第62話「荒涼たる坂東(陸)」
薄暗い山道を抜けて
その日、重茂は守護所の主――上野守護・
「憲顕殿、厄介をかけた。俺は明日にでも武蔵へと戻ろうと考えている」
「調子はどうだ、重茂殿」
「身体の方は問題ない。何人か郎党を失ったが、それは仕方ないだろう。それより問題は――」
「
恵清があの場で重茂を急襲してきたことの意味を考えると、どうにも
重茂が北条残党と――特に中心人物である
上野守護所に居候しつつ、重茂は郎党たちを動かして信濃近辺の動向を探った。
しかし、今日に至るまで何の痕跡も見つけられずにいる。時行はおろか、恵清たちもあれ以来行方知れずだった。
信濃は奥深い山の国である。信濃守護である
「分からぬ以上、ある程度人を割いて見張り続けるしかないと考えている。武蔵では
「ではこちらは、
東北から
両面を警戒するのは大変だが、備えを疎かにするわけにはいかなかった。
「それで、武蔵に戻ったあとはどうするのだ? また信濃に出向くというわけでもあるまい」
「小笠原殿には、北条から襲撃を受けたことを報告するついでに、佐久郡の一部で材木を調達する許可を得た」
「郎党に行かせたのだな」
「さすがに襲撃されて負傷したということなら、俺が直接行かずとも非礼にはなるまい」
実際は負傷というほど重い傷があったわけではない。
ただ、そういう体で上野守護所に引きこもり、余計な雑事がこれ以上飛び込んでこないようにしたかった。
無論、仮病を使ってサボっていたわけではない。北条氏の動向を探りつつ、奥州情勢の調査、京とのやり取り等は行っていた。やることはいつも山積みである。だからこそ、これ以上仕事を増やしたくなかった。
「
「ここで奥州勢を防ぐのであれば、長陣になるからな」
戦に参加する武士は、武具・兵粮を持参するのが基本だった。しかし、長期間の戦となると、手持ちの兵粮だけでは足りなくなってくる。そうなると、現地調達を行うか地元に戻るかという話になる。
防戦の場合、現地調達は自勢力の領地からの徴収ということになるが、これを立て続けに行うと農民が不満を抱いて敵対してくる可能性がある。地元に戻られては戦力ダウンになるので、そちらもできれば避けたい。
そういう事情により、兵を募る側が用意する必要性が出てくることもあった。
「ようやく戦か。来るならさっさと来て欲しいものだが」
重茂と憲顕のやり取りを聞いていた
「なにを言っている。そんなすぐに来られては万全の体制で迎え撃てんだろう」
重茂が苦言を呈すると、直常は「そうは言うが」と反論してきた。
「来ると分かれば皆、戦支度に専念するだろう。いつ来るか分からないからぐだぐだと動いているんだ。それに、奥州勢が来れば向こうに内応しているような連中も動きを見せる。北条だって動くだろうし探す手間が省けるというものだ。俺から言わせれば、いつ来るか分からぬ今のような状態が続くのが、一番厄介だと思うがな」
「言いたいことは分からなくもないが、危険な橋を渡ることになる」
「戦というのは総じて危険なものだ」
「危険にも度合いというものがあるだろう」
直常の言うことにも一理あるが、それは彼が戦備を整えなければならない側にいないから出てくる意見だ、と重茂は見た。
一国を預かって指揮を執る。直常はその辛さが分かっていない。
「上野国は表面上静謐だが、ところどころできな臭い動きがあるのだ、重茂殿」
両者の口論を抑えるかのように、憲顕が口を挟んだ。
「ただ、決定的な証拠を握るところまではこぎつけていない。ゆえに、いささかやきもきしている部分もある」
「戦が始まれば、白黒はっきりするというわけか」
「戦になる前に白黒はっきりとすべきなのだがな。望むようにはならぬ」
それで議論は収まった。どのみち、結論など出ようもない議論である。
「重茂殿。武蔵に戻られたあと、もし鎌倉へ行くことがあれば
「退路?」
「桃井殿の言う通り、戦というのは結局のところ危険なものだ。十全の状態で戦えるとも限らぬ。必勝を期しつつ退路を抑えるということも必要と思うが」
「退路なら、先年の
「信濃のこともある。北条勢が南下して
弱気なことを言うものだ。
そう思いつつ、重茂は憲顕に頷いて応じた。
武蔵守護所に戻った重茂が鎌倉に向かったのは、それから数日後のことである。
信濃の情勢、武蔵の近況を伝えると、
「海路を、用意しておいた方が良いかもしれません」
そう言って、鎌倉から対岸にあたる
そこから更に、駿河湾を通過して西へ線を描いた。
「船が必要となる以上、陸路のように大人数で異動するのは難しくなります。これは、信濃の北条勢と奥州の北畠勢に囲まれたとき、少人数で逃れるための道と考えておいた方が良いでしょう」
「上総は現在、
「ええ。
薬師寺というのは、湊川の戦いで重茂たちと共に奮戦した薬師寺
彼は元々
「実のところ、小規模な戦は既にいくつか起きているのです。宗継殿がなかなか戻られないのはそのせいかもしれません」
そう言って家長は、北関東のいくつかの箇所に印をつけた。
上野の東側――奥州との接点が多い下野・常陸では、奥州勢につくことを決めた者たちも出始めている。
「打って出たい。そう思うこともあります」
「勝利を収めることができれば、諸国の武士から称賛されるでしょうな。負けたとしても、武士としての面目は立つでしょう」
「しかし、坂東の武士からの支持は失う。今の坂東は荒れている。続く戦乱によって、武士も寺社も農民も飢えている。奥州まで打って出るだけの余裕は残っていません」
そう言いながらも、家長の表情から諦めの色は見えてこない。
「それでも打って出たいと思うのですな」
「私は、栄えある坂東というものを知りません。物心つく頃には、もう北条の世は陰りが見えていた。あれほどあっけなく倒れるとは思っていませんでしたが」
「打って出れば、坂東の栄えが戻ると?」
「坂東から世を動かす。それができれば、坂東の誇りを取り戻せるのではないか。荒涼たる坂東に新たな風が起こせるのではないか。若輩者ゆえ、そのようなことを夢想するのです。実のところ、北条時行には嫉妬の念を抱いているほどです」
北条時行は、先年の乱で建武政権崩壊のきっかけを作った。
自身の栄華は為せなかったが、世を変える原動力となったのだ。
「私は殿から奥州総大将の大役を任されましたが、未だ何も為し得ていません。斯波の者として、足利高経の子として、このまま何事も為せず朽ちていくのではないか。そんなことを思うのですよ」
若くして大役を担うことになったが故に、なにかを為し遂げるということにこだわっているのかもしれない。
「家長殿は、歌はおやりになりますか」
「歌――ですか?」
突然の問いかけに戸惑いを見せながらも、家長は「基礎は学びましたが、あまり詠むことはないですね」と答える。
「歌を軽視しているわけではないのですが、日々やることが多く、鍛錬としては弓馬の道に関するもので手一杯で」
「では今度、歌会でもやりましょう。歌は己の在り様を見つめ直すのに良いのです。なにか得るものがあるかもしれません」
それが、重茂なりの気分転換への誘いだということが分かったのだろう。
家長は張り詰め気味だった表情を、少しだけ柔らかくして頷いた。
「世がもう少し静謐になったら、是非」
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