第63話「利根川の戦い(壱)」

 北畠きたばたけ顕家あきいえの軍勢が、本拠地である霊山りょうぜん城を出発したのは八月のことだった。


 以前、後醍醐ごだいごに反旗を翻した足利あしかが軍を追うように京へ出発したのは冬のことである。

 あのときは緊急事態ということもあって強行軍で向かわざるを得なかったが、そのせいでかなり無茶な往路となった。

 今回の出発を夏にしたのは、そのときの苦い経験があるからというのも理由の一つである。


「しかし、帝はやきもきされていることでしょうな」


 そう語りかけたのは馬上の顕家である。

 語りかけられたのは、輿の中の幼い少年だった。


「構わぬ。十分な準備もせぬまま急行したところで意味はない。ならば、万全に整えてから――良い時期に向かえば良い」


 奥州の軍勢を率いているのは北畠顕家である。

 しかし、この集団のトップとして君臨しているのは、この幼い少年――義良のりよし親王だった。

 後醍醐天皇の皇子の一人で、新田にった義貞よしさだが擁していた恒良つねよし親王と同じく阿野あの廉子かどこを母としている。

 建武の新政の際、後醍醐は自らの皇子を地方統治機関のトップとして派遣していた。義良もその一人である。


 元服してさほど経たぬ少年ではあるが、奥州にあって顕家と共に安穏とは言い難い日々を過ごしてきた経験からか、奥深い山の気配を感じさせるところがある。


「冬は辛い。奥州は道が閉ざされ、坂東に出ても寒々とした大地が広がるばかり。大勢の者を引き連れて進むには辛い季節よ」

「仰る通りです。だからこそあのときは、無理にでも進み続けるしかなかった。足を止めては、兵粮も士気も損なわれてしまう」

「辿り着けば終わりというものでもない。敵が見えれば戦わねばならぬ。奥州の者たちは、不満を抱いていたことだろう」


 先年、顕家の軍は京に着いたとき既に疲弊しきっていた。

 休ませたいという申し出をしたのだが、足利軍を逃すことはできぬと、無理に戦わせなければならなくなった。


「殿下に気持ちを汲んでいただいた。それは、我ら奥州武士にとって救いでございます」


 顕家の側に控えていた結城ゆうき道忠どうちゅうが、控え目に声をあげた。

 俗名は宗広むねひろ。鎌倉幕府の御家人出身の老将で、後醍醐天皇に呼応して幕府から離反し、これを討ち滅ぼした。

 後醍醐からの信任は厚く、義良・顕家を支える奥州武士の一人として抜擢されている。


 一行は一旦足を止め、諸将を集めた。

 今後の方針を、改めて共有しておくためである。


「足利方も此度は坂東武士を手懐けているでしょうし、前のような強行軍は難しいことでしょう。無理をすれば足元をすくわれるかもしれませぬ」


 甲斐源氏の流れを汲む南部なんぶ氏の武士・南部師行もろゆきが声を上げると、隣にいた伊達だて行朝ゆきともが「うむ」と頷く。

 両者とも、義良・顕家によく従ってくれている後醍醐方の奥州武士である。道忠ともども、顕家軍の中核をなす存在だった。


「まずはしっかりと足掛かりを作らねばなりませぬな。さしあたっては――」

下野しもつけだな」


 顕家が伊達行朝の言葉を引き継ぐ。

 一行の視線の先には、奥州にとって坂東の入り口の一つとなる大地――下野国が広がっていた。


 小規模な戦いは既に何度か行われているが、今回の進軍はそれまでのものとは一線を画していた。

 最終的に上洛するための軍である。まずは下野の守護たる小山おやま氏を降し、そこから利根川を越えて鎌倉に向かう。


「坂東を従えているのは、足利の御曹司・千寿王せんじゅおうと、尾張おわり足利の家長いえながでしたな」

「それと、地盤を固めるため、西国から何人か将を派遣している。上野こうずけ上杉うえすぎ憲顕のりあき武蔵むさしこうの重茂しげもち上総かずさ薬師寺やくしじ公義きんよし――こやつらが国をまとめているのであれば、我らにとっては難敵となりましょう」


 道忠・南部師行の言葉に顕家は頷いた。


「これまで家長とは何度か戦った。いずれも我らが勝っている」

「油断は大敵です、顕家殿」

「分かっている。これまでずっと我らが勝っている。それが、逆に気がかりなのだ。敗北を知る者は、必死に勝つための思案を巡らせる。そのことは肝に銘じておかねばならない」


