安に押しつぶされそうな若き武士を前に、その男は力強く頷き返す。


「責任はすべて我ら紀清両党が取ります。万一しくじったとしても、殿が加賀寿かがじゅまる丸様を成敗されることはないでしょう」

「しかし、そなたの首は飛びかねない」

「仕方ありませぬ。それくらいのことを、我らはしようとしているのですからな」


 そう言いつつ、男は胸中で「もしそうなれば逃げるだけだが」と考えている。

 死ぬ気で動かねばならないが、死ぬつもりは微塵もない。


 主は激怒するだろうが、言い訳はいくつか考えてある。

 どうにか説き伏せてみせよう。それで駄目なら逐電するだけである。


「ただ、加賀寿丸様の本意でないなら我らもやめます。その点はいかがでしょうか」

「……足利方につく。その判断は、間違っていないと思う。ただ、父を説得できなかったのは残念だ」

「殿は足利方に一度寝返り、そこから更に吉野の帝に寝返り直しています。もはやこれ以上の寝返り直しはできぬと定めておられるのでしょう。さすがに武士としての面目が立たぬ、と」


 もっとも、それは主一人の面目である。

 少年や男の面目には一切かかわりがない。

 そんなものに付き合わせられてたまるか、という思いがあった。


「鎌倉の家長いえなが殿とは既に話をつけております。両者の結束を確かなものとするため、家長殿の妹御を当家に迎え入れるという件も」

高経たかつね殿も承諾されたか」

「はい。京の尊氏たかうじ殿・直義ただよし殿も」


 そこまで話を通しているということは、少年や男ももはや後に退けないということでもある。

 ここで動かなければ、家長だけでなく高経や尊氏・直義たちの顔に泥を塗ることになるのだ。


「相分かった。では動くとしようか、禅可ぜんか


 告げられた男――禅可は、加賀寿丸に平伏する。

 そして、大粒の涙をこぼしはじめた。


「御父君は私にとって良き主でした。今日、このときまでは」


 涙を流しながら面を上げ、禅可は高らかに声を張り上げる。


「これよりは、加賀寿丸様こそ我が主。そして我ら新たな宇都宮は――鎌倉につき、北畠と戦いまする!」


 やっとあの面倒な主と決別できる。そんな晴れやかな心持ちで泣きながら、芳賀禅可は新たな主に宣言した。

 この瞬間、下野国の雄・宇都宮氏は――足利方と後醍醐方に分かれ、相争う道を進み始めたのである。

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