第60話「荒涼たる坂東(肆)」

 武蔵むさし守護所に戻った重茂しげもちたちを出迎えたのは、馴染みのある顔だった。


「おお、戻ったか。入れ違いになったと聞いたので、こちらで待たせてもらったぞ」

宗継むねつぐ


 庭先で木刀を片手に汗を拭いながら、みなみ宗継が晴れやかな笑顔を向けてきた。

 この男の笑みには嫌味がない。敵意もない。こういう人受けの良さは天性のものだと、重茂などはつくづくと思う。


あおいから話は聞いた。鎌倉まで葵たちを連れて来てくれたそうだな。礼を言う」

「礼などと水臭い。それに、あの姉上の頼みを断るなど、恐ろしくて出来ようはずもないだろう」

「あら、随分な言い草ね」


 重茂の後ろからひょっこりと葵が顔を出すと、宗継の笑顔が僅かにこわばった。

 まさか武蔵に来るとは思っていなかったらしい。元々は椿つばきと共に鎌倉に滞在する予定だったのだから、無理もないことだった。


「昔からあれこれと世話を焼いて上げたのに、こんなことを言う弟に育つなんて。姉としては悲しいわ」


 そう言いつつ葵は、流れるような動きで馬から降りて、重茂たちが反応する間もなく宗継の手にあった木刀をそっと奪った。


「いや、姉上。なぜ木刀を?」

「なぜかしら」

「なぜ構えを」

「なぜかしら?」

「それくらいにしておけ。仲の良い姉弟なのは良いことだが、除け者にされると俺は少し寂しい」


 重茂が笑いながら言うと、葵はすんなりと木刀を宗継に返した。

 宗継が安堵の息をもらすのを見て、重茂は馬から降りる。


「では、まずは奥の間で話でもしようか」




 宗継が坂東にやって来たのは、奥州の北畠きたばたけ顕家あきいえの様子をその目で確認するためだった。

 また、それに合わせて坂東諸国の足利あしかが方の状況を把握しておきたいという思いもあるらしい。


「越前の新田にった勢との戦いが一段落ついたことで、直義ただよし殿の目は東国情勢に向けられるようになったというわけだ」

「新田は落ちたか」

師泰もろやす殿と尾張おわり殿の粘り勝ちといったところだな」


 比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじから後醍醐ごだいご天皇の皇子である尊良たかよし恒良つねよし親王を奉じた新田義貞よしさだは、この少し前に足利方の高師泰・足利高経たかつねらの軍勢によって追い落とされた。義貞自身の生死は情報が錯綜していてよく分からないが、尊良は自害し、恒良親王は足利方が身柄を押さえた。そのため新田軍は遠き吉野よしのの後醍醐を頼りにする他なくなった。勢力としては決定的に弱体化したと言って良い。