 道忠の忠告は、顕家にとってありがたいものだった。

 経験豊かな老将の言葉が、顕家を育ててきたという一面もある。


 改めて念押しするように言ったのは、周囲の奥州武士に注意喚起するためでもあった。

 奥州武士は坂東勢を蹴散らし、足利方を九州へ追いやった経歴がある。そのことについて自信を持つのは良いが、それで慢心しては何にもならない。


「行朝は情報収集を継続してくれ。味方に取り込めそうな武士は積極的に取り込んでいきたい」

「承知」

「師行は殿下の警固と、奥州から追いついてきた武士のとりまとめを頼む」

「はっ」

「道忠は私と共に来てくれ」

「小山城を攻めるのですな」


 小山城を拠点とする小山氏は、あのたいらの将門まさかどを討った藤原ふじわらの秀郷ひでさとの後裔と伝わる坂東有数の武士だった。道忠の結城氏とは元々同族でもある。

 鎌倉幕府においても有力氏族として名を馳せていた。ただ、先年の北条ほうじょう時行ときゆきの乱においては足利勢として北条勢と戦い、当主・秀朝ひでともが自害に追い込まれるという憂き目に遭っている。今は足利に従いつつ、幼少の子息が祖母や家人によって支えられているという状況だった。


 勢力としては大いに弱まっていると言いたいところだが、存外よく粘っている。

 まずは、これを落とさなければならない。


「力攻めでなくとも良い。なにか思案があれば申し出て欲しい」

「承知しました。少々、時間をいただければ」

「頼む」


 道忠に頭を下げると、顕家は集まった奥州武士の顔触れを見渡した。

 世が変わろうとしている。そういう時節でなければ、出会うことのなかった者たちだろう。

 最初は住む世界が違うのだと感じることが多かった。戸惑いや忌避感もあった。だが、今は頼もしき同胞である。


「坂東を手中に収める。皆、力を貸してくれ」


 顕家の言葉に、道忠・南部師行・伊達行朝をはじめとする武士たちは、一斉に「応」と応えた。




 奥州勢が本格的に動き始めた。

 その動きを掴んだ坂東の足利勢も、同じ頃に鎌倉へと集まっていた。


 首座にあるのは尊氏の子・千寿王。

 その脇には母である赤橋あかはし登子なりこ

 二人の代理として諸将をとりまとめているのは家長である。


 今回の席には、鎌倉に近い相模さがみ・武蔵の武士だけでなく、上総・下総しもうさ・上野の武士も集まっている。

 坂東の足利勢の力を結集しなければならない事態である。皆、その認識をもってこの場に臨んでいた。


「北畠顕家率いる軍は、先年の上洛のときほどではないが、かなりの数という話だ」


 家長は諸将の前に坂東の地図を広げ、顕家の軍に見立てた石を次々と配置していく。

 その報告をもたらしたのは、先日まで奥州付近で諜報活動に勤しんでいたみなみ宗継むねつぐだった。

 彼は異変を察知するとすぐさま鎌倉へと引き返してきた。宗継配下の者はまだ現地に残って偵察を続けているとのことだが、このような状況下である。いつまで連絡が来るかは分からない。


「大軍ということであれば、やはり下野から上野・武蔵を経由してここ鎌倉を目指す形になりましょうな」


 憲顕が地図をなぞって示した顕家軍の進軍ルートに、異論を挟む者はいなかった。

 最終的に上洛するなら越後を迂回していくのは遠回りだし、坂東勢をそのままにしておいては留守中の奥州を叩かれる可能性がある。準備を整えてから坂東勢を叩き潰し、後顧の憂いを断ってから駿河するが遠江とおとうみを経由して京に向かうのが定石だろう。


「小山氏への救援についてはいかがされるつもりですか、家長殿」


 重茂が尋ねると、家長は地図上に新たな石をいくつか置いた。

 いずれも下野国の中である。


「下野は奥州と接しているということもあってか、以前より調略の手が伸びていた節があります。旗幟を明らかにしていない者たちも多い。利根川を渡ってしまうと、こちらに戻るのも一苦労でしょう。迂闊に乗り込むのは危険です」

「では――」

「無論、小山氏を見捨てるわけでもありません。小山氏は足利にとって大きな味方ですし、今あの家を切り盛りしているのは私にとって大叔母にあたる方ですから」


 家長の祖母――高経の母と小山氏当主の祖母は、共に長井ながい時秀ときひでの娘である。小山一族の危機は、家長にとって他人事ではなかった。

 なお、京にいる無口な長井挙冬は時秀の曽孫にあたる。挙冬にとっても、小山氏当主の祖母は大叔母だった。たくましい人だと、重茂は挙冬から聞かされたことがある。


「既に手は打ってあります。それが実を結ぶかは、まだ分かりませんが」


 具体的なことを家長は口にしなかった。

 秘密裏になにかを進めているということなのだろう。であれば、この場でこれ以上追及する必要はない。


 坂東の伝統的雄族である小山氏は、有力な足利与党でもある。

 これを見捨てて坂東武士の心が離れるようなことが起きれば一大事だが、既に動いているのであれば問題はないだろう。


「まずは下野で敵を抑えます。これは下野の味方と、私にお任せください」

「その間に、我らは戦支度を整えれば良いのですな」

「はい」


 重茂に頷くと、家長は真っ直ぐに地図上の一点を指し示した。

 坂東において大きな存在感を示す大河――利根川である。


「ここに、防衛のための陣を設けます」

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