第65話「利根川の戦い(参)」

 宇都宮うつのみや軍の中核をなす紀清きせい両党りょうとう足利あしかが方に転じたという一報は、すぐさま北畠きたばたけ顕家あきいえの陣にも届いた。

 今、顕家の前では宇都宮公綱きんつなが膝をついていた。その表情は硬く、怒りや悔しさ、恥ずかしさがないまぜになっているように映る。

 そんな公綱の周囲を、顕家側近の諸将が囲んでいる。一見すると弾劾裁判の如き様相である。


「……まことに、面目次第もございませぬ」


 絞り出すようにそう告げる公綱に、「謝って済むことか」と南部なんぶ師行もろゆきが鋭い声を上げる。

 公綱は師行を睨み返したが、言葉は抑えた。明らかに非は公綱の方にある。


「こういう時勢だ、寝耳に水というわけでもなかろう。此度のこと、兆しのようなものを宇都宮殿も感じていたのではないか」

「確かに、家中で私の方針に異を唱える声はありました。が、それでも最後は皆従うと決めていたはずなのです」

「その取り決めをただ信じたのか。対策は取っていなかったと?」

「……」


 師行の詰問に、公綱は押し黙った。

 対策を取らなかったのではなく取れなかったのではないか。そんな思いが顕家の脳裏に浮かび上がる。

 嫌な予感というものがあったとしても、それに対しいつも有効な手が打てるわけではない。顕家自身、そういう経験はある。


「家が割れるということは、よくある」


 そのとき、やんわりと声を上げたのは結城ゆうき道忠どうちゅうだった。


「かくいう我が結城の家も、私の白河しらかわの家と下総しもうさの家で割れてしまった。家が大きくなり、人が増えれば、一つにまとめることはより難しくなっていく。宇都宮の家は、それだけ大きいということであろう」


 道忠はじっと公綱を見据えている。

 言葉は優しげだったが、その眼差しは決して好々爺のそれではない。


「紀清両党の離反は痛い。痛いが――そのような不測の事態に直面してなお我が陣に残った公綱殿の忠節は、まこと見事なものと思われる。このような勇士をこれ以上責め立てるのは、いささか心が痛む」


 公綱の表情から血の気が引いていく。

 表面上は、師行に責められた公綱をフォローする言葉である。しかし、実際は彼の退路を断つ呪いの言葉だった。


 師行に面罵されたままであれば、公綱は北畠の陣を引き払って紀清両党に合流する口実ができる。

 しかし、諸将の前で「残り続けた忠節」を褒め称えられては、もはや北畠軍の中で死力を尽くし続けるしかない。


 これは、道忠と師行が事前に示し合わせ、顕家の許可のもと行われた一種の策である。

 紀清両党という軍事力は欠けたが、宇都宮公綱が坂東を代表する武士の一人であり、宇都宮の当主であることに変わりはない。

 その声望は、坂東の武士を味方につける際に役立つであろう。忠節を尽くす者には手厚く報いるという例にもなる。そういうメリットも踏まえて、道忠は公綱の退路を断って抱き込むことにしたのだった。