 楠木くすのき正成まさしげが世を去り、新田義貞が力を失い、九州の菊池きくちも上洛するような余力はない。

 そうなると、足利方が気にするのは奥州の北畠顕家軍になる。

 なにせ、北畠軍は一度上洛して足利を敗走させたという実績があるのだ。同じようなことが起きないとは言えないだろう。


 尊氏たかうじたちが直接奥州に軍を率いていくことができれば良いのだが、吉野に後醍醐がいる以上、京を手薄にすることができない。

 また、伊勢いせでは顕家の父である親房ちかふさが蠢動している気配がある。畿内近隣はまだまだ予断を許さない状況が続いていた。


 重茂もまた、宗継に武蔵国の状況をありのまま伝えた。

 河越かわごえ氏や高坂たかさか氏をはじめとする曲者の古豪、そして経済的に余裕のない山内やまのうち経之つねゆきらのような新興勢力。

 彼らの手綱を握る難しさもあるが、それに加えて寺社の復興要請まで出てきている。


「悩みはそれだけか」


 一通り話し終えると、宗継がなにかを見透かしたような眼差しを向けてきた。


「それだけか、とは?」

「どうも俺の話を聞いているときから、心ここにあらずという様子だったのでな。一通り話し終えた今もなおそんな様子だから、別の悩みでもあるのかと思ったのだ」

「そうそう、東勝寺とうしょうじに行ってからずっと変なのよ」


 重茂の側でずっと話を聞いていた葵も、怪訝そうな眼差しをぶつけてくる。

 二人とも重茂との付き合いは長い。些細な心情の変化にも、すぐに気づいてしまうのだろう。


 東勝寺という名を聞いて、宗継はどこか合点がいったようだった。


「もしや――会われたのか?」

「……その口振りからすると、おぬしも知っているのか」

新熊野いまくまの殿のことであろう」


 宗継の言葉に、重茂は頷く。

 一人理解が追い付かない葵だけが、疑問符を浮かべていた。


 言うべきかどうか少し迷ったが、そのうち葵も知ることになるだろうとみて、重茂は伝えることにした。


「そなたが今日東勝寺で会った子――新熊野殿は、殿の、足利の殿の御子なのだ」


 今や時の人となった足利家惣領・足利尊氏。

 東勝寺で大人顔負けの稽古をしていた新熊野は、その血を引く子どもなのである。

 鎌倉に君臨する千寿王せんじゅおうにとっては、兄であった。


「……本当に?」

「あまり知られてはいないがな。おそらく本人も知るまい。千寿王様も知らぬ。ただ、御方様はご存知と聞いている」

「俺は此度出立する前日、殿から内々で伝えられた。他に知っているのは直義殿や五郎殿など、足利宗家の一部の者だけだそうだ」


 重茂が聞かされたのも、坂東出立の少し前のときだった。

 千寿王をよろしく頼むという話から、もう一人の息子の話になったのである。


「しかし、新熊野殿がどうかされたのか。東勝寺で問題でも起こしていたのか」

「いや、問題はない。むしろ相当優秀なようでな。子どもながら周囲から一目置かれているようだった」

「ならば良いことではないか」

「だが、いつか将軍になりたいと語っているらしい」


 将軍という言葉に、葵と宗継は押し黙った。

 なろうと思ってなれるようなものではない。ましてや、仏門に入れられた武家の子には到底敵わぬ願いである。


「それ自体は、まあ、良い。子どもの言うことだからな。だが、どうも新熊野殿にそういうことを吹き込んでいそうな、胡散臭い坊主がいる。妙吉みょうきつという奴だ」

「新熊野殿の出自を知っている、ということか」

「知っているようにも、知らぬようにも見えた。あのままにしておいて良いものか、ずっとそのことを考えている」


 足利の子を使って何か悪だくみをしようとしているなら、これは早急に潰しておかねばならない。

 しかし、証拠はなにもない。証拠なしで妙吉を討ち取ってしまうという手もあるが、北畠との戦への備えを考えると、いたずらに波風を立てるのも上策とは言い難かった。


「――なら、ときどき私が行って様子を見ておくわ」


 苦悩する重茂を見かねたのか、葵が膝を前に進めて申し出た。


「良いのか?」

「ええ。それが足利の、ひいては当家のためになるなら」


 武蔵守護所と鎌倉を何度も往復するのは、決して楽ではない。

 だが、それを厭うような気配は葵から感じ取れない。


 重茂には他にもやらねばならないことは山ほどある。

 ここは、葵の厚意に甘えることにした。


「すまぬな。いつもそなたには助けられている。俺は良い伴侶を得た」


 重茂の感謝の言葉に、葵はかすかにはにかんでみせた。




 思った以上に、反応が悪い。


 武蔵の武士を集めての読み書きの学習を行う場で、重茂は寺社復興について助力できないかを各自に尋ねた。

 聞かれた者たちの表情は、一様に冴えない。


「寺社の復興はもっともなことだが、他所になにかをしてやれるほどの余裕は、今の当家にはありませぬ」


 苦渋の表情でそう告げたのは、安保あぼ泰規やすのりである。

 安保氏は領地を各地に持っている有力な武家だが、元来の惣領は北条ほうじょうと共に滅び去り、分家筋である光泰・泰規親子がその跡を継ぐことになったため、まだ一族や領地をまとめきれていない。抱える郎党の人数もそれなりの数になるため、傍から見える程の余裕はないというのが実情だった。


