第61話「荒涼たる坂東(伍)」

 信濃しなのに向かう重茂しげもちの脳裏には、先年起きた北条ほうじょう時行ときゆきの乱のことが浮かんでいた。

 かの国は山脈が多く、深い緑に覆われている。陽が射す場所とそうでない場所――陰陽が複雑に入り乱れた地である。


 かつて信濃は、鎌倉政権における抗争等を経て、北条氏の影響下に置かれることになった。

 だが、その状況は後醍醐ごだいご天皇によって打ち壊された。北条氏に従い続けた者は逼塞することになり、後醍醐に味方した者たちが陽の当たる場所に出てきたのである。この点、武蔵むさしとも事情が似ている。他の北条氏勢力圏でも同じことは言えるだろう。


 加えて信濃は、その山深さ故に身を隠しやすいという利点もあった。

 北条時行については死亡しているという風説も流れているが、足利あしかが方としてはそういう楽観視はしていない。西国で会った恵清えしょうの言動から、生きてどこかに潜伏していると見ている。その最有力候補が、この信濃国だった。


 訪問を伝える使者を一足先に向かわせて、重茂は秩父から信濃に入ろうとしている。

 この地を逆に進軍する形で、北条時行は鎌倉に向かい、直義ただよしたちを撃破した。このとき足利方では多くの戦死者が出ている。あおい宗継むねつぐの兄であるみなみ宗章むねあきもその一人だった。


「仮に」


 ふと、重茂は側で歩いていた治兵衛じへえに声をかけた。


「北条殿が生きていてこの地にいたとして。……先年の乱のように武蔵から鎌倉に出てこられたとする。同じ頃合いに奥州から北畠きたばたけが攻めてきたら、我らはどのように動くべきだろうな」


 可能であれば、全戦力をもって坂東北部で北畠勢を抑えたい。

 しかし、そちらに気を向け過ぎていると、信濃の北条勢力に脇を衝かれる形になる。


「信濃のことは、小笠原おがさわら殿にお任せするしかありますまい」

「それは分かっている。分かっているが、いざ自分が守護になってみると、他の武士を束ねるということがいかに難しいか思い知らされる。それだけでも大変だというのに、北条殿が出てきたときの対応まで出来るのかどうか」

「そういう意味では、武蔵も決して油断はできませぬな」

「分かっている。だからこそ気が抜けず、あれこれと気になるのだ」


 武蔵も旧北条勢力圏であることは同じである。信濃と違って比較的開けた場所なので潜伏には不向きだが、内心北条や後醍醐に心を寄せる者がいても不思議ではない。


 実のところ、重茂には若干の焦りがある。

 まだ風説の域を出ていないが、それまで落ち着いていなかった奥州の情勢がまとまりつつあるというのだ。

 新田にった義貞よしさだの勢力が力を失った以上、後醍醐方にとって奥州の北畠勢は残り少ない切り札と言える。奥州が落ち着きつつあるなら、もはやいつ鎌倉に打って出てきてもおかしくない。

 直義が重臣の一人である宗継を派遣したのも、そういう不安があるからこそだろう。


 だというのに、武蔵国では迎撃態勢が十全に整っているとは言い難い。

 中小規模の武士は最低限の戦支度しか出来ておらず、河越かわごえ氏などの有力武士は重茂と協調しつつも独自勢力としての色合いが強いままである。

 一味同心して北畠に対峙できるのか、何とも心許ないものがあった。


「寺社への援助によって武蔵国の者どもからの心証が良くなれば、皆の心もまとまり、一丸となって北畠と戦えましょう」


 重茂の憂いを察したのか、治兵衛はそう言って快活な笑みを浮かべた。


「今も昔も、弥五郎様はやるべきことをやっておられます。それでだめなら、そもそもどうしようもなかったのだと諦めるより他にありますまい。天命だったと割り切って、次のことに臨めば良いのです」

「そのように考えることができれば、もっと気楽に生きられるのだがな」


 とは言え、他に妙策も浮かばぬ以上、治兵衛の言うようにやるべきことをやり続けるしかない。

 仕事でがんじがらめの人生になりつつあることを感じながらも、重茂は奥深き信濃の地へと入り込んだ。




 武蔵から信濃への道は、細く険しく、そして長い。

 山脈に挟まれた細い道を往く中で、重茂たちは不穏な気配を察していた。


「今日はここで休むとしよう」


 武蔵・信濃の間にある山脈を避けて迂回し、神流川に着いた辺りで重茂たちは足を止めた。

 南に広がる山脈の雄大さに感じ入りつつ、「あれさえなければもっと楽な道程だった」という思いもある。

 地理に明るい者がいれば無理をしてでも山道を突っ切ったかもしれないが、生憎この辺りは重茂も郎党たちも馴染みがない。


「この日ノ本において、分からぬ土地というものは多いな。その土地の者しか知らぬ隠し道や隠し里といったものも、おそらくたくさんあるのだろう。仮にあの中に北条勢が潜んでいるとしても、俺には見つけられそうにない」