「公綱殿。これからもその忠節を忘れず、我らに力を貸して欲しい」


 顕家が告げると、公綱は観念したかのように頭を垂れた。

 惨いことをしている。そういう良心の呵責はあったが、これが武門の道なのだと顕家は言い聞かせた。

 今後、公綱は子息と血で血を洗うような争いをしていかねばならない。その道を整えた者の一人に、顕家はなった。


「――そうそう。家が割れるという話、もう一つ事例がありましてな」


 公綱の件が一段落ついたのを見計らい、道忠は兵に命じてある一団を陣幕の中に引き入れた。

 招き入れられたのは、二つ頭左巴の紋が描かれた旗を持つ兵の集団。二つ頭左巴は、小山おやま氏の家紋である。


 今まさに戦っている相手の家紋を目にして、諸将の間に動揺が走る。

 この話を予め聞いていた顕家と、呼び込んだ道忠だけが平静のままだった。


「小山家中も、このまま足利方に付き従って良いのかと思う者たちと、頑迷な者たちに割れているようで」

「足利方は小山城の危機に動く気配をまるで見せないのだ。無理もない」


 顕家の言うように、現在足利方はこの下野しもつけ国まで入ってくる様子がない。初戦で上野こうずけの軍勢が駆けつけてきたが、それ以降は音沙汰なしだった。

 利根川の辺りに布陣して防備を固めているとの報告があるので、おそらくそこで迎え撃とうという腹積もりなのだろう。


 実際は、野伏の類と思しき素性怪しげな者たちが蠢いているのだが、その件について顕家は沈黙すると決めている。

 そういう手合いは伊達だて行朝ゆきともの手の者が尽く打ち果たしているから問題はない。

 足利方は下野を見捨てた。そう思わせることが肝要だった。


「今家を仕切っているのは先々代・貞朝さだとも公の奥方と聞く。だが当主はあくまで亡き秀朝ひでとも公の御子息。今はご家中が混迷の中にあるため誤った道を進まれているのであろう。小山殿が正しき当主のもとで一つになることを、この顕家、切に願っている」


 詭弁である。そう分かっていながらも、顕家は淡々と小山の兵に声をかけた。

 どんな手段を使ってでも、味方を増やし、この坂東を制さなければならない。

 その使命の前では自分自身の思いなど些事である。顕家は、そう自分に言い聞かせている。




 早く軍勢をまとめなければならない。

 切迫した状況だったが、武蔵むさし国の武士の集まりはあまり進んでいなかった。


「率直に申し上げると、此度の戦は下野だけのことになるのではないかと思う者が多いのだ」


 催促しに河越かわごえ氏の館を訪れた重茂しげもちに、当主・高重たかしげはそんなことを言った。


「以前北畠軍が上洛したときに比べると、此度は明らかに歩みが遅い。小山城を攻めることにこだわっているように見える。上洛を志すのであれば、無視して一気に上野・武蔵に向かって来るのではないか――ということでな」

「下野の戦だとしても、小山城が落ちれば坂東に楔を打ち込まれる形になる。いつまでも他人事とは言っておられぬ。そう言って説き伏せてはいかがか」

「無論、守護殿が動けと言えば動くであろう。しかしな――」


 高重の反応も鈍い。周囲がなかなか動かないと言ってはいるが、そもそも高重自身があまり乗り気でないのだろう。

 防衛戦はその性質上、敵の所領召し上げがやりにくい。そのため恩賞に対する期待感も薄く、自らの所領が直接脅かされるようなことがなければ参戦する理由に乏しいのである。


「北畠軍が南下する姿勢を見せれば良いのだが、今のところそういう知らせはまだない。上洛のための戦と称してはいるようだが」


 守護所に戻った重茂を前に、みなみ宗継むねつぐが下野の状況を説明した。

 今も宗継配下の者たちは、懸命に下野の動向を探っている。

 顕家の本陣を狙うことも考えているようだが、そのために動いていた者たちは尽く消息を絶っていた。


「初戦で下野に乗り込んだ上杉勢を追わなかった辺り、まずは下野を確実に手中に収めようという方針なのだろう。だからこそ、武蔵の武士にとっては他人事のように思えてしまっているのかもしれない」


 北畠軍が下野に侵攻した当初、憲顕は軍勢を差し向けて北畠勢と対峙させた。

 小山城を攻める北畠への牽制目的である。ゆえに本格的な戦には発展しなかった。

 引き払う上杉勢に対し、北畠勢はまったく追う気配を見せなかったらしい。


「他人事どころか、俺はその話を聞いて恐ろしくなったものだがな」

「それだけ北畠勢の統率が取れているということだからな」


 重茂の言葉に宗継が頷く。

 まとまりのない集団であれば、退却する敵勢を追いかける者たちが出てもおかしくない。

 上杉勢に加わっていた桃井直常などは、そういう手合いが来たら討ち取ってやろうと待ち構えていたという。

 しかしその気配は微塵もなかった。あれは容易ならざる敵だと、直常は苦々しくぼやいたそうである。


山内やまのうち安保あぼ等の武士は支度を整えつつある。いざとなれば、彼らのみを引き連れて利根川に向かうしかないか」


 河越氏を中心とする武蔵平氏の存在は大きいが、それに引きずられるわけにもいかない。

 秋の訪れを感じさせる守護所の庭を眺めながら、重茂はかつて見た奥州の軍勢に想いを馳せた。

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