 もっとも、安保氏はまだマシな方である。

 山内経之らはもっと余裕がない。自分たちの家を保つだけで精一杯であり、寺社になにかを回すような余力はなかった。


「申し訳ありませぬが、当家も今の時期に寺社へと回せるものはありませぬ」


 キッパリと言い切ったのは、河越直重ただしげである。


「銭でなくとも良い。材木などの資材、あるいは人足でも良いのだが」

「大和権守殿。俺とて仏を蔑ろにしたいわけではないのです。ただ、今は北畠に備えるのが第一ではありませんか」

「それに今復興したところで、北畠勢が来れば、また燃やされる恐れもあります」


 直重に助け舟を出すように、高坂氏重うじしげも懸念材料を示してみせた。

 無論、それは重茂も分かっている。分かっているが、なにもしないわけにもいかないという立場なのである。


「情勢が落ち着き坂東に平穏が戻れば、寺社の復興もやりやすくなるでしょう。そのときは我が一族、助力は惜しみませぬ」


 直重の言葉が決定打となってしまった。

 他の武家も皆、口をそろえて「そのときがくれば」を理由に断りの言葉を述べていく。


 半ば分かっていたことではあるが、重茂は頭を抱えるしかなかった。




 読み書きの場にいなかった他の武家にも連絡してみたが、色よい返事があったのは寺社とのかかわりが深い一部の武家からのみだった。おそらくそういう家は、重茂たちが催促せずとも復興に手を貸していただろう。実質催促の成果はゼロである。


「いかがいたしましょうか、弥五郎様。あまりこの問題を長引かせては……」

「寺社・武家双方からの心証が悪くなるな。こうなれば我ら自身でどうにかするしかあるまい」


 元々は坂東の寺社に足利の影響力を広げるための方策の一環なのである。

 できることなら、足利の人間が動くのが一番だった。


「治兵衛、郎党を使って武蔵国内のあぶれ者を探させよ。そして寺社の復興のための人足とするのだ」

「あぶれ者を、でございますか」

「人手が足りぬのだ、やむを得まい」


 戦乱が続く世の中だけあって、没落してあぶれ者になる者も少なくない。

 問題を起こす者もいるので守護としてはありがたくない存在だったが、そういう者たちの力も必要になるときがある。


「ただ、監察役は当家から出すようにしておけ。問題が起きたとき取り締まる者が必要だ」

「報酬はいかがいたしましょう」

「銭はこちらもさほどあるわけではないし、寺社も出せる程の余裕はあるまい。兵粮の蓄えから少し出して、それをやれば良い」


 戦に備えて、兵粮は少しだけ余裕をもって蓄えている。

 それを使うのはいささか不安があったが、背に腹は代えられない。

 もし実際の戦のときに足りなくなりそうなら、現地調達に切り替えるしかなかった。


「あとは資材ですな」

「武蔵国内からの調達は難しい。近くの国から貰い受けることにしよう。宗継が次は上野こうずけ国に向かうそうだから、憲顕のりあき殿に言伝を頼むことにするかな」


 言いながら、重茂は立ち上がった。

 上野国からも調達できるという保証はない。他の国との交渉も並行で進めておいた方が良いだろう。


「どちらへ?」

信濃しなのへ行こうと思う。あそこなら材木も豊富と聞くし、秩父郡を経由すれば武蔵との道もあるにはある」

「資材の運搬は大変そうですな」


 なにしろ信濃は険しい山脈の国である。

 普通に行き来するだけでも大変なのだ。資材を運ぶとなればなおさらであろう。


「そもそも資材がなければ話にならぬからな」

「それにしても、弥五郎様ご自身が行かれるのですか」

「信濃守護の小笠原おがさわら殿とはあまり面識もない。面倒ではあるが、まずは俺自身が出向いて頼まなければ角が立つだろう」


 今でこそ同じ守護だが、源氏の元御家人と、それと同格だった御家人の家人という出自の差がある。

 礼を尽くして話を通しておかなければ、禍根が残る可能性があった。それで小笠原氏が敵に回ったとあらば大失態である。


「されど、信濃と言えば北条殿が潜伏しているという話もありますが」

「潜伏しているというからには山奥深いところにいるのであろう。あそこも広い国だ、そうそう出くわすようなことはあるまい」

「念のため、私も含め護衛はしっかりと用意させていただきますぞ」

「小笠原殿を刺激しない程度の人数に抑えてくれ」


 戦支度も楽ではない。

 そろそろゆっくりと身体を休めたいものだと思いつつ、重茂は旅支度を急いだ。

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