「弥五郎様。先程から周囲を何者かが窺っているようですが」

「分かっている。姿を見せぬ以上、敵と思った方が良いであろう」

「仕掛けてくる様子もなさそうです」

「まだ日が沈んでいないからかもしれぬ。夜は必ず見張りを三名立てるようにせよ」


 陽が落ちると、周囲は闇に包まれた。

 野営のための焚き火と、見張りのための篝火がわずかな灯りを発するのみである。


 やがて人々がすっかり眠りに落ちる頃、重茂たちの野営目掛けていくつもの矢が射かけられた。

 入念に、討ち漏らしがないよう何回かに分けて大量の矢が放たれる。

 周囲に再び夜の静けさが戻ってくる。野営地の中で動く者は、一人もいなかった。


 矢を射かけた者たちが、慎重な足取りで近づいてくる。

 標的を仕留めたことを確認するためだろう。篝火に近づいて明らかになった男たちの顔触れの中には、あの恵清――北条泰家の姿もあった。


「恵清殿」


 先頭にいた男が切迫した声を上げた。

 男が確認した死体は、死体ではなかった。そこそこの大きさの荷物に、布を被せただけのものである。


 恵清が咄嗟に周囲を警戒したとき、近くに隠れていた重茂たちが一斉に姿を見せた。

 全員、既に矢をつがえている。


「久しいな、恵清」

「相見えるのは湊川以来か、高重茂」


 形勢逆転、窮地に陥ったはずの恵清たちだったが、慌てる素振りは見せない。

 さらに後詰がいるのかもしれない。その場合、重茂たちは挟み撃ちにあう。

 無論、いない可能性もある。だが、あまり悠長にしている余裕はなさそうだった。


「そなたがここにいるということは、やはり北条勢はこの信濃に潜んでいるということか」

「わざわざ敵にまことのことを教える道理はないな」

「そうだな。そなたが本当のことを言うとは思えぬ。それよりは、ここで討って後顧の憂いを断つ方が良い」


 重茂は即断した。手を振り上げて、矢を射かけるよう合図を出す。

 しかし、治兵衛たちが矢を放つよりも先に、恵清は偽装工作に使われた重茂たちの荷物をぶちまけた。

 ただでさえ薄暗い状況の中、視界に余計なものが飛び込んできたせいで、重茂たちの反応がわずかに遅れる。


 その隙を突いて、恵清は重茂目掛けて大薙刀を振り下ろしてきた。

 咄嗟に刀で受け止めたものの、あまりの勢いに重茂の両手は痺れを起こした。

 恵清は、怪力無双で知られる大高だいこう重成しげなりと同等の力を持つ。重茂も武勇に自信がないわけではないが、さすがに恵清相手に正面から戦うのは分が悪かった。


「偽装も判断の早さも上々だが、それでも貴様は俺には勝てん」

「ぐっ……」

「ここで武蔵守護を消すことができれば、今後の戦も有利になろう。ここで始末させてもらうぞ」


 言いながらも、恵清は重茂の腹を蹴り飛ばした。

 腕の痺れもあって、重茂の動きが完全に止まる。


 だが、恵清の追撃はなかった。

 その寸前、周囲を細々と照らしていた篝火が不意に消えて、周囲が完全な闇に包まれたからである。


「弥五郎様」


 近くで治兵衛の声がした。

 腕の痺れはまだ消えないが、足は動く。治兵衛の案内に従って、重茂は命からがらその場から逃れた。




 その場に残された恵清が火をつけると、周囲にはいくつかの死体が転がっていた。

 しかし、死体の中に重茂はいない。重茂の郎党と恵清配下の者、それぞれが同程度死んでいるだけだ。


「逃げられたか」

「追いますか」


 生き残った配下の者たちの問いかけに、恵清は頭を振った。


「既に時行は武田たけだの手引きで伊豆に着いた頃だ。先程の様子から、高重茂は我らの動きには気づいていないと見て良いだろう。ならば、当面は捨て置いても構うまい」

「できれば武蔵守護を討ち取っておきたかった、というのが本音です」

「だが紙一重で仕損じた。あそこで欲を出してこちらが返り討ちにあっては、元も子もない」


 久々に敵と戦った。

 その高揚感を抑えつつ、恵清は周囲の闇を見渡した。


「戦いのときは近い。奴はそのとき討てば良かろう」

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